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2020年5月27日水曜日

人はみなフェティシストである


まず前回示した次の文から始まる。

セミネール4において、ラカンは「無 rien」に最も近似している対象a を以て、対象と無との組み合わせを書こうとした。ゆえに彼は後年、対象aの中心には去勢[- φ]がある [au centre de l'objet petit a se trouve le - φ]と言うのである。そして対象と無 [l'objet et le rien ]があるだけではない。ヴェール voile もある。したがって、対象aは現実界であると言いうるが、しかしまた見せかけでもある [l'objet petit a, bien que l'on puisse dire qu'il est réel, est un semblant]。この対象aは、フェティッシュとしての見せかけ [un semblant comme le fétiche]である。(J.-A. Miller, la Logique de la cure du Petit Hans selon Lacan, Conférence 1993)

ーーここに示されているのは、リアルな無をヴェールするのが、フェティッシュとしての見せかけ(仮象)ということである。

無についてはラカンの発言の時期によって、あるいは現在でも注釈者によって種々の捉え方があるのだが、ここではモノ=無物を手始めにする。

無=モノ=穴
モノは無物とのみ書きうる  la  chose ne puisse s'écrire que « l'achose »(ラカン、S18、10 Mars 1971) 
現実界の中心にある空虚[vide au centre de ce réel]の存在を表象するこの対象は、モノと呼ばれる。この空虚は表象のなかに現れる。何もないものnihil、無rienとして。(ラカン, S7, 27  Janvier  1960)
モノとは結局なにか? モノは大他者の大他者である。…ラカンが把握したモノとしての享楽の価値は、斜線を引かれた大他者[穴Ⱥ]と等価である。
Qu'est-ce que la Chose en définitive ? Comme terme, c'est l'Autre de l'Autre.… La valeur que Lacan reconnaît ici à la jouissance comme la Chose est équivalente à l'Autre barré. (Miller, Les six paradigmes de la jouissance, 1999)


次のようにも引用しておこう。

享楽=去勢=モノ=喪われた対象=現実界
モノ=享楽の空胞  [La Chose=vacuole de la jouissance] (Lacan, S16, 12 Mars 1969)
享楽の対象 Objet de jouissance…フロイトのモノ La Chose(das Ding)…それは…喪われた対象 objet perdu である。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
フロイトのモノを私は現実界 le Réelと呼ぶ。La Chose freudienne […] ce que j'appelle le Réel (ラカン、S23, 13 Avril 1976)
享楽は去勢である la jouissance est la castration。(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)
モノは享楽の名である。das Ding[…] est tout de même un nom de la jouissance(J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XX, 10 juin 2009)
去勢は享楽の名である。la castration est le nom de la jouissance 。 (J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un  25/05/2011)


以上により、ここではモノ=無=穴をベースにする。そして最もわかりやすい用語の穴を取り出して、穴の穴埋めをするのがフェティッシュだという前提で記述する。



人はみな現実界のなかの穴を穴埋めする
J(Ⱥ) (斜線を引かれた大他者の享楽)…これは「大他者の享楽はない」ということである。大他者の大他者はないのだから。これが斜線を引かれたA [Ⱥ] (穴)の意味である。qu'il n'y a pas de jouissance de l'Autre en ceci qu'il n'y a pas d'Autre de l'Autre, et que c'est ce que veut dire cet A barré [A].  (ラカン, S23, 16 Décembre 1975)
我々はみな現実界のなかの穴を穴埋めするために何かを発明する。現実界には 「性関係はない」、 それが穴=トラウマを為す。…tous, nous inventons un truc pour combler le trou dans le Réel. Là où il n'y a pas de rapport sexuel, ça fait « troumatisme ».(ラカン、S21、19 Février 1974)



…………

前段が長くなったがここからが本題である。



現実の領域は対象a の除去の上になりたっているが、それにもかかわらず、対象a が現実の領域を枠どっている。 le champ de la réalité ne se soutient que de l’extraction de l’objet a qui lui donne son cadre (Lacan, E554,1956)





現実界としての対象を密かに無視することが「ひとかけらの現実」としての現実の安定化の条件だ、とわれわれは理解している。だが、対象aがあるべきところにないなら、対象aはどうやって現実に枠をはめるのか。

対象aは、まさしく現実の領域から除去されることによって、現実に枠にはめるのである。 わたしがこの絵の表面から、絵から網がけになった長方形を取り除くなら、われわれが枠と呼ぶものを獲得する。すなわち穴にとっての枠でありながら、また残りの表面の枠である。こうした枠はどんな窓によっても作ることができる。
対象aというのはこのような表面の断片であり、それを現実から取り除くことが、現実に枠をはめることになるのである。斜線を引かれた主体は(…)、この穴のことである。(Jacques-Alain Miller, Montré à Prémontré, 1984)


ーーこのミレールの"Montré à Prémontré"は、仏原文はネット上にない。ジジェクの『斜めから見る』(1991)からの孫引きである。

以下、上の文の意味合いを確認していく。

まずラカン においては穴としての対象aがある。

対象aは、大他者自体の水準において示される穴である。l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel (ラカン、S16, 27 Novembre 1968)
穴としての対象a は、枠・窓と等価でありうる En tant que trou, l'objet a peut être équivalent au cadre, à la fenêtre。(J.-A.Miller, L’image reine , 2016)



穴 trou =枠 cadre・窓 fenêtreとあるので、ここでいったん、ルネ・マグリットの「人間の条件 La condition humaine」( 1933)に迂回しよう。


部屋の内側から見える窓の前に、私は絵を置いた。その絵は、絵が覆っている風景の部分を正確に表象している。したがって絵のなかの樹木は、その背後、部屋の外側にある樹木を隠している。それは、見る者にとって、絵の内部にある部屋の内側であると同時に、現実の風景のなかの外側である。これが、我々が世界を見る仕方である。我々は己れの外側にある世界を見る。だが同時に、己れ自身のなかにある世界の表象を抱くに過ぎな。(ルネ・マグリット, “Life Lines”)






窓の枠組みの上に位置づけられた絵 un tableau qui vient se placer dans l'encadrement d'une fenêtreこの馬鹿げたテクニック Technique absurdeそれは人が窓から見えるものを見ない ne pas voir ce qui se voit par la fenêtreようにすることである。(ラカン、S10、19 Décembre l962)
絵自身のなかにある表象代理とは、対象aである。ce représentant de la représentation qu'est le tableau en soi, c'est cet objet(a),   (Lacan, S13, 18 Mai 1966)
 

誰もがこのように世界を見ている筈である。つまり世界を見ているつもりで、実は自分のなかの世界の表象を見ているにすぎない。

ラカンは上のマグリットを図式化している。




マグリットの絵は、最もわかりやすい形で、二種類の対象a、穴と穴埋め [le trou et le bouchon]の対象aが示されているのではないか。もちろん人によるだろうが、リアルとリアルの覆いが如実に感じられる。それが「不安」をもたらす。不安とは現実界の窓である。








フロイトの観点では、享楽(リビドー )の不安との関係は、ラカンが頷いたように、不安の背後にあるものである。欲動は、満足を求めるという限りで、絶え間なき執拗な享楽の意志[volonté de jouissance insistant sans trêve.]としてある。

欲動強迫[insistance pulsionnelle ]が快原理と矛盾するとき、不安と呼ばれる「不快 déplaisir」ある。これをラカン は一度だけ言ったが、それで十分である。ーー《不快は享楽以外の何ものでもない déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance. 》( S17, 1970)ーー、すなわち不安は現実界の信号であり、モノの索引である[l'angoisse est signal du réel et index de la Chose]。定式は《不安は現実界の前触れl'angoisse est signal du réel》である。(J.-A. MILLER,  Orientation lacanienne III, 6. - 02/06/2004)

signalが2度続くので2度目のほうを前触れと訳してみたが、ドゥルーズが差異と反復で示した「暗き先触れ précurseur sombre」でもよい。あれは明らかに穴としての対象aに近似した概念である。エピファニーと同時に死の本能と結びつけられているのだから。

さてミレール は「モノの索引 index de la Chose」と言っているが、フロイトのモノとは何だったか? それは何よりもまずエスの審級にある不気味な異者である。暗闇に蔓延る異物である。そしてこれこそ享楽の対象であり、享楽の穴である。

享楽の対象 Objet de jouissance…フロイトのモノ La Chose(das Ding)…それは、快原理の彼岸の水準 au niveau de l'Au-delà du principe du plaisirにあり、喪われた対象 objet perdu である。(ラカン、S1714 Janvier 1970)
モノとは結局なにか? ラカンが把握したモノとしての享楽の価値は、斜線を引かれた大他者[穴Ⱥ]と等価である。(Miller, Les six paradigmes de la jouissance, 1999




話を戻せば、先に引用したミレールの、《穴としての対象a は、枠・窓と等価でありうる En tant que trou, l'objet a peut être équivalent au cadre, à la fenêtre》(Miller, 2016)はラカン のマグリット翻訳図の注釈のひとつとして読める。

各人それぞれの窓枠の穴が先にある。そこにこれまた各人別様の何らかの穴埋めをして、人はみな世界をみている。これは「他人の青と自分の青は違う」という類のメルロポンティ等の現象学と似ているようでまったく異なるところである。穴の起源はフロイト曰くの5歳以前ーー現在は4歳以前とされることが多いーーに起こるフロイトの原抑圧=リビドーの固着(ラカン派の享楽の固着)にあるのだから。


世界が表象 représentation(vótellung) になる前に、その代理 représentant (Repräsentanz)ーー私が意味するのは表象代理 le représentant de la représentationであるーーが現れる。(ラカン, S13, 27 Avril 1966)
フロイトのVorstellungsrepräsentanz…この表象代理 représentant de la représentation」は、「表象の仮置場 tenant-lieu de la représentationである。(Lacan, S11, 12  Février  1964)
表象代理は二項シニフィアンである。この表象代理は、原抑圧の中核を構成する。フロイトは、これを他のすべての抑圧が可能となる引力の核とした。Le Vorstellungsrepräsentanz, c'est ce signifiant binaire. […] il à constituer le point central de l'Urverdrängung,… comme FREUD l'indique dans sa théorie …le point d'Anziehung, le point d'attrait, par où seront possibles tous les autres refoulements (ラカン、S11、03 Juin 1964)
私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même.(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)



さてジャック=アラン・ミレール に戻って冒頭の文の意味合いをもう少し確認していこう。


幻想が主体にとって根源的な場をとるなら、その理由は主体の穴を穴埋めするためである。Si le fantasme prend une place fondamentale pour le sujet, c'est qu'il est appelé à combler le trou du sujet   (J.-A. Miller, DU SYMPTÔME AU FANTASME, ET RETOUR, 8 décembre 1982.)




ーーこの図は直接にはミレール にない。冒頭図をわたくしが「翻訳」したものである。

あなた方が知っているように、ラカンは享楽と剰余享楽とのあいだを区別 [distinguera la jouissance du plus-de-jouir.]した時、形式化をいっそうしっかりしたものにするようになった。なぜラカンは区別したのか、空胞化された、穴としての享楽と、剰余享楽としての享楽  [la jouissance comme évacuée, comme trou, et la jouissance du plus-de-jouir] を? その理由は対象aは二つを意味するからである。生き生きとした形で言えば、対象aは穴と穴埋め [le trou et le bouchon] である。

対象aが示しているのは、「中心にないものとしての不在[l'absence de ce qu'il n'y a pas en ce centre])と「その不在を埋め合わせる穴埋め [le bouchon qui comble cette absence]」の両方である。したがって、対象aは二つの顔を持つ。ポジの顔は穴埋め le bouchonである。もう一つの顔は、不在 un absence、控除 un moinsと等価である。これは対象aが去勢 castrationを含んでいることを示す記述に見出される。われわれは対象aを去勢(- φ) を含んだものとして置く。(J.-A. Miller, Extimité, 16 avril 1986)


対象aの基本はミレールのいうように穴と穴埋めでよい。ただし穴埋めの対象aは何種類もある。ここで代表的なものを示しておこう。


ーーこの表で最も注意しなければならないのはS(Ⱥ)である。S(Ⱥ)は見ての通り、Ⱥのシニフィアンという意味で、穴の原象徴化の試み、したがって穴埋めの審級にある。ただし穴の境界表象であり、穴の十分な象徴化はまったくなされず、異物としての残滓が現実界=穴に置き残される。この意味で文脈により穴の審級として扱う場合もある。S(Ⱥ)についての詳細、その一見相矛盾した相については「文献集X」を参照。

ここでは機能としての厳密な意味で、穴埋めの審級として扱って話を進める。

S(Ⱥ)の場に相当する概念だろうものについて、ラカン は「黒いフェティッシュ fétiche noir」とも言っているが、要するにS(Ⱥ)も  (φ) も両方とも事実上、フェティッシュである。そして象徴的ファルスΦ自体も、晩年のラカン にとって、「父の版の倒錯 père-version」であり、その意味では上に示した穴埋めはすべてフェティッシュである。

大きなファルスΦは小さなファルスφと異なり、通常は穴埋めとは言わない。だが機能としては同様に穴Ⱥに対する防衛であり、ここでは穴埋めなかに含めた。基本的には上から、神経症者、倒錯者、精神病者の穴埋めである。




用語の確認をもう少しだけしておこう。


$ ≡ (- φ)    (J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse- 8/4/2009)
(- φ) ≡ Ⱥ  (J.-A. MILLER,  L'Être et l'Un,- 9/2/2011)
(- J) ≡ $  (J.-A. MILLER, - Tout le monde est fou – 04/06/2008)
(- φ) ≡(- J)  J.-A. MILLER , Retour sur la psychose ordinaire, 2009


以上、主体は去勢であり、穴であり、享楽控除である。



主体sujetとは……欲動の藪のなかで燃え穿たれた穴 rond brûlé dans la brousse des pulsionsにすぎない。(ラカン、E666, 1960)
享楽の名le nom de jouissance…それはリビドーというフロイト用語と等価である。(J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne III, 30/01/2008)


そしてこの穴は固着(原抑圧)によって生じる。

ラカンが導入した身体は…フロイトが(原抑圧としての)固着と呼んだものによって徴付けられる。リビドーの固着、あるいは欲動の固着である。結局、固着が身体の物質性としての享楽の実体のなかに穴を為す。固着が無意識のリアルな穴を身体に掘る。[Une fixation qui finalement fait trou dans la substance jouissance qu'est le corps matériel, qui y creuse le trou réel de l'inconscient]。このリアルな穴は閉じられることはない。ラカンは結び目のトポロジーにてそれを示すことになる。要するに、無意識は治療されない。かつまた性関係を存在させる見込みはない。(ピエール=ジル・ゲガーン Pierre-Gilles Guéguen, ON NE GUÉRIT PAS DE L'INCONSCIENT, 2015)


ここは一般には難解だろうが、ここでの話題ではないので、今はS(Ⱥ)という享楽の固着(リビドーの固着)によって遡及的にもたらされる穴Ⱥだとだけ言っておこう。ーー《遡及性によって引き起こされるリビドー。[daß die durch Nachträglichkeit erwachende Libido ]》(フロイト、フリース宛書簡 Freud, Briefe an Wilhelm Fließ, 14. 11. 1897)


享楽の固着という穴埋めもある。それをラカンは時に「文字」と呼んだ。il y a aussi le bouchon d'une fixion de jouissance […] que Lacan appelle lettre à l'occasion. (コレット・ソレール Colette Soler, La passe réinventée ? , 2010)
精神分析における主要な現実界の到来 l'avènement du réel majeur は、固着としての症状 Le symptôme, comme fixion・シニフィアンと享楽の結合 coalescence de signifant et de jouissance としての症状である。…現実界の到来は、文字固着 lettre-fixion、文字非意味の享楽 lettre a-sémantique, jouie である。(コレット・ソレールColette Soler、"Avènements du réel" Colette Soler, 2017年)


最後にマグリットに戻って言えば、最初に穴がありその穴埋めをすることが「人間の条件」なのである。それはマルクスのフェティッシュが人間の交換(コミュニケーション)の条件であるのと同様である(参照)。





マルクスのフェティシズムの本質は、「無根拠であり非対称的な関係=非関係」という穴に対する穴埋めである。

マルクスが、社会的関係が貨幣形態によって隠蔽されるというのは、社会的な、すなわち無根拠であり非対称的な交換関係が、対称的であり且つ合理的な根拠をもつかのようにみなされることを意味している。(柄谷行人『マルクス その可能性の中心』1978年)
穴は非関係によって構成されている。un trou, celui constitué par le non-rapport(S22, 17 Décembre 1974)




……………


繰り返せば、ラカンにおいても次の文を額面通り受け入れるなら、「人はみなフェティシストである」とならざるを得ないのである。


倒錯者は、大他者のなかの穴を穴埋めすることに自ら奉仕する le pervers est celui qui se consacre à boucher ce trou dans l'Autre(ラカン, S16, 26 Mars 1969)
倒錯とは、「父に向かうヴァージョン version vers le père」以外の何ものでもない。要するに、父とは症状である le père est un symptôme …私はこれを「père-version」(父の版の倒錯)と書こう。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)
…結果として論理的に、最も標準的な(神経症的)異性愛の享楽は、父のヴァージョン père-version、すなわち倒錯的享楽 jouissance perverseの父の版と呼ばれうる。(コレット・ソレール Colette Soler、Lacan, L'inconscient Réinventé, 2009)
倒錯は、欲望に起こる偶然の出来事ではない。すべての欲望は倒錯的である Tout désir est pervers。享楽が、いわゆる象徴秩序が望むような場には決して収まらないという意味で。そしてこの理由で、後期ラカンは「父性隠喩 la métaphore paternelle」(父の名の隠喩)について皮肉を言い得た。彼は父性隠喩もまた「一つの倒錯 une perversion」だと言った。彼はそれを 《父のヴァージョン père-version》と書いた。père-version とは、《父に向かう動きmouvement vers le père》の版という意味である。(J.-A. Miller,「大他者なき大他者 L'Autre sans Autre,」2013)
フロイトが言ったことに注意深く従えば、全ての人間のセクシャリティは倒錯的である toute sexualité humaine est perverse。フロイトは決して倒錯以外のセクシャリティに思いを馳せることはしなかった。そしてこれがまさに、私が精神分析の肥沃性 fécondité de la psychanalyse と呼ぶものの所以ではないだろうか。

あなたがたは私がしばしばこう言うのを聞いた、精神分析は新しい倒錯を発明する inventer une nouvelle perversion ことさえ未だしていない、と。何と悲しいことか! 結局、倒錯が人間の本質である la perversion c'est l'essence de l'homme 。我々の実践は何と不毛なことか!(ラカン, S23, 11 Mai 1976)


最も無難なのは白いフェティッシュじゃないだろうかね。




大きなファルスとしての父の版の倒錯だけは御免蒙りたいね。日本ラカン派なんてそんなヤツばっかりに見えるけどさ、ボクの誤解でなければ。とくに日本ラカン学会は重症の父の版倒錯集団に見えるな・・・何はともあれラカン派ってはどの倒錯者か自ら宣言してからものを言ったり書いたりしたほうがいいんじゃないだろうかな。



なお、ラカン が最晩年の1978年に言った「人はみな妄想する」は、穴に対する防衛という意味では、「人はみなフェティシスト」と同一である。したがって比喩を繰り返せば、黒い妄想、白い妄想、父の妄想と言ってもよい。

「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé …この意味はすべての人にとって穴があるということである[ce qu'il y a pour tous ceux-là, c'est un trou.  ](J.A. Miller, Vie de Lacan, 17/03/2010 )
我々の言説(社会的結びつき lien social) はすべて現実界に対する防衛 tous nos discours sont une défense contre le réel である。(J.A. Miller,  Clinique ironique, 1993)
病理的生産物と思われている妄想形成 Wahnbildung は、実際は、回復の試みHeilungsversuch・再構成Rekonstruktionである。(フロイト『自伝的に記述されたパラノイア(妄想性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察(シュレーバー症例)』 1911年)
ラカンの精神病理論において、症状安定化のための三つの異なった理論が分節化されている。想像的同一化、妄想形成、補充(穴埋め suppléance)である。(Fabien Grasser, Stabilizations in psychosis , 1998)