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2020年4月11日土曜日

トラウマの境界表象S(Ⱥ)をめぐって



以下、上図の注釈である。

まず原抑圧から始める。

本源的に抑圧されている要素は、常に女性的なものではないかと想定される。Die Vermutung geht dahin, daß das eigentlich verdrängte Element stets das Weibliche ist (フロイト, フリース書簡 Brief an Wilhelm Fließ, 25, mai, 1897)
「女というもの La Femme」 は、その本質において dans son essence、女 la femme にとっても抑圧されている。男にとって女が抑圧されているのと同じように aussi refoulée pour la femme que pour l'homme。(ラカン、S16, 12 Mars 1969)

ーーここでの抑圧は固着としての原抑圧のこと。

抑圧は何よりもまず固着である。le refoulement est d'abord une fixation. (Lacan, S1, 07 Avril 1954 )
われわれには原抑圧 Urverdrängung、つまり心的(表象的-)欲動代理psychischen(Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes が意識的なものへの受け入れを拒まれるという、抑圧の第一相を仮定する根拠がある。これと同時に固着 Fixerung が行われる。(……)

欲動代理 Triebrepräsentanz は抑圧により意識の影響をまぬがれると、それはもっと自由に豊かに発展する。それはいわば暗闇に蔓延り wuchert dann sozusagen im Dunkeln 、極端な表現形式を見つけ、もしそれを翻訳して神経症者に指摘してやると、患者にとって異者のようなもの fremd に思われるばかりか、異常で危険な欲動の強さTriebstärkeという装い Vorspiegelung によって患者をおびやかすのである。(フロイト『抑圧』Die Verdrangung、1915年)


わたくしの知る限りで原抑圧の注釈としては次の二文が決定的だと考えている。

フロイトの原抑圧とは何よりもまず固着である。…この固着とは、身体的なものが心的なものの領野外に置き残されるということである。…原抑圧はS(Ⱥ) に関わる [Primary repression concerns S(Ⱥ)]。…この固着としての原抑圧は「現実界のなかに女というものを置き残すこと」として理解されうる。[Primary repression can […]be understood as the leaving behind of The Woman in the Real.  ](ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST?, 1997)
「性関係はない Il n'y a pas de rapport sexuel」。これは、まさに「女性のシニフィアンの排除 forclusion du signifiant de la femme) 」が関与している。…

私は、フロイトのテキストを拡大し、「性関係はないものとしての原抑圧の名[le nom du refoulement primordial comme Il n'y a pas de rapport sexuel」を強調しよう。…話す存在 l'être parlant にとっての固有の病い、この病いは排除と呼ばれる[cette maladie s'appelle la forclusion]。女というものの排除 la forclusion de la femme、これが「性関係はない 」の意味である。(ジャック=アラン・ミレール J-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse III, 26 novembre 2008)


固着も排除も女というものを現実界、つまりエスに置き残すという意味である。この「女というもの」は、言語秩序としてのファルス秩序の彼岸にある「身体的なもの」という意味であり、解剖学的女とは関係ない。

ラカンの現実界は、フロイトの無意識の核であり、固着のために置き残される原抑圧である。「置き残される」が意味するのは、「身体的なもの」が「心的なもの」に翻訳されないことである。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, BEYOND GENDER, 2001年)

「翻訳」とあるが、フロイトからじかに引用すれば次の二文がよい。

翻訳の失敗、これが臨床的に「抑圧」と呼ばれるものである。Die Versagung der Übersetzung, das ist das, was klinisch <Verdrängung> heisst.(フロイト、フリース書簡52、Freud in einem Brief an Fließ vom 6.12.1896)
自我はエスから発達している。エスの内容の或る部分は、自我に取り入れられ、前意識状態vorbewußten Zustandに格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳 Übersetzung に影響されず、原無意識(リアルな無意識 eigentliche Unbewußte)としてエスのなかに置き残されたままzurückである。(フロイト『モーセと一神教』1938年)

ーー原抑圧によって原無意識が生まれるのである。

原抑圧としての固着は、より厳密には「リビドーの固着」(あるいは欲動の固着)と呼ばれ、ラカン派なら「享楽の固着」という表現を好んで使う。

分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse は、リビドーの固着 Fixierungen der Libido を置き残す hinterlassen 傾向があることである。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道」1916年)
フロイトは、幼児期の享楽の固着の反復を発見したのである。 Freud l'a découvert[…] une répétition de la fixation infantile de jouissance. (J.-A. MILLER, LES US DU LAPS -22/03/2000)


バーハウ1997に「原抑圧はS(Ⱥ) に関わる」とあったが、S(Ⱥ)は超自我のマテームでもある。

われわれは S(Ⱥ)に、フロイトの超自我の翻訳 transcription du surmoi freudienを見い出しうる。(J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses Comités d'éthique - 27/11/96)


では超自我=原抑圧なのか。これは早い段階でミレールはすでにこう言っている。

二項シニフィアンの場に超自我を位置付けることの結果は、超自我と原抑圧を同じものと扱うことになる。超自我と原抑圧を一緒にするのは慣例ではないように見える。だが私はそう主張する。Ca ne paraît pas habituel que le surmoi et le refoulement originaire puissent être rapprochés, mais je le maintiens(J.-A. MILLER, LA CLINIQUE LACANIENNE, 24 FEVRIER 1982)


フロイトラカンから直接引用して補おう。

表象代理(=欲動代理)は二項シニフィアンである。この表象代理は、原抑圧の中核を構成する。フロイトは、これを他のすべての抑圧が可能となる引力の核とした。
Le Vorstellungsrepräsentanz, c'est ce signifiant binaire.  […] il à constituer le point central de l'Urverdrängung,… comme FREUD l'indique dans sa théorie …le point d'Anziehung, le point d'attrait, par où seront possibles tous les autres refoulements (ラカン、S11、03  Juin  1964)
われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧 Verdrängungenは、後期抑圧 Nachdrängen の場合である。それは早期に起こった原抑圧 Urverdrängungen を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力 anziehenden Einfluß をあたえる。(フロイト『制止、症状、不安』第2章1926年)


ところで、原症状としてのサントーム自体、S(Ⱥ)である。

我々が……ラカンから得る最後の記述は、サントーム sinthome の Σ である。 Σ としてのS(Ⱥ)  grand S de grand A barré comme sigma と記述することは、サントームに意味との関係性のなかで「外立ex-sistence」の地位を与えることである。現実界のなかに享楽を孤立化すること、すなわち、意味において外立的であることだ。(ミレール「後期ラカンの教え Le dernier enseignement de Lacan、 LE LIEU ET LE LIEN 」6 juin 2001 )


ここでもラカンから直接引いて補おう。

四番目の用語(Σ:サントームsinthome)にはどんな根源的還元もない Il n'y a aucune réduction radicale、それは分析自体においてさえである。というのは、フロイトが…どんな方法でかは知られていないが…言い得たから。すなわち原抑圧 Urverdrängung があると。決して取り消せない抑圧である。…そして私が目指すこの穴trou、それを原抑圧自体のなかに認知する。(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)

サントーム=原抑圧(固着)であり、すなわちS(Ⱥ)である。

固着の最も典型的なものは、母への固着である。

女への固着 Fixierung an das Weib (おおむね母への固着 meist an die Mutter)(フロイト『性欲論三篇』1905年、1910年注)
母へのエロス的固着の残滓、しばしば母への過剰な依存形式として居残る。そしてこれは女への隷属として存続する。Als Rest der erotischen Fixierung an die Mutter stellt sich oft eine übergrosse Abhängigkeit von ihr her, die sich später als Hörigkeit gegen das Weib fortsetzen wird. (フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

幼児の身体から湧き起こる欲動蠢動という奔馬を飼い馴らす最初の鞍を置くのは、母もしくは母親の人物である。これをミレールは「欲動のクッションの綴じ目」と表現している。

S (Ⱥ)とは真に、欲動のクッションの綴じ目である。S DE GRAND A BARRE, qui est vraiment le point de capiton des pulsions(Miller, L'Être et l'Un, 06/04/2011)


ここまでS (Ⱥ)=原抑圧(固着)=超自我=サントームであることを見てきたが、最晩年のフロイトによる超自我の記述を掲げよう。

超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する。Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend. (フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

自己破壊とは死の欲動のことである。

我々が、欲動において自己破壊 Selbstdestruktion を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動Todestriebes の顕れと見なしうる。(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)

したがって「原抑圧=固着=超自我=サントーム」のマテームS (Ⱥ)は死の欲動のマテームでもある。

S(Ⱥ)、すなわち、斜線を引かれた大他者のシニフィアン S de grand A barré。これは、ラカンがフロイトの欲動を書き換えたシンボル symbole où Lacan transcrit la pulsion freudienne である。(ミレール「後期ラカンの教え Le dernier enseignement de Lacan、 LE LIEU ET LE LIEN 」6 juin 2001 )
すべての欲動は実質的に、死の欲動である。 toute pulsion est virtuellement pulsion de mort(ラカン、E848、1966年)
タナトスとは超自我の別の名である。 Thanatos, which is another name for the superego (ピエール・ジル・ゲガーン Pierre Gilles Guéguen, The Freudian superego and The Lacanian one. 2018)


ところでミレールはこう言っている。

サントーム=モノ=享楽=異者としての身体
ラカンがサントームと呼んだものは、ラカンがかつてモノと呼んだものの名、フロイトのモノの名である。Ce que Lacan appellera le sinthome, c'est le nom de ce qu'il appelait jadis la Chose, das Ding, ou encore, en termes freudiens,(J.A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse X, 4 mars 2009)
モノは享楽の名である。das Ding[…] est tout de même un nom de la jouissance(J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XX, 10 juin 2009)
モノを 、フロイトは異者とも呼んだ。das Ding[…] ce que Freud appelle Fremde – étranger. (J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 26/04/2006)
モノは、…異者としての身体(異物corps étranger )のモデルである。(J-A. Miller, Extimité, 13 novembre 1985)


ここで上に掲げたフロイトの「抑圧」論文の記述を再掲しよう。

われわれには原抑圧 Urverdrängung、つまり心的(表象的-)欲動代理psychischen(Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes が意識的なものへの受け入れを拒まれるという、抑圧の第一相を仮定する根拠がある。これと同時に固着 Fixerung が行われる。(……)

欲動代理 Triebrepräsentanz は抑圧により意識の影響をまぬがれると、それはもっと自由に豊かに発展する。それはいわば暗闇に蔓延り wuchert dann sozusagen im Dunkeln 、極端な表現形式を見つけ、もしそれを翻訳して神経症者に指摘してやると、患者にとって異者のようなもの fremd に思われるばかりか、異常で危険な欲動の強さTriebstärkeという装い Vorspiegelung によって患者をおびやかすのである。(フロイト『抑圧』Die Verdrangung、1915年)

こうして「異者」という用語を介して、より具体的にサントームと原抑圧が関係してくるのが解る。
ラカン自身は異者としてのモノについてこう言っている。

モノ=母=享楽の対象=喪われた対象=異者としての身体
モノは母である。das Ding, qui est la mère (ラカン, S7 , 16 Décembre 1959)
私の最も内にある親密な外部、モノとしての外密 extériorité intime, cette extimité qui est la Chose(ラカン,S7, 03 Février 1960)
享楽の対象 Objet de jouissance …モノLa Choseは…喪われた対象objet perduである。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
われわれにとっての異者としての身体 un corps qui nous est étranger(ラカン, S23, 11 Mai 1976)

「異者としての身体 」と同じ意味をもつフロイトの”Fremdkörper”は一般的には「異物」と訳されるが、語の成り立ち上、「異者身体」ともできる。

われわれはエスの欲動蠢動を、異物ーーたえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen ーーと呼んでいる。…異物とは内界にある自我の異郷部分 ichfremde Stück der Innenweltである。(フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)

したがってミレールはこう言う。

モノ=享楽=エス=欲動の無意識
フロイトのモノ、これが後にラカンにとって享楽となる[das Ding –, qui sera plus tard pour lui la jouissance]。…フロイトのエス、欲動の無意識。事実上、この享楽がモノである。[ça freudien, l'inconscient de la pulsion. En fait, cette jouissance, la Chose](J.A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse X, 4 mars 2009)


サントームとはまた身体の出来事と定義されている。次の文の「症状」は原症状としてのサントームのことである。

症状は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)
症状は刻印である。現実界の水準における刻印である。Le symptôme est l'inscription, au niveau du réel,(Lacan, LE PHÉNOMÈNE LACANIEN, 30 nov 1974)
疑いもなく、症状は享楽の固着である。sans doute, le symptôme est une fixation de jouissance. (J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne III, 10 – 12/03/2008)

さあどうだろう? 以上により、サントームとは「母による身体の上への刻印(固着)」とすることができる筈である。この刻印がエスのなかに置き残される異者としての身体である、と。

サントームのS(Ⱥ)とは穴Ⱥのシニフィアンである。穴、すなわちトラウマ。

現実界は…穴=トラウマを為す。le Réel […] ça fait « troumatisme ».(ラカン、S21、19 Février 1974)

要するにサントームであり固着(原抑圧)であるS(Ⱥ)は「トラウマの境界表象」と呼ぶことができる。

抑圧 Verdrängung は、過度に強い対立表象 Gegenvorstellung の構築によってではなく、境界表象 Grenzvorstellung の強化によって起こる。Die Verdrängung geschieht nicht durch Bildung einer überstarken Gegenvorstellung, sondern durch Verstärkung einer Grenzvorstellung(フロイト、フリース書簡 Freud Brief Fließ, 1. Januar 1896)


「トラウマの境界表象」、すなわち「トラウマへの固着」である。

幼児期に起こるトラウマは、自己身体の上への出来事 Erlebnisse am eigenen Körper もしくは感覚知覚 Sinneswahrnehmungen である。…この「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫 Wiederholungszwang」…これは、標準的自我 normale Ich と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1938年)

モノとは結局、固着によってエス(現実界)に置き残された身体的なものーー異者としての身体ーーということである。この身体は言語外にありフロイトラカンの定義上ではトラウマと呼ぶのである。

(心的装置に)同化不能の部分(モノ)einen unassimilierbaren Teil (das Ding)(フロイト『心理学草案 Entwurf einer Psychologie』1895)
現実界は、同化不能 inassimilable の形式、トラウマの形式 la forme du trauma にて現れる。(ラカン、S11、12 Février 1964)
フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマ réel trauma である。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(ミレール 、J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,- 2/2/2011 )
問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値を持っている。le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme.  (Lacan, S23, 13 Avril 1976)
フロイトのモノChose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)

トラウマ、ゆえに反復強迫する。

現実界は書かれることを止めない(=反復強迫)。le Réel ne cesse pas de s'écrire (ラカン、S 25, 10 Janvier 1978)
享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. …(ラカン、S23, 10 Février 1976)
享楽はまさに固着である。…人は常にその固着に回帰する。La jouissance, c'est vraiment à la fixation […] on y revient toujours. (Miller, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009)
享楽の固着とそのトラウマ的作用fixations de jouissance et cela a des incidences traumatiques. (Entretiens réalisés avec Colette Soler entre le 12 novembre et le 16 décembre 2016)
反復を引き起こす享楽の固着 fixation de jouissance qui cause la répétition、(Ana Viganó, Le continu et le discontinu Tensions et approches d'une clinique multiple, 2018)


……

以上でS(Ⱥ)を軸にした冒頭図の注釈がなされた筈である。ただし超自我の注釈がいくら弱い。

以下、超自我をめぐるが、上とは異なり十全には確信していないのでご注意を。

超自我=神=存在しない女というもの
一般的に神と呼ばれる on appelle généralement Dieu もの……それは超自我と呼ばれるものの作用 fonctionnement qu'on appelle le surmoi である。(ラカン, S17, 18 Février 1970)
問題となっている「女というもの」は、「神の別の名」である。その理由で「女というものは存在しない」のである。La femme dont il s'agit est un autre nom de Dieu, et c'est en quoi elle n'existe pas, (ラカン、S23、18 Novembre 1975)

ーー「存在しない」とは象徴界(言語界)に存在しないという意味であり、現実界における有無はは問うていないことに注意。

S(Ⱥ)=女というもの=神
大他者は存在しない。それを私はS(Ⱥ)と書く l'Autre n'existe pas, ce que j'ai écrit comme ça : S(Ⱥ)(ラカン, S24, 08 Mars 1977)
大他者はない。…この斜線を引かれた大他者のS(Ⱥ)…il n'y a pas d'Autre[…]ce grand S de grand A comme barré [S(Ⱥ)]…
「大他者の大他者はある」という人間にとってのすべての必要性。人はそれを一般的に神と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、神とは単に「女というもの」だということである。La toute nécessité de l'espèce humaine étant qu'il y ait un Autre de l'Autre. C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme ». (ラカン, S23, 16 Mars 1976)


次の「母なる超自我 」とは上に《われわれは S(Ⱥ)に、フロイトの超自我の翻訳を見い出しうる》(MILLER, 1996)とあったように、事実上、超自我自体である。

S(Ⱥ) =母なる超自我=原超自我
我々は母なる超自我 surmoi mère を S(Ⱥ) のなかに位置づけうる。( ジャック=アラン・ミレール1988、THE ARCHAIC MATERNAL SUPEREGO,Leonardo S. Rodriguezより)
母なる超自我 surmoi maternel・太古の超自我 surmoi archaïque、この超自我は、メラニー・クラインが語る「原超自我 surmoi primordial」 の効果に結びついているものである。…

最初の他者 premier autre の水準において、…それが最初の要求 demandesの単純な支えである限りであるが…私は言おう、泣き叫ぶ幼児の最初の欲求 besoin の分節化の水準における殆ど無垢な要求、最初の欲求不満 frustrations…母なる超自我に属する全ては、この母への依存 dépendance の周りに分節化される。(Lacan, S.5, 02 Juillet 1958)
私の観点では、乳房の取り入れは、超自我形成の始まりである。…したがって超自我の核は、母の乳房である。In my view[…]the introjection of the breast is the beginning of superego formation[…]The core of the superego is thus the mother's breast, (Melanie Klein, The Origins of Transference, 1951)


「母なる超自我 」とは、母なる原誘惑者、母なる女という原支配者と等価だとわたくしは考えている。


母なる原誘惑者(原愛の対象)、母なる女という原支配者(原大他者)
子供の最初のエロス対象 erotische Objekt は、この乳幼児を滋養する母の乳房Mutterbrustである。愛は、満足されるべき滋養の必要性への愛着Anlehnungに起源がある。疑いもなく最初は、子供は乳房と自己身体 eigenen Körper とのあいだの区別をしていない。乳房が分離され「外部 aussen」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、幼児は、対象としての乳房を、原ナルシシズム的リビドー備給 ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung の部分と見なす。

最初の対象は、のちに、母という人物 Person der Mutter のなかへ統合される。この母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を彼(女)に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとって「原誘惑者 ersten Verführerin」になる。この二者関係 beiden Relationen には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性の根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象 Liebesobjekt として、のちの全ての愛の関係性の原型Vorbild aller späteren Liebesbeziehungenとしての母であり、男女どちらの性 beiden Geschlechternにとってもである。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』第7章、死後出版1940年)
(原母子関係には)母なる女の支配 dominance de la femme en tant que mère がある。…語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存 dépendance を担う母が。(ラカン、S17、11 Février 1970)
全能 omnipotence の構造は、母のなか、つまり原大他者 l'Autre primitif のなかにある。あの、あらゆる力 tout-puissant をもった大他者…(ラカン、S4、06 Février 1957)


次の「ひとりの女=サントーム」とは、《サントームΣ としてのS(Ⱥ)  grand S de grand A barré comme sigma》(Miller, 2001)とあったように、une femme =S(Ⱥ)でもある。

女たちはいる・ひとりの女はサントーム、母はいる
女というものは存在しない。女たちはいる。だが女というものは、人間にとっての夢である。La femme n'existe pas. Il y des femmes, mais La femme, c'est un rêve de l'homme.(Lacan, Conférence à Genève sur le symptôme, 1975)
ひとりの女はサントームである une femme est un sinthome (ラカン、S23, 17 Février 1976)
ラカンは女というものは存在しないと言ったなら、はっきりしているのは、母は存在することである。母というものははいる。Si Lacan a dit La femme n'existe pas, c'était pour faire entendre que la mère, elle, existe. Il y a la mère. (Jacques-Alain Miller, MÈREFEMME   2015)


つまり女性の享楽(享楽自体)がS(Ⱥ)と記しうる。

サントーム=女性の享楽=享楽自体
サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps (ミレール , L'Être et l'Un、30 mars 2011)
純粋な身体の出来事としての女性の享楽 la jouissance féminine qui est un pur événement de corps …(Miller, L'Être et l'Un、2/3/2011)
最後のラカンの「女性の享楽」は、セミネール18 、19、20とエトゥルディまでの女性の享楽ではない。第2期がある。そこでは女性の享楽は、享楽自体の形態として一般化される la jouissance féminine, il l'a généralisé jusqu'à en faire le régime de la jouissance comme telle。

その時までの精神分析において、享楽形態はつねに男性側から考えられていた。そしてラカンの最後の教えにおいて新たに切り開かれたのは、「享楽自体の形態の原理」として考えられた「女性の享楽」である c'est la jouissance féminine conçue comme principe du régime de la jouissance comme telle。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2/3/2011)


次はアンコールのラカンだが、ミレールが上のように言っているとはいえ、次の発言は生きているとわたくしは考えている。

S(Ⱥ) =女性の享楽
私がS(Ⱥ) にて、「斜線を引かれた女性の享楽 la jouissance de L femme」にほかならないものを示しいるのは、神はまだ退出していない Dieu n'a pas encore fait son exitことを示すためである。(ラカン、S20、13 Mars 1973)
なぜ人は「大他者の顔のひとつ une face de l'Autre」、つまり「神の顔 la face de Dieu」を、「女性の享楽 la jouissance féminine」によって支えられているものとして解釈しないのか?(ラカン、S20, 20 Février 1973)


母の欲望Ⱥ、女性の享楽S(Ⱥ)
享楽自体、穴Ⱥをを為すもの、取り去らねばならない過剰を構成するものである la jouissance même qui fait trou qui comporte une part excessive qui doit être soustraite。
そして、一神教の神としてのフロイトの父は、このエントロピーの包被・覆いに過ぎない le père freudien comme le Dieu du monothéisme n’est que l’habillage, la couverture de cette entropie。

フロイトによる神の系譜は、ラカンによって、父から「女というもの La femme」 に取って変わられた。la généalogie freudienne de Dieu se trouve déplacée du père à La femme.

神の系図を設立したフロイトは、父の名において立ち止まった。ラカンは父の隠喩を掘り進み、「母の欲望 désir de la mère」[Ⱥ]と「補填としての女性の享楽 jouissance supplémentaire de la femme」[S(Ⱥ) ]に至る。

こうして我々は、ラカンによるフランク・ヴェーデキント『春のめざめ』の短い序文のなかに、この概念化を見出すことができる。すなわち、父は、母なる神性・白い神性の諸名の一つに過ぎない noms de la déesse maternelle, la Déesse blanche、父は《母の享楽において大他者のままである l'Autre à jamais dans sa jouissance》と(AE563, 1974)。(Jacques-Alain Miller、Religion, Psychoanalysis、2003)
〈母〉、その基底にあるのは、「原リアルの名」である。それは「母の欲望」であり、「原穴の名 」である。Mère, au fond c’est le nom du premier réel, DM (Désir de la Mère)c’est le nom du premier trou (コレット・ソレールColette Soler « Humanisation ? »2014)



以上の注釈から確からしいと思われる用語のみを抜き出し、冒頭図に付け加える。


S(Ⱥ) 
Überich
超自我
Urverdrängung
原抑圧
Grenzvorstellung
境界表象
Fixierung der Libido 
リビドーの固着
Fixation de jouissance
享楽の固着
Sinthome Σ
サントーム
Fixierung an die Mutter 
母への固着
Fixierung an das Trauma
トラウマへの固着
Wiederholungszwang
反復強迫
Thanatos
タナトス
surmoi maternel
母なる超自我
une femme
ひとりの女
jouissance féminine 
女性の享楽
jouissance comme telle
享楽自体




なお、ここでの原抑圧は一般に流通している「言語による象徴的去勢としての原抑圧」とは異なる。この象徴的去勢としての原抑圧とは、現在ラカン派では「S2の排除」と呼ばれ二次的なものである。

実際のフロイトラカンの思考においては原抑圧は最低限、三種類ある(参照:原抑圧は享楽の名である)。





この記事で示したのは、上の図で仮に名付けた「一次原抑圧」である。


さらに言えば、ここで記したことは次の図を基盤としている。




バーハウ簡潔版

この図で、境界表象S1とされているものは、S2なきS1=サントームΣであり、S(Ⱥと等価である。



ラカンマテームの読み方



以上、この蚊居肢ブログでフロイトラカン理論に触れるのは当面打ち止めにする。上に十全には確信していないと記した超自我以下の記述が100%になったときのみ、ふたたび記述するかも知れないが、今のところこれ以上、追求するつもりはもはやあまりない。