象徴界は言語である。Le Symbolique, c'est le langage(Lacan, S25, 10 Janvier 1978)
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ファルスの意味作用 Die Bedeutung des Phallusとは実際は重複語 pléonasme である。言語には、ファルス以外の意味作用はない il n'y a pas dans le langage d'autre Bedeutung que le phallus。(ラカン, S18, 09 Juin 1971)
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フロイトやラカンにおいて象徴秩序(言語秩序)とは、ファルス秩序である。このファルス秩序においては、女というものは存在しない。 |
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男性性は存在するが、女性性は存在しない gibt es zwar ein männlich, aber kein weiblich。…両性にとって、(徴としての)ひとつの性器、すなわち男性性器 Genitale, das männliche のみが考慮される。したがってここに現れているのは、性器の優位 Genitalprimat ではなく、ファルスの優位 Primat des Phallus である。(フロイト『幼児期の性器的編成(性理論に関する追加)』1923年)
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もちろん女性性は存在しなくても生身の女たちはふんだんにいるーー《女というものは存在しない。女たちはいる。La femme n'existe pas. Il y des femmes,》(Lacan, Conférence à Genève sur le symptôme, 1975)
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さらに言えば、このファルス秩序においては、女はファルスが欠けた不完全な存在である。だが言語外の現実界から見れば、《女は何も欠けていない La femme ne manque de rien》(ラカン, S10, 13 Mars 1963)。欠如とは象徴界の用語である。他方、穴は現実界の審級の用語である(参照)。
ある時期以降のラカンにとって去勢は欠如ではなく「欠如の欠如=穴」である、ーー《私は(-φ)[去勢]を、欠如が欠如している manque vient à manquerと表現しうる》(ラカン, S10, 28 Novembre 1962)。 象徴界に囚われたままだと女はどうしても劣等となるが、現実界の観点からは男より女のほうがエラくなる。これが、1959年4月8日に《大他者の大他者はない Il n'y a pas d'Autre de l'Autre》と言って父の名を否定した以後のラカンにおける男女のあいだのどんでん返しのひとつである。 |
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以下、ジジェクとミレール を引用するが、上の前提で読もう。
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女はファルスが欠けた男である
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男はファルスを持った女である
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標準的な読み方によれば、女はファルスを差し引いた男である。すなわち、女は完全には人間でない。彼女は、完全な人間としての男と比較して、何か(ファルス)が欠けている。[she lacks something (Phallus) with regard to man as a complete human being]
だが異なった読み方によれば、不在は現前に先立つ。すなわち、男はファルスを持った女である[man is woman with phallus]。そのファルスとは、先立ってある耐え難い空虚を穴埋めする詐欺、囮である。ジャック=アラン・ミレールは、女性の主体性と空虚の概念とのあいだにある独特の関係性に注意を促している。
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《 我々は、「無 le rien」と本質的な関係性を享受する主体を、女たち femmes と呼ぶ。私はこの表現を慎重に使用したい。というのは、ラカンの定義によれば、どの主体も、無に関わるのだから。しかしながら、ある一定の仕方で、女たちである主体が「無」を享受する関係性は、(男に比べ)より本質的でより接近している。 》 (Jacques-Alain Miller, "Des semblants dans la relation entre les sexes", 1997)
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ここから次のようにどうして言えないわけがあろう。すなわち究極的には、主体性自体(厳密なラカン的意味での $ 、すなわち「斜線を引かれた主体」の空虚)が女性性である、と。[subjectivity as such (in the precise Lacanian sense of $, of the void of the "barred subject") is feminine](ジジェク『『為すところを知らざればなり』第二版序文、2008年)
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女は狂っている
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男は詐欺師である
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「すべての女は狂っている Toutes les femmes sont folles」(テレヴィジョン 1973)とラカンは言った。これは、女性性の普遍的概念が欠けているゆえである。女たちは女が何であるか知らないのである[elles ne savent pas qui elles sont]。しかしラカンはまたこうも言う、「女たちはまったく狂っていない elles ne sont pas folles du tout」と。というのは女たちは自分が知らないことを知っているから[elles savent qu'elles ne savent pas]。
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他方、男は知っている。男は男であることが何であるかを信じている[Tandis que les hommes savent, croient savoir ce que c'est qu'être un homme]。そしてこの知は唯一、「詐欺師の審級 le registre de l'imposture」において得られる。…(J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse III, 26 novembre 2008)
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女は狂っているというのは、上にあるように悪い意味ではない。
これは「欠如/穴」の対比において基本的には穴側にいる女性の特徴である。
とはいえ欠如側のファルス享楽に位置する女性がいないわけではないし、逆も真である。
さて話をいくらか変える。
これは「欠如/穴」の対比において基本的には穴側にいる女性の特徴である。
とはいえ欠如側のファルス享楽に位置する女性がいないわけではないし、逆も真である。
女性たちのなかにも、ファルス的な意味においてのみ享楽する女たちがいる。このファルス享楽は、シニフィアンに、象徴界に結びつけられた享楽である。…この場所におけるヒステリーの女性は、男に囚われたまま、男に同一化したままの(男へと疎外されたままの)女である。(Florencia Farìas, Le corps de l'hystérique – Le corps féminin、2010)
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J.-A. Miller, Un répartitoire sexuel, 1999
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「持つこと」の水準には、厳密にリアルなペニスがある。それは、パートナーの一方に属し、他方には属さないものである。われわれはそれをシンプルにプラスマイナスで書く。「ある」と「ない」である。au niveau de l'avoir, précisément du pénis réel […] Nous l'écrivons, […] en opposant simplement le plus et le moins, le il y a et le il n'y a pas.
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ーーまずミレール はここで実物のおチンチンのプラスマイナスを言っている。
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対象の項において、男性側では対象は、フェティッシュの形式[la forme du fétiche]を取る。フェティッシュは基本の、対象aである[objet de base, l'objet petit a]。…フェティッシュはもちろん対象aの特徴を強調するが、対象aのひとつのヴァージョンに過ぎない。[Le fétiche, bien sûr, accentue le caractère de l'objet petit a. Ce n'est qu'une des versions de l'objet a]。
女性側の被愛妄想érotomanieはフェティッシュに比べ、より対象的はなくmoins objectal、愛を支える対象un objet support de l'amourであり、ラカンは穴Ⱥと徴した。
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ラカンは繰り返し強調している、愛があるところには、去勢の条件があると。この理由で、愛の大他者は彼が持っているものを剥奪されなければならない。Lacan a souligné, de façon répétitive, que, pour qu'il y ait de l'amour, il y a une condition de castration. C'est pourquoi Lacan pouvait dire que, pour une femme, l'Autre de l'amour doit être privé de ce qu'il donne. (J.-A. Miller, Un répartitoire sexuel, 1999)
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ーーフェティッシュ (φ) とは最も基本的には女の不在ペニスの代理物である、ーー《フェティッシュは女のファルス(母のファルス)の代理物である。der Fetisch ist der Ersatz für den Phallus des Weibes (der Mutter) 》(フロイト『フェティシズム Fetischismus』1927年)
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欲望の原因 cause du désirの項において、剰余享楽と愛の対立opposition entre le plus-de-jouir et, de l'autre côté, l'amourがある。さらにこの愛を強調すれば「狂気の愛 amour fou」である。この意味は何か。アンドレ・ブルトンの書名であるが、この「狂気の」という形容詞は、本質として限度なき愛を示す[amour, par essence, est sans limite]。
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ラカンの定義において、「愛はあなたが持っていないものを与える l'amour est donner ce qu'on n'a pas」である。愛は、持つことの完膚なきまでの廃棄[annulation complète de l'avoir]にある。…これが構造Ⅱにて示したものである。左側には有限[le limité]、右側には無限[l'illimité]がある。この無限は、持つことの彼岸としての愛の地位[statut de l'amour comme au-delà de l'avoir]から還元したものである。 (J.-A. Miller, Un répartitoire sexuel, 1999)
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ーー《愛は、持つことの完膚なきまでの廃棄》というのは、事実上、おチンチンの廃棄なのではなかろうか・・・とすれば通常の男には真の愛は無理である・・・フェティッシュに専念する他ない・・・
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享楽の様式 modes-de-jouir の項の左側に症状、右側に破壊[à gauche le symptôme et à droite le ravage]を記す。
破壊は、愛の別の顔である。破壊と愛は同じ原理をもつ。すなわち穴の原理である。穴とは、「限度なき」という意味での非全体である。Le terme de ravage,[…]– que c'est l'autre face de l'amour. Le ravage et l'amour ont le même principe, à savoir grand A barré, le pas-tout au sens du sans-limite.
他方、症状は常に有限の苦痛・局地化された苦痛である。le symptôme, c'est une souffrance toujours limitée, une souffrance localisée. (J.-A. Miller, Un répartitoire sexuel, 1999、摘要訳)
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ーーというわけで、女たちは限度がないのである。だが何の「限度なき」なんだろうか?
性交の喜びを10とすれば、男と女との快楽比は1:9である。(ティレシアスの神話)
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性交後、雄鶏と女を除いて、すべての動物は悲しくなる post coitum omne animal triste est sive gallus et mulier(ラテン語格言、ギリシャ人医師兼哲学者Galen)
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われわれは次のように、女性の扱い方に分別を欠いている。すなわち、われわれは、彼女らがわれわれと比較にならないほど、愛の営みに有能で熱烈であることを知っている。このことは…かつて別々の時代に、この道の達人として有名なローマのある皇帝(ティトゥス・イリウス・プロクルス)とある皇后(クラディウス帝の妃メッサリナ)自身の口からも語られている。この皇帝は一晩に、捕虜にしたサルマティアの十人の処女の花を散らした。だが皇后の方は、欲望と嗜好のおもむくままに、相手を変えながら、実に一晩に二十五回の攻撃に堪えた。(モンテーニュ『エセー』)
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ーーああ、《メデューサの首 la tête de MÉDUSE…女陰の奈落 abîme de l'organe féminin、すべてを呑み込む湾門であり裂孔 le gouffre et la béance de la bouche》(ラカン、S2, 16 Mars 1955)・・・ご安心なされ、これは初期ラカンである。中期以降は「鰐の口」としか言っていない・・・
ミレールだって《真の女は常にメデューサである。une vraie femme, c'est toujours Médée》. (J.-A. Miller, De la nature des semblants, 1991)のたぐいを連発していたのは1998年以前で、その年、フロイト大義派の3分の1がコレット ・ソレールを頭領として抜けて分裂した後は、とっても穏やかになりツマラナクナッタ・・・過激さが減少したのは年齢の関係もあるんだろうが。
我々は、見せかけを無を覆う機能と呼ぶ。Nous appelons semblant ce qui a fonction de voiler le rien(J.-A. Miller, Des semblants dans la relation entre les sexes、1997)
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女は、見せかけに関して、とても偉大な自由をもっている!la femme a une très grande liberté à l'endroit du semblant ! (Lacan、S18, 20 Janvier 1971)
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女性は自らが持っていないものの代わりにファルスを装う。つまり対象a、あるいはとても小さなフェティッシュ (φ) を装う。[elle ne peut prendre le phallus que pour ce qu'il n'est pas, c'est-à-dire : soit petit(a) , l'objet, soit son trop petit (φ) ](ラカン 、S10, 5 Juin 1963)
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この1963年の話は10年後の1973年末のテレヴィジョンでも「仮装」ーーつまり「女性の仮装」ーーという言葉を使って同じことをいっており、ラカンの基本認識である。
男たちは、たとえばミニスカ女子という「歩くフェティッシュ」に敬意を表さねばならないのである。
蚊居肢子は、ツイッターなどで「囀るフェティッシュ」をやっている女たちをみると馬鹿にする傾向があったが、あれはひどく恩知らずな振舞いだった・・・反省することしきりである。
女はむしろ、私が男のものだと考える倒錯にたいして迎合的である[Elle se prête plutôt à la perversion que je tiens pour celle de L'homme]。このことは、女を例の仮装 mascaradeへと向かわせる。この仮装は、…恩知らずの男が女を責めるような虚偽mensongeではない。それは、男の幻想が女性の裡におのれの真理の時を見いだすために準備するという万一を見込むことだ。……なぜなら、真理は女[la vérité est femme ]なのだから。…つまり真理は非全体[pas toute]だから。(Lacan, AE540, Noël 1973)
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蚊居肢子は、ツイッターなどで「囀るフェティッシュ」をやっている女たちをみると馬鹿にする傾向があったが、あれはひどく恩知らずな振舞いだった・・・反省することしきりである。
女性が自分を見せびらかし s'exhibe、自分を欲望の対象 objet du désir として示すという事実は、女性を潜在的かつ密かな仕方でファルス ϕαλλός [ phallos ] と同一のものにし、その主体としての存在を、欲望されるファルス ϕαλλός désiré、他者の欲望のシニフィアン signifiant du désir de l'autre として位置づける。こうした存在のあり方は女性を、女性の仮装 la mascarade féminineと呼ぶことのできるものの彼方に位置づけるが、それは、結局のところ、女性が示すその女性性 féminité のすべてが、ファルスのシニフィアンに対する深い同一化に結びついているからである。この同一化は、女性性 féminité ともっとも密接に結びついている。(ラカン、S5、23 Avril 1958)
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とはいえアタシ「囀るフェティッシュ」なんかやってない! などとおっしゃってこられる女性の方があるのを恐れて、こう引用しておかないといけない、ーーー《自分は決して媚びないと知らせることは、すでに一種の媚びである》(ラ・ロシュフーコー)。
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