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2020年5月6日水曜日

愛は死である

「愛は妄想」に引き続いて「愛は死」である。愛と死ではない。

まず以下の文章群を読めば、論理的に「愛は死」となることがわかる筈である。



愛は融合である
エロスは接触 Berührung を求める。エロスは、自我と愛する対象との融合 Vereinigung をもとめ、両者のあいだの間隙 Raumgrenzen を廃棄(止揚Aufhebung)しようとする。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
エンペドクレスの二つの根本原理―― 愛と闘争 philia[φιλία]und neikos[νεκος ]――は、その名称からいっても機能からいっても、われわれの二つの原欲動 Urtriebe、エロスErosと破壊 Destruktion と同じものである。ひとつは現に存在しているものをますます大きな統一へと結びつけzusammenzufassenようと努める。他方はその融合 Vereinigungen を分離aufzulösen し、統一によって生まれたものを破壊zerstören しようとする。

Die beiden Grundprinzipien des Empedokles – φιλία und νεκος – sind dem Namen wie der Funktion nach das gleiche wie unsere beiden Urtriebe Eros und Destruktion, der eine bemüht, das Vorhandene zu immer größeren Einheiten zusammenzufassen, der andere, diese Vereinigungen aufzulösen und die durch sie entstandenen Gebilde zu zerstören. (フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)

大他者の享楽は愛(融合)である
エロスは二つが一つになることを基盤にしている。l'Éros se fonde de faire de l'Un avec les deux (ラカン、S19、 03 Mars 1972 Sainte-Anne)
大他者の享楽[la Jouissance de l'Autre]……それはフロイトの融合としてのエロス、一つになるものとしてのエロスである[la notion que Freud a de l'Éros comme d'une fusion, comme d'une union]。(Lacan, S22, 11 Février 1975)
融合としての愛は不可能である
愛は不可能である。l'amour soit impossible (ラカン、S20, 13 Mars 1973)
融合としての愛は死である
大他者の享楽は不可能である jouissance de l'Autre […] c'est impossible。大他者の享楽はフロイトのエロスのことであり、一つになるという(プラトンの)神話である。だがどうあっても、二つの身体が一つになりえない。…ひとつになることがあるとしたら、…死に属するものの意味 le sens de ce qui relève de la mort.  に繋がるときだけである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974、摘要)

生きている存在には愛はない
JȺ(斜線を引かれた大他者の享楽)⋯⋯これは大他者の享楽はない il n'y a pas de jouissance de l'Autreのことである。大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre のだから。それが、斜線を引かれたA [穴Ⱥ] の意味である。(ラカン、S23、16 Décembre 1975)
享楽自体は、生きている主体には不可能である。というのは、享楽は主体自身の死を意味する it implies its own death から。残された唯一の可能性は、遠回りの道をとることである。すなわち、目的地への到着を可能な限り延期するために反復することである。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex, 2009)
愛は死である
死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S1726 Novembre 1969)
死は、ラカンが享楽と翻訳したものである。death is what Lacan translated as Jouissance.(ミレールJacques-Alain Miller、A AND a IN CLINICAL STRUCTURES、1988年)
死は享楽の最終形態である。death is the final form of jouissance(PAUL VERHAEGHE, Enjoyment and Impossibility, 2006)


さて「愛は妄想」とどうやって整合性をつけるべきか。

上で示した愛とは現実界的な愛である。「愛は妄想」で示した愛は、想像界的愛プラス象徴界的愛である。

つまりはこうである。






より厳密に示せばこうである。

リビドーの三界(三相) Troi avatars de la libido
想像界の審級にあるリビドー 。ナルシシズムと対象関係の裏返しとしてリビドー 。libido dans lê resistre de l'imaginaire. […] la réversibilité entre le narcissisme et la relation d'objet.
象徴界の審級の機能としてのリビドー 。欲望と換喩的意味とのあいだの等価性としてのリビドー 。libido en fonction du registe du symbolique. […] à I'éqüvalence du désir et du sens, exaçtement du sens métonymique
現実界の審級、享楽としてのリビドー 。la libido en tant que iouissance oui est du reeiste du réel  (Jacques-Alain Miller, STLET, 15 mars 1995)




そしてリビドーとは愛の力を意味する。すなわちリビドーの三相とは、「愛の力の三相」である。


リビドー =愛の力、エロスエネルギー
哲学者プラトンのエロスErosは、その由来 Herkunft や作用 Leistung や性愛 Geschlechtsliebe との関係の点で精神分析でいう愛の力 Liebeskraft、すなわちリビドーLibido と完全に一致している。(フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)
すべての利用しうるエロスエネルギーEnergie des Eros を、われわれはリビドーLibidoと名付ける。…(破壊欲動のエネルギーEnergie des Destruktionstriebesを示すリビドーと同等の用語はない)。(フロイト『精神分析概説』死後出版1940年)


むかしからよく知られているように、男は「欲望の妄想」が得意であり、女は自己愛、正確には「ナルシシズムの妄想」が得意である。

(多くの男は)愛するとき欲望しない。欲望するとき愛しえない。Wo sie lieben, begehren sie nicht, und wo sie begehren, können sie nicht lieben.…
男はほとんど常に、女性への敬愛Respekt vor dem Weibeを通しての性行動sexuellen Betätigung に制限を受けていると感じる。そして貶められた性的対象erniedrigtes Sexualobjekt に対してのみ十全なポテンツを発揮する。(フロイト『性愛生活が誰からも貶められることについて』1912)
われわれは、女性性には(男性性に比べて)より多くのナルシシズムがあると考えている。このナルシシズムはまた、女性による対象選択 Objektwahl に影響を与える。女性には愛するよりも愛されたいという強い要求があるのである。geliebt zu werden dem Weib ein stärkeres Bedürfnis ist als zu lieben.(フロイト『新精神分析入門』第33講「女性性」1933年)
女たちは「欲望されると同時に愛されるêtre désirée en même temps qu'aimée」(ラカン、E694、1958)ことが願いである。(ピエール=ジル・ゲガーンPierre-Gilles Guéguen, On Women and the Phallus 2010)

欲望と自己愛のどちらの妄想も享楽に対する防衛であるが、巷間では女性的ナルシシズムの方が「関係する女」などと言い換えられてエライことになっている。だが、これはたんなる時代のイデオロギーに過ぎない。

フロイトラカン派において、あらゆる意味での愛の思考の原点は次の図に示された捉え方である。




ナルシシズムとは前期ラカン的にいえば被愛マニアである。

男の愛の「フェティッシュ形式 la forme fétichiste」 /女の愛の「被愛マニア形式 la forme érotomaniaque」(ラカン「女性のセクシャリティについての会議のためのガイドラインPropos directifs pour un Congrès sur la sexualité féminine」E733、1960年)
女性の愛の形式は、フェティシストというよりももっと被愛マニア的です[Mais la forme féminine de l'amour est plus volontiers érotomaniaque que fétichiste]。女性は愛されたいのです[elles veulent être aimées]。愛と関心、それは彼女たちに示されたり、彼女たちが他のひとに想定するものですが、女性の愛の引き金をひく[déclencher leur amour]ために、それらはしばしば不可欠なものです。(ジャック=アラン・ミレール Jacques-Alain Miller, On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " 2010年)



ついでに次の図も掲げておきましょう。



女性の側の「欲望の原因」が、男性側の剰余享楽に対してamour fouーーアンドレ・ブルトンの「狂気の愛」ーーになっていますが、これはたいして深い意味はアリマセン。その下の「有限/無限」のほうが大切です。被愛マニアの項の穴マークȺだって大事かも知れません。穴とは引力のことです。別名ブラックホールです。

オチンチンプラスマイナスのマイナスのほうが無限なのはよく知られています。ヤッタってナーニモ減らないのですから・・・いつも負けるのは男です・・・勃起萎縮がどうしたってあります・・・

男が女と寝るときには確かだな、…絞首台か何かの道のりを右往左往するのは。[monsieur  couche avec une femme en étant très sûr d'être… par le gibet ou autre chose …zigouillé à la sortie.]  ……もちろん女がパッションの過剰 excès passionnelsに囚われたときだがね。(Lacan, S7, 20  Janvier  1960)           



・・・さて話を戻せば(?)そもそも男も女もすべてナルシシストーーいわゆる求関係性ーーになってしまった世界を想像してみればよい。引力の磁石ばかりになりくっつきようがない。妄想としての性関係はほとんど成り立たなくなってしまう。偉大なる真のフェミニスト 、カミール・パーリア 曰くの追っかけと誘惑 Pursuit and seduction はセクシャリティの本質である》(Sex, Art, and American Culture2011)であってこそ、ヒト族はまがりなりにも淘汰から免れる。

男の幸福は、「われは欲する」である。女の幸福は、「かれは欲する」ということである。Das Glück des Mannes heisst: ich will. Das Glück des Weibes heisst: er will. (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第1部「老いた女と若い女」1883年)


こうしてビリー・クリスタルの名高い箴言の内実が精神分析的にも明瞭になったはずである。

女たちはセックスするのに理由がいるが、男たちは場所がいるだけだ。Women need a reason to have sex. Men just need a place.(米国喜劇俳優ビリー・クリスタル)


いくら女性の方々がこの箴言をオキライでも、一般的真理から目を逸らしてはなりません。ええっと、「愛は死」から話が逸れた気がしますが、こっちのほうは許容せねばなりません。死は怖いから防衛として「ナルシシズム的理由と欲望的場所」が必要なのです、とだけ言っておきましょう。