ーーというのに出会うと、愛のオートメーションになっちまうんだな、前回記したように雌鹿の股の間に「不変の個性刻印」をもってるから。
だいたいの男はおおかれすくなかれアソコに刻印もってんだろうけどさ、ボクの場合はサントームの強度がきついんだ。
もちろん水溜りジャンプだけじゃなくて、最低限あと4つは、ハッキリした愛の条件の徴をみいだしたね。
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人は愛するとき、迷宮を彷徨う。愛は迷宮的である。愛の道のなかで、人は途方に暮れる。…
愛には、偶然性の要素がある。愛は、偶然の出会いに依存する。愛には、アリストテレス用語を使うなら、テュケー tuché、《偶然の出会い rencontre ou hasard 》がある。
しかし精神分析は、愛において偶然性とは対立する必然的要素を認めている。すなわち「愛の自動機械(愛のオートマトン l' automaton de l'amour」)である。愛にかんする精神分析の偉大な発見は、この審級にある。…フロイトはそれを《愛の条件 Liebes Bedingung》と呼んだ。
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愛の心理学におけるフロイトの探求は、それぞれの主体の《愛の条件》の単独的決定因に収斂する。それはほとんど数学的定式に近い。例えば、或る男は人妻のみを欲望する。これは異なった形態をとりうる。すなわち、貞淑な既婚女性のみを愛する、或はあらゆる男と関係をもとうとする淫奔な女性のみを愛する。主体が苦しむ嫉妬の効果、だがそれが、無意識の地位によって決定づけられた女の魅力でありうる。
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Liebe とは、愛と欲望の両方をカバーする用語である。もっとも人は、ときに愛の条件と欲望の条件が分離しているのを見る。したがってフロイトは、「欲望する場では愛しえない男」と「愛する場では欲望しえない男」のタイプを抽出した。
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愛の条件という同じ典礼規定の下には、最初の一瞥において、即座に愛の条件に出会う場合がある。あたかも突如、偶然性が必然性に合流したかのように(テュケーとオートマトンの合金)。
ウェルテルがシャルロッテに狂気のような恋に陥ったのは、シャルロッテが子供を世話する母の役割を担って、幼い子供たちの一群に食事を与えている瞬間に出会った刻限だった。ここには、偶然の出会いが、主体が恋に陥る必然の条件を実現化している。…
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フロイトは見出したのである、対象x 、すなわち自分自身あるいは家族と呼ばれる集合に属する何かを。父・母・兄弟・姉妹、さらに祖先・傍系縁者は、すべて家族の球体に属する。愛の分析的解釈の大きな部分は、対象a との異なった同一化に光をもたらすことから成り立っている。例えば、自分自身に似ているという条件下にある対象x に恋に陥った主体。すなわちナルシシズム的対象-選択。あるいは、自分の母・父・家族の誰かが彼に持った同じ関係を持つ対象x に恋に陥った主体。(ミレール『愛の迷宮 Les labyrinthes de l'amour』、Jacques-Alain Miller、1992)
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フロイトやラカンといわずにも、肝腎なのは次のことなんだけどな。
愛する理由は、人が愛する対象のなかにはけっしてない。les raisons d'aimer ne résident jamais dans celui qu'on aime(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』第2版、1970年)
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愛についての20世紀の最大の果実、フロイトとプルーストをいまだ知らずに生きてるなんてな。いくらなんでもいまどきソレハナイダロ?
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私がジルベルトに恋をして、われわれの恋はその恋をかきたてる相手の人間に属するものではないことを最初に知って味わったあの苦しみ cette souffrance, que j'avais connue d'abord avec Gilberte, que notre amour n'appartienne pas à l'être qui l'inspire(プルースト「見出された時」)
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そのようにして、アルベルチーヌへの私の愛は、それがどのような差異を見せようとも、ジルベルトへの私の愛のなかにすでに書きこまれていた……Ainsi mon amour pour Albertine, et tel qu'il en différa, était déjà inscrit dans mon amour pour Gilberte ...(プルースト「見出された時」)
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ある年齢に達してからは、われわれの愛やわれわれの愛人は、われわれの苦悩から生みだされるのであり、われわれの過去と、その過去が刻印された肉体の傷とが、われわれの未来を決定づける。Or à partir d'un certain âge nos amours, nos maîtresses sont filles de notre angoisse ; notre passé, et les lésions physiques où il s'est inscrit, déterminent notre avenir. (プルースト「逃げ去る女」)
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雌鹿の抛物線だけじゃなくて
生垣への抛物線も
生垣への抛物線も
どうしたっていけないな、
すぐひっかかっちゃうよ
愛とは女神アフロディーテの一撃だということは、古代においてはよく知られており、誰も驚くものではなかった。 L'amour, c'est APHRODITE qui frappe, on le savait très bien dans l'Antiquité, cela n'étonnait personne.(ラカン、S9、21 Février 1962)
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女から
生垣へ
投げられた抛物線は
美しい人間の孤独へ憧れる人間の
生命線である
ああ すべては流れている
またすべては流れている
ああ また生垣の後に
女の音がする
彼らの文章の美しさは、まだわれわれが知らない女の美しさのように、まえもっておしはかれないのであり、その美しさは、彼らが考えている対象――自己の言語の美しさでなくーーもっと外界の対象、まだ彼らが表現に移さなかった外界の対象に、密着しているから、創造的なのだ。現代の回想録の作者で、あからさまには見せないけれど、サン=シモン調をつくりだそうと思う人がいて、ヴィラールの人物描写の第一行を、とにかくサン=シモンのように、「それはかなり背の高い褐色の髪の男で… よく動く、あけすけな、出し惜しまぬ表情で」と書く場合があったとしても、しかしどんな決定論が、この作者につぎの文句ではじまるサン=シモンの第二行を見出せるだろう? 「そして、じつをいえばすこし出し放題の感があった。」文体の真の多様性とは、真実な、しかも思いがけない諸要素のあの充満のなかにあるので、たとえば、すでに花がいっぱいになっていると思われた春の垣根から、まったく意外にとびだしている、青い花がむらがり咲いたあの枝のなかにあるのであって、それにくらべて、多様性のまったく形式的な模倣は(多様性にかぎらず文体の他のあらゆる長所についてもおなじことがいえるだろう)、空虚と千篇一律でしかない、つまり多様性にこの上もなく反対なものでしかないのであって、そうした模倣は、巨匠たちの作品のなかの真の多様性を理解しなかった読者にだけ、模倣者の作品のなかに真の多様性があるような錯覚と印象とを起させるのである。(プルースト「花咲く乙女たちのかげに」)
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ひょっとして汲み取り便所の時代に生きた人間の
最後の徴かもしれないけどさ
きみたちにはしらない女の美しさかもなボクの住んでる国はいなかにいけば
まだふんだんに残ってるさ
川の瀬の岩へ
女が片足をあげて
「精神の包皮」
を洗っている姿がみえる
「ポポイ」
わたしはしばしば
「女が野原でしゃがむ」
抒情詩を書いた
これからは弱い人間の一人として
山中に逃げる
ーー吉岡実「夏の宴」--西脇順三郎先生に