アクティングアウト(行動化)とパッセージアクト(行為への遂行)
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アクティングアウトはイマジネールな領野にある。[acting out, c'est-à-dire sur le plan imaginaire]…パッセージアクトははその彼岸にある。[passage à l'acte […] cet au-delà,](ラカン, S4, 19 Décembre 1956)
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リアルへの移行が、パッセージアクトにはある。[à passer dans ce réel, dans un passage à l'acte](ラカン, S10, 16 janvier 1963)
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フロイトからniederkommenの語彙を借りよう。…
パッセージアクトは「(現実界に)落ちるにまかせる」passage à l'acte […] le « laisser-tomber », le niederkommen lassen.
acting-outは「(象徴界から)落ちるままにならないよう、自分をしっかり掴んでいるse tenir par la main pour ne pas laisser tomber」(Lacan, S10, 23 Janvier 1963)
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アクティングは本質的にデモンストレーションである。[L'acting-out essentiellement, c'est la monstration]…アクティングアウトは大他者に宛てられる。[c'est un acting-out, donc ça s'adresse à l'Autre.](ラカン, S10, 23 Janvier 1963)
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パッセージアクトにおいて、大他者への呼びかけの拒絶がある。il y a rejet […] de tout appel à l'Autre 。他方、アクティングアウトは大他者への呼びかけである。l'acting-out qui […] est un appel à l'Autre (J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 16/06/2004)
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死はまさに欲動の地平である[La mort est bien l'horizon même de la pulsion]。死が欲動の地平であるのは、シンプルに、欲動において主体は自らの欠如をターゲットにする[ le sujet vise son propre manque]からである。自身の欠如の目標において、主体はその有機体の何ものかを動員して、対象aの論理的一貫性[ la consistance logique de l'objet a.]を支えるために自らを捧げる。
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ここにパッセージアクト(行為への遂行)とアクティングアウト(行動化)とのあいだの相違 différence du passage à l'acte et de l'acting-out. を為すものがある。
パッセージアクトにおいて、主体は自らの喪失を以て作動する。存在の打開策である。行為への遂行は、穴Ⱥに関わって為される。それは大他者からの全き分離に関わる。Le passage à l'acte est une manœuvre d'être qui se fait au regard de Ⱥ, au re-gard de la séparation complète d'avec l'Autre.
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反対に、アクティングアウトは、意味の打開策である。アクティングアウトは大他者をその場に維持することを想定している。それは主人のシニフィアンS1に関わって為される。L'acting-out, c'est une manœu-vre de sens. L'acting-out suppose au contraire le maintien de l'Autre à sa place. Il s'accomplit au regard de S1.
アクティングアウトも享楽を以て、存在を以て為されるには相違ない。だが常に意味に関わる。Il joue sans doute avec la jouissance, avec l'être, mais toujours au regard du sens. (J.-A. Miller, Ce-qui-fait-insigne, 4 FEVRIER 1987)
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ーー《(真の)対象aは穴である。l'objet(a), c'est le trou》 (ラカン、S16, 27 Novembre 1968)
行為への遂行の極みは、自殺である。[Le comble du passage à l'acte, c'est le suicide ](J.-A. Miller, 1, 2, 3, 4 -COURS DU 15 MAI 1985)
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少女の母は妊娠して子供を生んだ。夫、つまり少女の父が彼女に与えた少年である。すると少女は父に失望し、自殺行動、つまりアクティングアウトの自殺[l'endroit du père […] l'acte suicide, ou l'acting-out suicide]へ向かった。これはある種の象徴的分娩[accouchement symbolique]の場を見出だす行動である。, (J.-A. Miller, DE LA NATURE DES SEMBLANTS, 27 MAI 1992)
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ーー象徴的分娩とあるのは、《高所から身を投げる=子供を分娩するvon einer Höhe herabstürzen = niederkommen》にかかわる。
性的願望達成による自殺方法の解釈は、かねてからすべての分析家に知られてきた(毒を飲む=妊娠する、溺れる=子供を産む、高所から身を投げる=子供を分娩する)。[Diese Deutungen der Wege des Selbstmordes durch sexuelle Wunscherfüllungen sind längst allen Analytikern vertraut. (Vergiften = schwanger werden, ertränken = gebären, von einer Höhe herabstürzen = niederkommen.). ](フロイト『女性同性愛の一事例の心的成因について』1920年)
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フロイトは『症例ドラ』(1905)にて《Gunst des Papas パパの落ち度》、『女性同性愛』(1920)でも《父の落ち度 Schuld des Vaters》として、その父によって女性による突発的行動を解釈しているが、これはファイル秩序に囚われた旧套の解釈、ヴィクトリア朝時代のモラル、象徴的父の名に囚われたフロイトの時代の解釈であり、上にも引用したが、ラカンが次のように言っているのはフロイト批判の文脈のなかにある。
もちろん《落ちるままにならないよう、自分をしっかり掴んでいる》自殺的行動もある。たとえば他者への暗号化されたメッセージとしての自殺である。「あなたのせいで・・・」という含意をもつ遺書は当てつけとしてのメッセージのひとつでありうる。だが真の自殺的行為は《落ちるにまかせる》である。
もっともフロイトは既に症例ドラ(1905)の段階で、ヒトの症状の二重構造を指摘しており、ラカンのように図式化して言えば、上のような二分類ができるということであり、実際は、上階の症状と地階の症状が混淆しているというのがほとんどの人間の行為(行動)の実体だろう。
ーーラカンが地階を強調しているのは、旧套のフロイト派があまりにも上階の分析行為に焦点を絞ってしまい、長いあいだ地階が蔑ろにされてきたからである。そもそも「自由連想」臨床自体、上階しか機能しない。フロイトの古典的臨床「徹底操作」とは本来的に神経症者向けの臨床に過ぎない。中期ラカンの「幻想の横断」の臨床も基本的には同様であり、「父なき時代」の現在、ラカン派ではフロイト大義派(ミレール 派)を中心に幻想の横断の臨床は否定されつつある(参照)。
わたくしが依拠することの多いベルギーの臨床家ポール・バーハウ は、現代の患者の多くは、《寝椅子に横たえさせると、逆の治療効果、逆の分析効果をもっている putting them on the couch would have had a contra-therapeutic or contra-analytic effect》とさえ言っている(An Interview With Paul Verhaeghe (Paul Verhaeghe and Dominiek Hoens, 2011, pdf)
そして上階の「真理 vrai 」とは嘘のことである。
『喪と悲哀』から二つの核心的と思われる文を抜き出しておこう。
真の問いは、メランコリー自体というよりも、愛の対象と愛の原因である、あるいは欲望の対象と欲望の原因(参照)。メランコリー者は《愛の対象の喪失Liebesobjekt verlorengegangen》に直面して、神経症的に喪にうちひしがれる者よりも「原因」に接近している。
そもそも《喪の作業 Trauerarbeit》自体、時間をかけてでも、《愛の対象への強い固着starke Fixierung an das Liebesobjekt》から自らを解き放ち、愛の対象は実は愛の原因だったことを知るように努める相があるはずである。
ーーだがこの話題はいまはこれ以上、深入りしない。わたくし自身、いまだ曖昧なままのところがある。
さてミレール はアクティングアウトとパッセージアクトの相違を語るなかで、次のように言っている。
ここでの「イマジネールな身体」は象徴界によって構造化された想像界的身体であり、「リビドーの身体」とはもちろん享楽の身体、リアルな身体である(参照)。
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「落ちるにまかせる」リアルな身体とは、享楽の穴に吸い込まれる誘惑に身を委ねがちな原マゾヒズム的主体である。
享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. …マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel。すぐさまというわけにはいかなかったが、(晩年の)フロイトはこれを発見したのである。(ラカン、S23, 10 Février 1976)
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死への道 Le chemin vers la mort…それはマゾヒズムについての言説であるdiscours sur le masochisme 。死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)
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外部(現実)の危険[äußere (Real-) Gefahr] は、それが自我にとって意味をもつ場合は、内部化Verinnerlichungされざるをえないのであって、この外部の危険は寄る辺なさ(無力さHilflosigkeit)経験した状況と関連して感知されるに違いないのである。
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注)自我がひるむような満足を欲する欲動要求 Triebanspruch は、自分自身にむけられた破壊欲動 Destruktionstriebとしてマゾヒスム的でありうる。おそらくこの付加物によって、不安反応 Angstreaktion が度をすぎ、目的にそわなくなり、麻痺する場合が説明される。高所恐怖症 Höhenphobien(窓、塔、断崖)はこういう由来をもつだろう。そのかくれた女性的な意味は、マゾヒスムに近似している ihre geheime feminine Bedeutung steht dem Masochismus nahe。(フロイト『制止、症状、不安』最終章、1926年)
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欲動要求はリアルな何ものかである [Triebanspruch etwas Reales ist(exigence pulsionnelle est quelque chose de réel](フロイト『制止、症状、不安』最終章、1926年)
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欲動のリアルle réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。(ラカン、Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)
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