フロイトの言説において、死は愛である [la mort, c'est l'amour.] (Lacan, L'Étourdit E475, 1970)
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※参照:「愛は死である」
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自我の起源には死がある[aux origines du moi, il y a la mort]。…死はもちろん生物学的死ではない。厳密に自殺の死[la mort suicide]である。この理由で、ラカンは二つの形容詞を結びつけた。ナルシシズム的と自殺的[narcissique et suicidaire]である。
大他者のなかの自らに一撃を与えること、この攻撃性は「私を私と等置する[moi égale moi ]」というナルシシズムから始まる。これは厳密に自殺的である。というのは主体が斜線を引かれているのを自ら無視することだから。この理由でラカンは、イマージュと自殺性向[tendance suicide]を結びつけた。自我と犠牲のポジションとの親近性が意味するのは、ナルシシズムは自殺の魅惑に囚われていることである[le narcissisme est habité par l'attrait du suicide]。加えるに、ナルシスの神話がこれを証明する。 (J.-A. Miller, DONC - 26 janvier 1994)
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死へ向かう動き[tendance à la mort]。私はそれをラカンが離乳[sevrage]を語ったときに位置付ける。死と母とのあいだの結びつき。死の幻想のすべては、自殺への性向[pente au suicide]である。これは母への傾斜[le versant de la mère]に位置付けられる。母のイマーゴ[l'imago de la mère ]がこの理由を提供する。どういう意味か? 母は、原喪失・乳房の喪失の場を位置を占める[la mère préside à la perte primitive, celle du sein]。主体は、享楽の喪失が起こった時には常に、異なる強度にて、母なるイマーゴを喚起する[L'imago maternelle est rappelée au sujet, avec une intensité variable, chaque fois qu'une perte de jouissance intervient.]。(J.-A. Miller, DES REPONSES DU REEL, 14 mars 1984)
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死はまさに欲動の地平である[La mort est bien l'horizon même de la pulsion]。死が欲動の地平であるのは、シンプルに、欲動において主体は自らの欠如をターゲットにする[ le sujet vise son propre manque]からである。自身の欠如の目標において、主体はその有機体の何ものかを動員して、対象aの論理的一貫性[ la consistance logique de l'objet a.]を支えるために自らを捧げる。(J.-A. Miller, Ce-qui-fait-insigne, 4 FEVRIER 1987)
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狂気はナルシシズムである[La folie c'est le narcissisme]。だがこれはラカンのナルシシズムであり、フロイトのナルシシズムではない。ラカンのナルシシズムは本源的に、分裂したナルシシズム・疎外されたナルシシズム[un narcissisme divisé, aliéné]である。このナルシシズムは厳密に、不可能な「私を私と等置する[moi égale moi]」跳躍であり、狂気の目眩く探求はこの跳躍を目指す。…「私を私と等置[moi égale moi]」しようと自らを抱き締めるこの主体は、唯一「死の領野[le champ de la mort]」にある。この理由でラカンは言い得た、根源的な犠牲は自殺的だ[le sacrifice primordial est suicidaire]と。 (J.-A. Miller, CAUSE ET CONSENTEMENT, 2 décembre 1987)
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行為への遂行の極みは、自殺である。[Le comble du passage à l'acte, c'est le suicide ](J.-A. Miller, 1, 2, 3, 4 -COURS DU 15 MAI 1985)
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以上、比較的はやい時期のジャック=アラン・ミレールのセミネールを中心に、自殺あるいは死をめぐっての発言をいくらか拾ったものである。
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以下はいままで何度も引用してきた文献群である。
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以下はいままで何度も引用してきた文献群である。
愛の引力
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愛と憎悪との対立は、引力と斥力という両極との関係がおそらくある。Gegensatzes von Lieben und Hassen, der vielleicht zu der Polaritat von Anziehung und AbstoBung (フロイト『人はなぜ戦争するのかWarum Krieg?』1933年)
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同化の力としてのエロスは、引力Anziehungである(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年、摘要訳)
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享楽の穴(と剰余享楽の穴埋め)
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装置が作動するための剰余享楽の必要性がある。つまり享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として、示される。[la nécessité du plus-de-jouir pour que la machine tourne, la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. ](ラカン, Radiophonie, AE434, 1970)
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あなた方が知っているように、ラカンは享楽と剰余享楽とのあいだを区別 [distinguera la jouissance du plus-de-jouir.]した時、形式化をいっそうしっかりしたものにするようになった。なぜラカンは区別したのか、空胞化された、穴としての享楽と、剰余享楽としての享楽 [la jouissance comme évacuée, comme trou, et la jouissance du plus-de-jouir] を? その理由は対象aは二つを意味するからである。生き生きとした形で言えば、対象aは穴と穴埋め [le trou et le bouchon] である。(J.-A. Miller, Extimité, 16 avril 1986)
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引力=穴
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フロイトは原抑圧l'Urverdrängungを他のすべての抑圧が可能なる引力の核 le point d'Anziehungとした。 (ラカン, S11, 03 Juin 1964)
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私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même. (Lacan, S23, 09 Décembre 1975)
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大他者の享楽(享楽自体)=エロス(愛)
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大他者の享楽[la Jouissance de l'Autre]…私は強調するが、ここではまさに何ものかが位置づけられる。…それはフロイトの融合としてのエロス、一つになるものとしてのエロスである[la notion que Freud a de l'Éros comme d'une fusion, comme d'une union]。(Lacan, S22, 11 Février 1975)
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以上により「愛の引力=享楽の穴」となる。
そして「愛の引力=享楽の穴」の先にあるものは死である。
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究極の享楽=死
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大他者の享楽は不可能である jouissance de l'Autre […] c'est impossible。大他者の享楽はフロイトのエロスのことであり、一つになるという神話である。だがどうあっても、二つの身体が一つになりえない。…ひとつになることがあるとしたら、…死に属するものの意味に繋がるときだけである。le sens de ce qui relève de la mort. (ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974, 摘要訳)
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死への道 Le chemin vers la mort…それはマゾヒズムについての言説であるdiscours sur le masochisme 。死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)
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生の目標は死である。Das Ziel alles Lebens ist der Tod. (フロイト『快原理の彼岸』第5章)
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有機体はそれぞれの流儀に従って死を望む sterben will。生命を守る番兵Lebenswächterも元をただせば、死に仕える衛兵 Trabanten des Todes であった。(フロイト『快原理の彼岸』第5章、1920年)
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享楽の漂流=死の漂流
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私は欲動Triebを翻訳して、漂流 dérive、享楽の漂流 dérive de la jouissance と呼ぶ。[j'appelle la dérive pour traduire Trieb, la dérive de la jouissance. ](ラカン、S20、08 Mai 1973)
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人は循環運動をする on tourne en rond… 死によって徴付られたもの marqué de la mort 以外に、どんな進展 progrèsもない 。それはフロイトが、« trieber », Trieb という語で強調したものだ。仏語では pulsionと翻訳される… 死の欲動 la pulsion de mort …もっとましな訳語はないものだろうか。「dérive 漂流(さまよい)」という語はどうだろう。(ラカン、S23, 16 Mars 1976)
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死は、ラカンが享楽と翻訳したものである。death is what Lacan translated as Jouissance.(Jacques-Alain Miller、A AND a IN CLINICAL STRUCTURES, 1988)
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死は享楽の最終的形態である。death is the final form of jouissance(ポール・バーハウ『享楽と不可能性 Enjoyment and Impossibility』2006)
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愛は不可能である[l'amour soit impossible] (ラカン, S20, 13 Mars 1973)
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死は愛である [la mort, c'est l'amour.](Lacan, L'Étourdit E475, 1970)
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