最も基本のラカンの幻想の定式は次のものである。
これを利用してーーあくまで利用でありそのままではないーー、前回記した内容をもとに男女関係の幻想の式を示してみよう。
ーー左が男であり、右が女である。ファルスの詐欺師と女性の仮装である。
これは左右ともラカン派ではしばしば次のように図示される形のヴァリエーションにすぎない。
(- J) = (- φ)
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(- φ) [le moins-phi] は去勢 castration を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 une soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(J.-A. MILLER , Retour sur la psychose ordinaire, 2009)
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例えば胎盤 placentaは、個人が出産時に喪なった individu perd à la naissance 己れ自身の部分を確かに表象する。それは最も深い意味での喪われた対象 l'objet perdu plus profond(原対象a)徴示すする。(ラカン, S11, 20 Mai 1964)
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私は常に、一義的な仕方façon univoqueで、この対象a を(-φ)[去勢]にて示している。(ラカン、S11, 11 mars 1964)
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乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢、つまり自己身体の一部分Körperteils の喪失Verlustと感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為 Geburtsakt がそれまで一体であった母からの分離 Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war として、あらゆる去勢の原像Urbild jeder Kastration であるということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)
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こういった去勢を覆うのが、ファルスであり、フェティッシュである。実際はこの去勢の穴の穴埋めとしての覆いは何層もの構造になっているが、ここで示しているのは、大きなファルスΦと小さなファルスϕである。
Φは象徴的ファルスである。[Φ c'est le phallus symbolique]
ϕは想像的ファルスである。[ϕ c'est le phallus imaginaire.]
(Lacan, S8, 26 Avril 1961)
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フェティッシュ=女性の仮装のほうだけ、前回から一部を再掲しておこう。 |
女性は自らが持っていないものの代わりにファルスを装う。つまり対象a、あるいはとても小さなフェティッシュ (φ) を装う。[elle ne peut prendre le phallus que pour ce qu'il n'est pas, c'est-à-dire : soit petit(a) , l'objet, soit son trop petit (φ) ](ラカン 、S10, 5 Juin 1963)
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女はむしろ、私が男のものだと考える倒錯にたいして迎合的である[Elle se prête plutôt à la perversion que je tiens pour celle de L'homme]。このことは、女を例の仮装 mascarade(女性の仮装 la mascarade féminine)と向かわせる。この仮装は、…恩知らずの男が女を責めるような虚偽mensongeではない。それは、男の幻想が女性の裡におのれの真理の時を見いだすために準備するという万一を見込むことだ。……なぜなら、真理は女[la vérité est femme ]なのだから。…つまり真理は非全体[pas toute]だから。(Lacan, AE540, Noël 1973)
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人間は男女とも役者だが、役者になる方法が違うのである。
最近の女性は、ポリコレフェミという支配的イデオロギーに大きく影響されてか、自らの誘惑性を否定する傾向にあるが、まったく馬鹿げている。
この世界はすべてこれひとつの舞台、人間は男女を問わず すべてこれ役者にすぎぬ(All the world's a stage, And all the men and women merely players.)(シェイクスピア「お気に召すまま」)
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男の幸福は、「われは欲する」である。女の幸福は、「かれは欲する」ということである。Das Glück des Mannes heisst: ich will. Das Glück des Weibes heisst: er will. (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第1部「老いた女と若い女」1883年)
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追っかけと誘惑 Pursuit and seduction はセクシャリティの本質である(カミール・パーリア, Sex, Art, and American Culture、2011)
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最近の女性は、ポリコレフェミという支配的イデオロギーに大きく影響されてか、自らの誘惑性を否定する傾向にあるが、まったく馬鹿げている。
私は全きフェミニストだ。
他のフェミニストたちが私を嫌う理由は、私が、フェミニスト運動を修正が必要だと批判しているからだ。
フェミニズムは女たちを裏切った。男と女を疎外し、ポリティカルコレクトネス討論にて代替したのである。(カミール・パーリア 、プレイボーイインタヴュー、1995年)
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ジェンダー理論は、性差からセクシャリティを取り除いてしまった。(ジョアン・コプチェク Joan Copjec、Sexual Difference、2012年)
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驚くべきは、現代ジェンダー研究において、欲動とセクシャリティにいかにわずかしか注意が払われていないかである。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe『ジェンダーの彼岸にある欲動 drive beyond gender 』2005年)
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フロイトを研究しないで性理論を構築しようとするフェミニストたちは、ただ泥まんじゅうを作るだけである。(カミール ・パーリア Camille Paglia "Sex, Art and American Culture", 1992)
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男を敵として定義するとき、フェミニズムは女たちを自分自身の身体から疎外している。(Camille Paglia、Vamps & Tramps、2011)
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ポリコレフェミに限らず、現在、ほとんどあらゆる領域でポリコレイデオロギーに支配され尽くした感のある言論界は、道徳的判断がなによりも主であり、認識的判断はどこかに行ってしまった。だがそれでは知的退行に陥らざるを得ない。人はときに道徳的判断を括弧に入れて、認識的判断を突き詰める道を歩まねばならない(もっとも突き詰めた認識を揺らめかしたり、笑い飛ばすのが最も肝腎ではあるが。なぜなら真理は女であり嘘だから)。
反時代的な様式で行動すること、すなわち時代に逆らって行動することによって、時代に働きかけること、それこそが来たるべきある時代を尊重することであると期待しつつ。(…)
世論と共に考えるような人は、自分で目隠しをし、自分で耳に栓をしているのである。(ニーチェ『反時代的考察』)
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…………
誤解を招かないように付け加えておくが、女性はフェティッシュに「なる」のであって、フェティシストというわけではない。
男の愛の「フェティッシュ形式 la forme fétichiste」 /女の愛の「被愛妄想形式 la forme érotomaniaque」(ラカン「女性のセクシャリティについての会議のためのガイドラインPropos directifs pour un Congrès sur la sexualité féminine」E733、1960年)
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女性の愛の形式は、フェティシストというよりももっと被愛妄想的です[ la forme féminine de l'amour est plus volontiers érotomaniaque que fétichiste]。女性は愛されたいのです[elles veulent être aimées]。愛と関心、それは彼女たちに示されたり、彼女たちが他のひとに想定するものですが、女性の愛の引き金をひく[déclencher leur amour]ために、それらはしばしば不可欠なものです。(J.-A. Miller, On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " 2010年)
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標準的女性が被愛的あるいはナルシシスト的になるのは発達段階的必然である。 ーーここでの同一化は母の場を占め、母を押しのけるという意味である。なお男性の同性愛者の場合も、母との同一化がある(参照)。 標準的男性の場合はもっと単純である。 ーー女性の場合の代理男は三次的愛だが、男性の場合の代理女は二次的愛である。
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われわれは、女性性には(男性性に比べて)より多くのナルシシズムがあると考えている。このナルシシズムはまた、女性による対象選択 Objektwahl に影響を与える。女性には愛するよりも愛されたいという強い要求があるのである。geliebt zu werden dem Weib ein stärkeres Bedürfnis ist als zu lieben.(フロイト『新精神分析入門』第33講「女性性」1933年)
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愛することは、本質的に、愛されたいということである。l'amour, c'est essentiellement vouloir être aimé. (ラカン、S11, 17 Juin 1964)
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愛はその本質においてナルシシズム的である。l'amour dans son essence est narcissique (Lacan, S20, 21 Novembre 1972)
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ーーと引用していたら、次の文を思い起こしたので、ここでの文脈とは関係なしに(?)、付け加える。
なおここではラカンのアンコールセミネールの性別化の式については触れなかった。
媚態の要は、距離を出来得る限り接近せしめつつ、距離の差が極限に達せざることである。(九鬼周造『いきの構造』)
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媚態〔コケットリー〕とは何であろうか? それは相手に性的な関係がありうるとほのめかし、しかもその可能性はけっして確実なものとしてはあらわれないような態度と、おそらくいうことができるであろう。別ないい方をすれば、媚態とは保証されていない性交の約束である。(クンデラ『存在の絶えられない軽さ』)
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coquet という語がある。この語は coq から来ていて、一羽の雄鶏が数羽の牝鶏に取巻かれていることを条件として展開する光景に関するものである。すなわち「媚態的」を意味する。(九鬼周造『いきの構造』)
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なおここではラカンのアンコールセミネールの性別化の式については触れなかった。
性別化の式 formules de la sexuationにおいて、ラカンは、数学的論理の織物のなかに「セクシャリティの袋小路 impasses de la sexualité」を把握しようとした。これは英雄的試みだった、数学的論理の方法にて精神分析を「現実界の科学 science du réel 」へと作り上げるために。しかしそれは、享楽をファルス関数の記号のなかの檻に幽閉することなしでは為されえない。
(⋯⋯結局、性別化の式は、身体とララング(≒サントーム)とのあいだの最初期の衝撃」の後に介入された「二次的結果 conséquence secondaire」にすぎない。この最初期の衝撃は、「法なき現実界 réel sans loi」 、「論理なき現実界 réel sans logique」を構成する。論理はのちに導入されるだけである。(J.-A. MILLER,「21世紀における現実界 LE RÉEL AU XXIèmeSIÈCLE」2012年)
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