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2020年4月25日土曜日

DV女たち

精神科医宮地尚子さんのDVの定義「親密領域において個人領域を奪うこと」というのがあるそうで、ネットで検索したら次の抜粋がある。



DVの定義「親密領域において個人領域を奪うこと」
「支配としてのDV--個的領域のありか」宮地尚子,2005年
親密な関係における恐怖政治
DVとは、たんにカツとなって親密な相手を殴る蹴るというものではない。DVとは、恐怖によって親密な相手を支配することであり、親密な関係における恐怖政治である。身体的暴力は見えやすくわかりやすいため、DVの重篤さの指標にはなるが、悪質さは、加害者がどれだけ被害者の心理や行動を支配しているかで見た方がよい。恐怖によって国民を操作する全体主義国家が、あからさまな暴力をいつも必要とするわけではないのと同じである。
DVは親密な相手を支配すること
DVは親密な相手を支配することである(…)。支配することは、相手の個的領域を奪い、すべてを親密的領域にするということである。例えば、被害者の携帯電話の通話やメールの送受信履歴、インターネットの履歴をチェックする。日記や反省文を書くことを強要したり、家計を一円まで、レシートを一枚一枚チェックする人もいる。被害者が選んだ服や髪型にはけちをつける。外出の際も、どこに行くか誰といるかを繰り返し確認する。やがて被害者は友人や家族との連絡も控えるようになり、孤立し、ますます加害者の言動に敏感になり、加害者の機嫌に一喜一憂するようになる。
DVに関する法律の限界:身体的暴力について保護命令の対象になるが、心理的暴力については保護命令の対象にならない
日本で2000年にようやく制定された「配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護に閲する法律」において、DVは主に身体的暴力として定義された。しかし、それは見えないもの、客観的に証明できないものをうまく扱えない(扱おうとしない)法の限界によるにすぎない。

実際、DV防止法が施行されるようになってから、夫が身体的暴力だけはふるうのをやめ、脅しにとどめたり、むしろ言葉の暴力がひどくなったと報告する被害者もいる。2004年の法改正で、身体的暴力のほか、「これに準ずる心身に有害な影響を及ぼす言動」、つまり精神的暴力や性的暴力もDVの定義に含まれることになったが、残念ながらこれらは保護命令の対象とされていない。DVの内容は、刑法で言えば暴行罪だけでなく、脅迫罪、名誉段損罪、強姦罪、強制わいせつ罪、詐欺罪など様々な犯罪行為にあたる。しかもそれらが繰り返されているから「重犯」になると思うのだが、それが親密な相手に向けられると、犯罪視されず、平然と見過ごされてしまう。



とっても素晴らしい。宮地さんの意図はどうであれ、これで多くの男たちは納得するんじゃないか。

ルツ(奥さんを締め殺してしまったアルチュセールがモデル)だってきっと賛成するよ。

「ヒステリー女が欲するものは何か? ……」、ある日ファルスが言った、「彼女が支配するひとりの主人である」。深遠な言葉だ。ぼくはいつかこれを引用してルツに言ってやったことがあったが、彼は感じ入っていた。 (ソレルス『女たち』)


「親密領域において個人領域を奪うこと」という定義に従えば、女のほうが男よりずっとDV資質があるに決まってるよ・・・いやいやシツレイ!

「そう。君らにはわかるまいが、五十六十の堂々たる紳士で、女房がおそろしくて、うちへ帰れないで、夜なかにそとをさまよっているのは、いくらもいるんだよ。」(川端康成『山の音』1949年)


ツイッターをたまにみると、こんな女を嫁さんにしたらたまらんだろうなというたぐいの恐怖政治派のインテリ女がウジャウジャいるからな。


言葉と眼差しによる侮辱と拷問
人はよく…頽廃の時代は一そう寛容であり、より信心ぶかく強健だった古い時代に対比すれば今日では残忍性が非常に少なくなっている、と口真似式に言いたがる。…しかし、言葉と眼差しによる侮辱と拷問は、頽廃の時代において最高度に練り上げられる。aber die Verwundung und Folterung durch Wort und Blick erreicht in Zeiten der Corruption ihre höchste Ausbildung…(ニーチェ『悦ばしき知』第23番「頽廃の徴候」1882年)
小さなヒトラー
ファシズムは、理性的主体のなかにも宿ります。あなたのなかに、小さなヒトラーが息づいてはいないでしょうか?(船木亨『ドゥルーズ』2016年)
誰にも攻撃性はある。自分の攻撃性を自覚しない時、特に、自分は攻撃性の毒をもっていないと錯覚して、自分の行為は大義名分によるものだと自分に言い聞かせる時が危ない。医師や教師のような、人間をちょっと人間より高いところから扱うような職業には特にその危険がある。(中井久夫「精神科医からみた子どもの問題」1986年)

以上はもちろん男性サイドからの「偏見」だが、男がやむにやまれず身体的DVをしてしまうのは、心理的DVで徹底的にやられた後である場合がかなりあるんじゃないかとは少しは疑ったほうがいいよ。男たちの暴力ってのは、言葉と眼差しによる侮辱や拷問で散々な目にあった後の外的投射じゃないかとね。



武満徹に 

飲んでるんだろうね今夜もどこかで
氷がグラスにあたる音が聞える
きみはよく喋り時にふっと黙りこむんだろ
ぼくらの苦しみのわけはひとつなのに
それをまぎらわす方法は別々だな
きみは女房をなぐるかい?

ーー谷川俊太郎『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』







◼️付記


男たちの女性恐怖
大いなる普遍的なものは、男性による女性嫌悪ではなく、女性恐怖である。(Camille Paglia "No Law in the Arena: A Pagan Theory of Sexuality", 1994)
どの男も、母に支配された内部の女性的領域に隠れ場をもっている。男はそこから完全には決して自由になれない。(カミール・パーリア 『性のペルソナ』1990年)

原誘惑者としての母
母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を子供に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとって「原誘惑者 ersten Verführerin」になる。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)
原支配者としての母
(原母子関係には)母なる女の支配 dominance de la femme en tant que mère がある。…語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存 dépendance を担う母が。(ラカン、S17、11 Février 1970)

母なる全能の支配者
全能の構造は、母のなかにある、つまり原大他者のなかに。…それは、あらゆる力をもった大他者である。la structure de l'omnipotence, […]est dans la mère, c'est-à-dire dans l'Autre primitif… c'est l'Autre qui est tout-puissant(ラカン、S4、06 Février 1957)
母への固着と女への隷属
母へのエロス的固着の残滓、しばしば母への過剰な依存形式として居残る。そしてこれは女への隷属として存続する。Als Rest der erotischen Fixierung an die Mutter stellt sich oft eine übergrosse Abhängigkeit von ihr her, die sich später als Hörigkeit gegen das Weib fortsetzen wird. (フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
母子関係 relation de l'enfant à la mère…ファリックマザーへの固着された二者関係 relation duelle comme fixée à la mère phallique (S4, 03 Avril 1957)
(その後)ファリックマザーとの同一化 s'identifie à la mère phallique(S4, 06 Février 1957)
原愛の対象母
母子二者関係 beiden Relationen には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性の根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象 Liebesobjekt として、のちの全ての愛の関係性Liebesbeziehungen の原型としての母ーー男女どちらの性 beiden Geschlechternにとってもである。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)
女性における原愛の対象母から父への移行
男性の場合、栄養の供給や身体の世話などの影響によって、母が最初の愛の対象 ersten Liebesobjekt となり、これは、母に本質的に似ているものとか、彼女に由来するものなどによって置き換えられるようになるまでは、この状態がつづく。
女性の場合にも、母は最初の対象 erste Objekt であるにちがいない。対象選択 Objektwahl の根本条件は、すべての小児にとって同一なのである。しかし、発達の終りごろには、男性である父が愛の対象となるべきであって、というのは、女性の性の変換には、その対象の性の変換が対応しなくてはならないのである。(フロイト『女性の性愛』1931年)
女性における母との同一化
母との同一化 Mutteridentifizierungは、母との結びつき Mutterbindung を押しのける ablösen 。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
女性の母との同一化 Mutteridentifizierung は二つの相に区別されうる。つまり、①前エディプス期präödipale の相、すなわち母への愛着 zärtlichen Bindung an die Mutterと母をモデルとすること。そして、②エディプスコンプレックス Ödipuskomplex から来る後の相、すなわち、母から逃れ去ろうとして、母の場に父を置こうと試みること。(フロイト『続・精神分析入門講義』第33講「女性性 Die Weiblichkeit」、1933年)
夫は妻の母への関係を相続する
前エディプス präödipal 期と名づけられることのできる、もっぱら母に結びつけられる(母親拘束 Mutterbindung)時期はしたがって、女性の場合には男性の場合に相応するのよりはるかに大きな意味を与えられる。女性の性生活の多くの現れは、以前には十分には理解されていなかったが、前エディプス期までに遡ることによって完全に解明することができるようになった。

われわれがたとえばもうとっくに気づいていたことであるが、多くの女性は父を模範にして夫を選んだり、夫を父の位置に置き換えたりしておきながら、現実の結婚生活では、夫を相手にして母に対する好ましくない関係を反復している schlechtes Verhältnis zur Mutter wiederholen のである。夫が妻の父から相続するのは父への関係であるべきであろうのに、実際には母への関係を相続しているのである。

これは手近な退行 Regression の一例だと思えば、容易に理解される。母への関係のほうが根源的 Mutterbeziehung war die ursprünglicheであり、そのうえに父への愛着 Vaterbindung がきずきあげられていたのだが、いまや結婚生活において、この抑圧されていた根源的なものが現われてくるのである。母対象から父対象へ vom Mutter- auf das Vaterobjekt の情動的結びつき affektiver Bindungen の振り替えÜberschreibungこそは、女らしさ Weibtum に導く発達の主要な内容をなしていたのである。(フロイト『女性の性愛について』1931年)
非常に多くの女性の場合に、ちょうどその青春時代が母との闘いKampf mit der Mutterで明け暮れしたように、その成熟期が夫との闘争でみたされているという印象をわれわれがうけるときに、(……)彼女たちの母に対する敵意ある態度 feindselige Einstellung zur Mutter はエディプスコンプレックスという競争意識の帰結ではなくて、それ以前の時期に由来するものであり、エディプス的状況におかれることによってそれが強化され、利用されたにすぎない、ということになる。(フロイト『女性の性愛について』1931年)


貪り喰う女
母への依存性 Mutterabhängigkeit のなかに…パラノイアにかかる萌芽が見出される。というのは、驚くことのように見えるが、母に貪り喰われてしまうaufgefressenというのはたぶん、きまっておそわれる不安であるように思われるから。(フロイト『女性の性愛』1931年)
メドゥーサの首の裂開的穴は、幼児が、母の満足の探求のなかで可能なる帰結として遭遇しうる、貪り喰う形象である。Le trou béant de la tête de MÉDUSE est une figure dévorante que l'enfant rencontre comme issue possible dans cette recherche de la satisfaction de la mère.(ラカン、S4, 27 Février 1957)
ラカンの母は、《quaerens quem devoret》(『聖ペテロの手紙』)という形式に相当する。すなわち母は「貪り喰うために誰かを探し回っている」。ゆえにラカンは母を、鰐・口を開いた主体 le crocodile, le sujet à la gueule ouverte.として提示した。(ミレール、La logique de la cure、1993)
構造的な理由により、女の原型は、危険な・貪り喰う大他者と同一である。それは起源としての原母であり、元来彼女のものであったものを奪い返す存在である。(ポール・バーハウ, NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL,1995)


世界は女たちのものだ
世界は女たちのものだ 、いるのは女たちだけ il n'y a que des femmes、しかも彼女たちはずっと前からそれを知っていて、それを知らないとも言える、彼女たちにはほんとうにそれを知ることなどできはしない、彼女たちはそれを感じ、それを予感する、こいつはそんな風に組織されるのだ。男たちは? あぶく、偽の指導者たち、偽の僧侶たち、似たり寄ったりの思想家たち、虫けらども …一杯食わされた管理者たち …筋骨たくましいのは見かけ倒しで、エネルギーは代用され、委任される …(フィリップ・ソレルス Philippe Sollers『女たちFemmes』鈴木創士訳、邦訳1993年 原著1983年)
ぼくは、いつも連中が自分の女房を前にして震え上がっているのを見た。あれらの哲学者たち、あれらの革命家たちが、あたかもそのことによって真の神性がそこに存在するのを自分から認めるかのように …彼らが「大衆」というとき、彼らは自分の女房のことを言わんとしている ……実際どこでも同じことだ …犬小屋の犬… 自分の家でふんづかまって …ベッドで監視され…(ソレルス『女たち』)


女というものは神の別の名である
女というものは存在しない。女たちはいる。だが女というものは、人間にとっての夢である。La femme n'existe pas. Il y des femmes, mais La femme, c'est un rêve de l'homme.(Lacan, Conférence à Genève sur le symptôme, 1975)
問題となっている「女というもの」は、「神の別の名」である。その理由で「女というものは存在しない」のである。La femme dont il s'agit est un autre nom de Dieu, et c'est en quoi elle n'existe pas, (ラカン、S23、18 Novembre 1975)
「女というものは存在しない」は、女というものの場処が存在しないことを意味するのではなく、この場処が本源的に空虚videのままだということを意味する。場処が空虚だといっても、人が何ものかと出会うことを妨げはしない。(J-A. MILLER, Des semblants dans la relation entre les sexes, 1997)