我々はみな現実界のなかの穴を穴埋めするために何かを発明する。現実界には 「性関係はない」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」を為す。…tous, nous inventons un truc pour combler le trou dans le Réel. Là où il n'y a pas de rapport sexuel, ça fait « troumatisme ».(ラカン、S21、19 Février 1974)
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ラカンの究極のテーゼは「性関係はない」なのだから、ラカンのどこをどうこねくり回したって、男女のあいだの愛の関係があるはずがない。定義上、ラカン的には愛は妄想であり、フロイト的には愛は夢想である。日本には「人はみな妄想する」という題名をもった書物があるのだからーーわたくしはネット上で短い断片を拾ったことがあるだけで、どんなことが書かれているのかは不詳だがーー、それを読んだことがある人ならみなわかっている筈のことである。 |
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フロイトはすべては夢だけだと考えた。すなわち人はみな(もしこの表現が許されるなら)、ーー人はみな狂っている。すなわち人はみな妄想する。
Freud[…] Il a considéré que rien n’est que rêve, et que tout le monde (si l’on peut dire une pareille expression), tout le monde est fou, c’est-à-dire délirant (Jacques Lacan, « Journal d’Ornicar ? », 1978)
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「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé …この意味はすべての人にとって穴があるということである[ce qu'il y a pour tous ceux-là, c'est un trou. ](J.A. Miller, Vie de Lacan, 17/03/2010 )
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ラカン派において、「愛は嘘」とか「愛は症状」とかいうが、これらも結局、「愛は妄想」ということである。
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愛は嘘
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ラカン曰く、《愛を語ること自体が享楽である Parler d'amour est en soi une jouissance》(S20, 13 Mars 1973)。しかし、愛の言葉 la parole d'amour はけっして真理の言葉ではない。パートナーについて語っているという思い込みは、実は、主体が己れの享楽との関係に満足を与えているにすぎない。ラカンはあれやこれやと言う…。結論。《愛は不可能である L'amour est impossible》。 いくつものセリエが重なってゆく。ナルシシズム、嘘吐き、錯誤、喜劇、不可能。(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)
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愛は症状
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愛の結びつき liens d'amour を維持するための唯一のものは、固有の症状 symptômes particuliers である。……「享楽は関係性を構築しない la jouissance ne se prête pas à faire rapport」という事実、これは(症状としての愛の根にある)現実界的条件である。(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens , 2011)
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症状は現実界についての嘘である。症状は、性関係はないという現実界についての特化した嘘である。Le symptôme est un mensonge sur le réel. Le symptôme est un mensonge sur le réel parce qu'il est spécialement un mensonge sur ce réel que le rapport sexuel n'existe pas. (J.-A. MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses Comités d'éthique, 18/12/96)
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長いあいだボロメオの環にかかずらわって、愛の可能性を模索したラカンは、ボロメオ担当の数学者たちをすべて破門し最後にこう言って死んでいった。
「性関係はない」ーーこれがラカンの結論である。したがって人は妄想せねばならない。
とはいえ嘘や症状、つまりは愛の妄想や愛の夢想は何の悪いことでもない。ほとんどの人には愛が必要なのだから、妄想したらいいのである。穴、つまり性関係の不在というトラウマの穴埋めをしたらいいのである。 |
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病理的生産物と思われている妄想形成は、実際は、回復の試み・再構成である。Was wir für die Krankheitsproduktion halten, die Wahnbildung, ist in Wirklichkeit der Heilungsversuch, die Rekonstruktion. (フロイト、シュレーバー症例 「自伝的に記述されたパラノイア(妄想性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察」1911年)
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ただしこの愛という妄想は、他人に迷惑をかけるから厄介なのである。
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愛は悪魔
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悪魔だ、熱病だ!
愛は悪魔だ。熱病という名の精神病だ。自分のつごうでふりまいておきながら、見返りだけはがっちり求めてくる得手勝手なヤツだ。愛するというのは悪いことだ。/異性愛だけではない。親子の愛、兄弟愛、愛と名のつくものはみな片輪で、はためいわくな感情だからきらいだ。わたしが家族を持たないのは、きらいな愛にとらわれたくないためだ。(深沢七郎ーー鴎外の娘森茉莉のスクラップ帖にはさまっていた文)
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逆に見返りを求めなかったら、いくらでも愛の妄想をしていいはずである。「見返りのない愛」とはリルケのドゥイノエレジーのテーマでもある。
したがって「空虚への注意」--ラカン的には「穴への注意」--を強調したヴェイユの「悪の根は夢想」は、その心意気に感嘆しないではないが、いくら言い過ぎである。
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悪の根は夢想である。夢想はたんなる慰安であり、たんなる数多の不幸である。la racine du mal, c'est la rêverie. Elle est l'unique consolation, l'unique richesse des malheureux(シモーヌ・ヴェイユ「 空虚への注意attention à vide」)
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蚊居肢散人はしばしば女というものを夢想する。
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女というものは存在しない。女たちはいる。だが女というものは、人間にとっての夢である。La femme n'existe pas. Il y des femmes, mais La femme, c'est un rêve de l'homme.(Lacan, Conférence à Genève sur le symptôme 、1975)
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見返りのない夢想だと観念していても、ときに迷惑をかけてしまうことがないではないが。これは男女間の非対称性の問題が大きい。
とはいえ男も女も「女というもの」を夢想したらいいのである。だが男というものを夢想したら絶対ダメである。男なんてものは元々詐欺師なんだから。
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本源的に抑圧されている要素は、常に女性的なものではないかと想定される。Die Vermutung geht dahin, daß das eigentlich verdrängte Element stets das Weibliche ist (フロイト「フリース書簡Brief an Wilhelm Fließ」25, mai, 1897)
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「女というもの La Femme」 は、その本質において dans son essence、女 la femme にとっても抑圧されている。男にとって女が抑圧されているのと同じように aussi refoulée pour la femme que pour l'homme。(ラカン、S16, 12 Mars 1969)
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………
こう記しただけだとまた何やら言ってくる人がいるのを怖れるので、補足しておこう。ま、上と似たようなもんだが。
◼️理論的補足
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真理は嘘
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真理は本来的に嘘と同じ本質を持っている。(フロイトが『心理学草稿』1895年で指摘した)proton pseudos[πρωτoυ πσευδoς] (ヒステリー的嘘・誤った結びつけ)もまた究極の欺瞞である。嘘をつかないものは享楽、話す身体の享楽である Ce qui ne ment pas, c'est la jouissance, la ou les jouissances du corps parlant。(JACQUES-ALAIN MILLER, L'inconscient et le corps parlant, 2014)
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唯一の真理=話す身体の享楽
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すべてが仮象(見せかけsemblant)ではない。或る現実界 un réel がある。社会的結びつき lien social の現実界は性的非関係である。無意識の現実界は、話す身体 le corps parlant である。象徴秩序が、現実界を統制し、現実界に象徴的法を課す知として考えられていた限り、臨床は、神経症と精神病とにあいだの対立によって支配されていた。象徴秩序は今、仮象のシステムと認知されている。象徴秩序は現実界を統治するのではなく、むしろ現実界に従属していると。それは、「性関係はない rapport sexuel qu'il n'y a pas」という現実界へ応答するシステムである。(ジャック=アラン・ミレール 、L'INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANT、2014)
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話す身体=現実界の身体
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現実界、それは話す身体の神秘、無意識の神秘である Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient(ラカン、S20、15 mai 1973)
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話す身体=自ら享楽する身体=自体性愛=性関係はない
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身体の実体は「自ら享楽する身体」としてのみ定義される。Substance du corps, à condition qu'elle se définisse seulement de « ce qui se jouit ». (ラカン, S20, 19 Décembre 1972)
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「自ら享楽する身体」とは、フロイトが自体性愛と呼んだもののラカンによる翻訳である。「性関係はない」とは、この自体性愛の優越の反響に他ならない。il s'agit du corps en tant qu'il se jouit. C'est la traduction lacanienne de ce que Freud appelle l'autoérotisme. Et le dit de Lacan Il n'y a pas de rapport sexuel ne fait que répercuter ce primat de l'autoérotisme. (J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, - 30/03/2011)
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ラカンが導入した身体は…自ら享楽する身体[un corps qui se jouit]、つまり自体性愛的身体である。この身体はフロイトが固着と呼んだものによって徴付けられる。リビドーの固着、あるいは欲動の固着である。結局、固着が身体の物質性としての享楽の実体のなかに穴を為す。固着が無意識のリアルな穴を身体に掘る[Une fixation qui finalement fait trou dans la substance jouissance qu'est le corps matériel, qui y creuse le trou réel de l'inconscient]。このリアルな穴は閉じられることはない。ラカンは結び目のトポロジーにてそれを示すことになる。要するに、無意識は治療されない。かつまた性関係を存在させる見込みはない。(ピエール=ジル・ゲガーン Pierre-Gilles Guéguen, ON NE GUÉRIT PAS DE L'INCONSCIENT, 2015)
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このピエール=ジル・ゲガーンの文は決定的注釈のひとつである。いくら妄想したって穴は埋まらない。身体には穴が開いているのである。おわかりだろうか、《身体は穴である。corps…C'est un trou》(Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)。人はみな穴がある。誰が開けるのか、この穴を。乳幼児期の子供の世話人である。フロイト曰くの「原誘惑者ersten Verführerin」である。そしてこの穴を穴埋めするのが妄想である。
人はみな性的妄想を抱く
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「性関係はない Il n'y a pas de rapport sexuel」。これは、まさに「女性のシニフィアンの排除 forclusion du signifiant de la femme」が関与している。そして女性のシニフィアンの排除とは、人が女の普遍的概念[concept universel de la femme]をもっていないということである。それは、ラカンの発言「人はみな狂っている Tout le monde est fou」を正当化する。この正当化されたレベルにおいて、主体において、女性の主体と性関係 le sujet de la femme et du rapport sexuel において、各人は性関係の構築をする[chacun a sa construction]。すなわち各人は性的妄想を抱く[chacun a son délire sexuel]。したがって特に、「すべての女は狂っている Toutes les femmes sont folles」とラカンは言った。これは、女性性の普遍的概念が欠けているゆえである。女たちは女が何であるか知らないのである[elles ne savent pas qui elles sont]。しかしラカンはまたこうも言う、「女たちは狂っているわけではまったくないelles ne sont pas folles du tout」と。というのは女たちは自分が知らないことを知っているから[elles savent qu'elles ne savent pas]。他方、男は知っている。男は男であることが何であるかを信じている[Tandis que les hommes savent, croient savoir ce que c'est qu'être un homme]。そしてこの知は唯一、「詐欺師の審級 le registre de l'imposture」において得られる。…
私は、フロイトのテキストを拡大し、…「性関係はないものとしての原抑圧の名[le nom du refoulement primordial comme Il n'y a pas de rapport sexuel」を強調しよう。…
話す存在 l'être parlant にとっての固有の病い、この病いは排除と呼ばれる[cette maladie s'appelle la forclusion]。女の排除(女というものの排除 la forclusion de la femme)、これが「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」の意味である。(Jacques-Alain Miller, Choses de finesse en psychanalyse III, Cours du 26 novembre 2008)
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人はみな穴埋めをする
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人はみな、標準的であろうとなかろうと、普遍的であろうと単独的であろうと、一般化排除の穴 Trou de la forclusion généralisée.を追い払うために何かを発明するよう余儀なくされる。…
もし、「妄想は、すべての話す存在に共通である le délire est commun à tout parlêtre」という主張を正当化するとするなら、その理由は、「参照の空虚 vide de la référence」にある。この「参照の空虚」が、ラカンが記したȺ(大他者のなかの穴)の意味であり、ジャック=アラン・ミレールが「一般化排除 forclusion généralisée 」と呼んだものである。(Jean-Claude Maleval, Discontinuité - Continuité – ecf、2018)
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要するに人が言語を使用して生きている限り、人はみな妄想するのである。動物たちは妄想しない。彼らのリアルな身体は本能に根付いている。ヒト族は不幸にも二本足で歩くようになり、大地との接触を喪失し本能が壊れてしまい、さらに厄介な言語などというものを使用するようなり、欲動しかない。初期ラカン(S1) は《本源的な欲動のアナーキーl'anarchie de ses pulsions élémentaires》と言ったが、これを日本語の語感通り取ったっていいのである。つまりは「欲動の穴空き」と。事実、後年のラカンは、《リビドーは、穴に関与せざるをいられない。La libido, […] ne peut être que participant du trou》(Lacan, S23, 1975)と言っている。 |
言語秩序=ファルス秩序
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ファルスの意味作用 Die Bedeutung des Phallusとは実際は重複語 pléonasme である。言語には、ファルス以外の意味作用はない il n'y a pas dans le langage d'autre Bedeutung que le phallus。(ラカン, S18, 09 Juin 1971)
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ファルスの意味作用とは厳密に享楽の侵入を飼い馴らすことである。La signification du phallus c'est exactement d'apprivoiser l'intrusion de la jouissance (J.-A. MILLER, Ce qui fait insigne,1987)
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女性のシニフィアンの排除 forclusion de signifiant de La femme がある。これが、ラカンの「女というものは存在しない」の意味である。この意味は、我々が持っているシニフィアンは、ファルスだけだということである。il y a une forclusion de signifiant de La femme. C'est ce que veut dire le “La femme n'existe pas” de Lacan.Ça veut dire que le seul signifiant que nous ayons, c'est le phallus. (J.-A. Miller, Du symptôme au fantasme et retour, Cours du 27 avril 1983)
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男性性は存在するが、女性性は存在しない gibt es zwar ein männlich, aber kein weiblich。…両性にとって、ひとつの性器、すなわち男性性器 Genitale, das männliche のみが考慮される。したがってここに現れているのは、性器の優位 Genitalprimat ではなく、ファルスの優位 Primat des Phallus である。(フロイト『幼児期の性器的編成(性理論に関する追加)』1923年)
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上でフロイトをいくらか引用したのを見てもわかるように、ラカンの「人はみな妄想する」、「女というものは存在しない」、あるいは「性関係はない」とは、フロイトが既に記していることを、ラカン がキャッチフレーズ的に言い直したにすぎない。
精神分析のエビデンスが示しているのは、ある期間持続して二人の人間のあいだにむすばれる親密な感情関係ーー結婚、友情、親子関係ーーのほとんどすべては、拒絶し敵対する感情のしこりを含んでいる。それが気づかれないのは、ただ抑圧されているからである。
おそらく唯一の例外は、母から息子への関係 Beziehung der Mutter zum Sohn である。これはナルシシズムに基づいており、後年の(娘との)ライバル意識によっても損なわれことなく、性的目標選択のアプローチによって強固なものになる。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第6章、1921年)
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ところが息子のほうはおおむねこの愛がひどく怖いのである。
女は子供を連れて危機に陥った場合、子供を道連れにしようという、そういうすごいところがあるんです。(古井由吉「すばる」2015年9月号)
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で、大きなムスコだってとっても怖いのである。
構造的な理由により、女の原型は、危険な・貪り喰う大他者と同一である。それは起源としての原母であり、元来彼女のものであったものを奪い返す存在である。(ポール・バーハウ,, NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL,1995)
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メドゥーサの首の裂開的穴は、幼児が、母の満足の探求のなかで可能なる帰結として遭遇しうる、貪り喰う形象である。Le trou béant de la tête de MÉDUSE est une figure dévorante que l'enfant rencontre comme issue possible dans cette recherche de la satisfaction de la mère.(ラカン、S4, 27 Février 1957)
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愛に生きる女性の方、お気をつけを! このあたりの機微が十全にわかっていないととってもイタイ目に遭いますから。
むかしはーー女性解放運動以前はーーこのあたりのことを女性はよく知っていたように思うが、20世紀後半の、1970年までは人権宣言の流れにあってまだしも1970年以降のおバカなフェミニストたちの悪影響もあって、勘違い女ばかりが棲息するようになり、オワカリニナッテイナイ女のせいで男と女はまともに結婚もできない世の中になってしまったが、男女間の究極の真理はーー男女とも女の股の間から生まれてくる限りーー先史時代から変わりようがないのである。
むかしはーー女性解放運動以前はーーこのあたりのことを女性はよく知っていたように思うが、20世紀後半の、1970年までは人権宣言の流れにあってまだしも1970年以降のおバカなフェミニストたちの悪影響もあって、勘違い女ばかりが棲息するようになり、オワカリニナッテイナイ女のせいで男と女はまともに結婚もできない世の中になってしまったが、男女間の究極の真理はーー男女とも女の股の間から生まれてくる限りーー先史時代から変わりようがないのである。
男の幸福は、「われは欲する」である。女の幸福は、「かれは欲する」ということである。Das Glück des Mannes heisst: ich will. Das Glück des Weibes heisst: er will. (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第1部「老いた女と若い女」1883年)
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女が男の徳をもっているなら、逃げだすがよい。また、男の徳をもっていないなら、女自身が逃げだす。Wenn das Weib männliche Tugenden hat, so ist es zum Davonlaufen; und wenn es keine männlichen Tu-genden hat, so läuft es selbst davon. (ニーチェ「箴言と矢」28番『偶像の黄昏』1888年)
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こうやって引用しているとドンドン芋蔓式に出てくるのだが、ま、このへんで打ち止めにしておこう。
チョチョマテヨ、これはやっぱりこの際引用しておこうか。
定義上異性愛とは、おのれの性が何であろうと、女性を愛することである。それは最も明瞭なことである。Disons hétérosexuel par définition, ce qui aime les femmes, quel que soit son sexe propre. Ce sera plus clair. (ラカン、L'étourdit, AE.467, le 14 juillet 72)
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「他の性 Autre sexs」は、両性にとって女性の性である。「女性の性 sexe féminin」とは、男たちにとっても女たちにとっても「他の性 Autre sexs」である。 (ミレール、Jacques-Alain Miller、The Axiom of the Fantasm)
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