ラカンは享楽と剰余享楽 [la jouissance du plus-de-jouir]を区別した。…空胞化された、穴としての享楽と、剰余享楽としての享楽[la jouissance comme évacuée, comme trou, et la jouissance du plus-de-jouir]である。…対象aは穴と穴埋め [le trou et le bouchon]なのである。(J.-A. Miller, Extimité, 16 avril 1986)
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対象aは、喪失・享楽控除の効果とその喪失を埋め合わせる剰余享楽の断片化効果の両方を示す。l'objet a qui inscrit à la fois l'effet de perte, le moins-de-jouir, et l'effet de morcellement des plus-de-jouir qui le compensent. (コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)
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(- φ) [le moins-phi] は去勢 castration を意味する。そして去勢とは、「享楽控除 une soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(J.-A. MILLER , Retour sur la psychose ordinaire, 2009)
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享楽は去勢である la jouissance est la castration。( Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)
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われわれが通常、"対象a"と呼ぶものは、たんに対象aの形式の支えあるいは化身に過ぎない。…
眼差しはまさに対象aの化身[incarnation de l'objet a]である。…ルーベンスの『鏡を見るヴィーナス』は対象aの論理的機能に実体を与えることを可能にするブリリアントな要素を際立たせている…
対象aには、構造的省略がある。対象aは補填 supplément(穴埋め)によってのみ代表象されうる。穴としての対象aは、枠・窓と等価とすることができる[En tant que trou, l'objet a peut être équivalent au cadre, à la fenêtre]。それは鏡とは逆である。対象aは捕まえられない。特に鏡には。長いあいだ鏡像段階をめぐって時を費やしたラカンは、それを強調している。対象aは窓である。われわれが目を開くために自ら構築した窓である。
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(肝腎なのは)窓を見て自らを知ることである。欲動の主体としての自己自身を。あなたは享楽している、永遠の失敗のなかを循環運動している。[voir la fenêtre et se connaître comme sujet de la pulsion, soit ce dont vous jouissez en en faisant le tour dans un sempiternel échec.](J.-A.Miller, L’image reine , 2016ーーL'image reine, qui s'est tenue les 29 et 30 avril 1995 à Rio de Janeiro)
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ーーミレールのいう《穴としての対象aは、枠・窓と等価とすることができる[En tant que trou, l'objet a peut être équivalent au cadre, à la fenêtre]》については、わたくしはいくらか疑っている。穴Ⱥではなく穴の境界表象S(Ⱥ) が、窓としての対象aではないかと。だがここではミレールが言っている通りに図示した。Ⱥ であろうと S(Ⱥ) であろうとここでの話には大きな影響はない。
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自体性愛autoérotismeの対象は実際は、空洞 creux・空虚 videの現前以外の何ものでもない。…そして我々が唯一知っているこの審級は、喪われた対象a [l'objet perdu (a)) ]の形態をとる。…「永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964, 摘要)
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ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance。より正確に言えばーー私は今年、強調したいがーー、享楽とは、フロイト(フロイディズムfreudisme)において自体性愛auto-érotisme と伝統的に呼ばれるもののことである。…ラカンはこの自体性愛的性質 caractère auto-érotique を、全き厳密さにおいて、欲動概念自体 pulsion elle-mêmeに拡張した。ラカンの定義においては、欲動は自体性愛的である la pulsion est auto-érotique。(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)
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私は欲動Triebを翻訳して、漂流 dérive、享楽の漂流 dérive de la jouissance と呼ぶ。[j'appelle la dérive pour traduire Trieb, la dérive de la jouissance. ](ラカン、S20、08 Mai 1973)
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人は循環運動をする on tourne en rond… 死によって徴付られたもの marqué de la mort 以外に、どんな進展 progrèsもない 。
それはフロイトが、« trieber », Trieb という語で強調したものだ。仏語では pulsionと翻訳される… 死の欲動 la pulsion de mort …もっとましな訳語はないものだろうか。「dérive 漂流(さまよい)」という語はどうだろう。(ラカン、S23, 16 Mars 1976)
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享楽の対象は何か? [Objet de jouissance de qui ? ]…大他者の享楽? 確かに! [« jouissance de l'Autre » ? Certes ! ]…(享楽の対象としての)フロイトのモノ La Chose(das Ding)は、…喪われた対象 objet perdu である。(ラカン、S17、14 Janvier 1970、摘要)
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J(Ⱥ) (斜線を引かれた大他者の享楽)…これは「大他者の享楽はない」ということである。大他者の大他者はないのだから。これが斜線を引かれたA [Ⱥ] (穴)の意味である。qu'il n'y a pas de jouissance de l'Autre en ceci qu'il n'y a pas d'Autre de l'Autre, et que c'est ce que veut dire cet A barré [A]. (ラカン, S23, 16 Décembre 1975)
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モノとは結局なにか? モノは大他者の大他者である。…ラカンが把握したモノとしての享楽の価値は、斜線を引かれた大他者[穴Ⱥ]と等価である。
Qu'est-ce que la Chose en définitive ? Comme terme, c'est l'Autre de l'Autre.… La valeur que Lacan reconnaît ici à la jouissance comme la Chose est équivalente à l'Autre barré. (Miller, Les six paradigmes de la jouissance, 1999)
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モノは享楽の名である。das Ding[…] est tout de même un nom de la jouissance(J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XX, 10 juin 2009)
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去勢は享楽の名である。la castration est le nom de la jouissance 。 (J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un 25/05/2011)
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反復は享楽回帰に基づいている la répétition est fondée sur un retour de la jouissance 。…フロイトによって詳述されたものだ…享楽喪失があるのだ il y a déperdition de jouissance。.…これがフロイトだ。…マゾヒズムmasochismeについての明示。フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse」への探求の相がある。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
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仏語の"le plus-de-jouir" は、「もはやどんな享楽もない」と「もっと多くの享楽を !」の両方の意味で理解されうる。(PAUL VERHAEGHE, new studies of old villains , 2009)
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"le plus-de-jouir"は、「喪失」と「その埋め合わせの別の獲得の投射」の両方の意味がある。前者の「享楽の喪失 La perte de jouissance」が後者を生む。…「plus-de-jouir」のなかには、《もはや享楽は全くない [« plus du tout » de jouissance]」》という意味がある。(Gisèle Chaboudez, Le plus-de-jouir, 2013)
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ラカンの昇華の諸対象 objets de la sublimation。それは付け加えたれた対象 objets qui s'ajoutent であり、これが厳密に、ラカンによって導入された剰余享楽 plus-de-jouir の価値である。言い換えれば、このカテゴリーにおいて、我々は、自然に、あるいは象徴界の効果によって、身体と身体にとって喪われたものからくる諸対象を持っているだけではない。我々はまた原初の諸対象を反映する対象を種々の形式で持っている。問いは、これらの新しい諸対象 objets nouveaux は、原対象a[objets a primordiaux]の再構成された形式 に過ぎないかどうかである。(JACQUES-ALAIN MILLER ,L'Autre sans Autre May 2013)
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