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2020年6月14日日曜日

究極の愛に生きた乙女

いやあ、すごいな。

私は就職してから年に多分365冊を超すぐらいの本を読んでいる。学生の時はその倍、小学生の時はその三倍は読んだ。(二階堂奥歯「八本脚の蝶」2002年12月23日)
ヴィヴィアンのセールの開場を待つ間、十年ちょいぶりにマルキ・ド・サド『ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え』を読む。
冒頭ではジュリエットは13歳、私がはじめてこの本を読んだ時はジュリエットより年下だった。
それを考えるとよくもこんなに健全に育ったものだ。
それとも、二度と帰らぬ少女時代を無駄に過ごしてしまったのだろうか。(二階堂奥歯「八本脚の蝶」2001年11月3日)

25歳で飛び降り自死した彼女は、還暦すぎの読書奥手かつ遅読家であるボクの100倍、とまでいかずにも50倍は読んでいただろうな。

それぞれ病気と手術で入院していた父と祖父が相次いで退院。
退院に伴うもろもろの手続きはかなり時間がかかった。そうだろうと見越して本を4冊持っていった。それでも4冊はいらないだろうと思っていたのに、読み終わってしまった。(2002年7月9日)


日記読んでたら彼女に転移しちゃったよ。

しかも後輩みたいだな。

早稲田大学会曾津与一記念博物館に行って「中原淳一と『少女の友』の画家たち2」展を見る。
睫の上に二重のラインが来ている少女を見て、目をつぶった時はどうなるのか心配しつつ、私もマスカラ使いに関していっそう研鑚を深めようと決意する。

四年間通っていたというのに、記念博物館に行くのは初めてなのだった。
夏のさなかでも外に関わりなくひんやりとしているような素敵な建物だった。でも唐突に建物の中にギリシャ風の柱頭があるのってなんなんでしょう。(二階堂奥歯「八本脚の蝶」2001年6月30日)


無断転載したらダメらしいけど、少しだけ許してもらおう。そうせずにはいられない。


こんなの泣けるよ。


私は愛しています。私は愛しています。あなたを、あなただけをひたすらに想わずにはいられません。私のすべての存在を、あなたに捧げます。私の日々に、私の思いに、私の行いに意義があるのなら、それはすべてあなたがいるからです。
でも、あなたが誰なのか、私にはわからないのです。あなたは人ではないかもしれません。書物かも、秘密かも、言葉かも、記憶かも、景色かもしれません。
私はあなたを探すことを何度もあきらめようとしたけれど、その度にあきらめ切れずまた目を覚まします。私が、あなたを求めつづけることを、断念せずにいられますように。(2002年12月17日その1)
うとうとと夢見たこと。

ああ、あなた。どうか私の内蔵を触り引き裂いて下さい。あなたの指が私の体腔を探り押し広げる痛みこそが恩寵です。思うさま私を壊してください。内臓と同じように私の脳髄を抉りなで回すあなたの指。私の身体中に刃物を突き立ててどくどくと体液が溢れるその穴に拳をねじ入れて私の中を掻き回してください。そうしたら、私は身体の中でも外でも頭の中でも外でもあなただけを感じることができるでしょう。そして私はしゃくり上げながら血の泡を吹き、よろこびに打ち震えながら死ぬのです。(2003年1月11日その2)



日記の通奏低音になっているのは女性的マゾヒズム、あるいは苦痛のなかの快だ。


妹と子供の頃に読んだ本について喋っていたら、どきどきした話の話題になった。

奥歯「私はなんといっても、『ファーブル昆虫記』のね……」
妹「昆虫!?」
奥歯「うん。ジガバチの話だね。ジガバチが芋虫を痺れされて卵を産み付けるじゃない。それで卵からかえったジガバチの子供たちに食べられちゃうんだよね。ああ! 興奮する!」
妹「……私はハチに感情移入できないな。」
奥歯「違うよ、ヨトウムシ(芋虫)に感情移入するんだよ。想像してみなよ、毒針で痺れて動けない身体に卵を産みつけられて、やがて自分の体内で孵った幼生に生きながら貪り食われるんだよ。その間動けないけどずっと生きてるの。」
妹「……ごめん、それ、わかんない。」

ちなみに妹は『西遊記』で三蔵法師がさらわれるところで胸高鳴らせていたそうです。( 2002年8月25日)

………………

究極の愛に生きた乙女よ、ご冥福を!


女性的マゾヒズム Feminine masochismの根には、性愛的マゾヒズム erogenen masochism、つまり苦痛のなかの快 Schmerzlust がある。(フロイト 『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)
快原理の彼岸 Au-delà du principe du plaisirにある享楽…フロイトは書いている、「享楽はその根にマゾヒズムがある」と。FREUD écrit : « La jouissance est masochiste dans son fond »(ラカン, S16, 15 Janvier 1969)
不快は享楽以外の何ものでもない déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance. (Lacan, S17, 11 Février 1970)

われわれにとって唯一の問い、それはフロイトによって名付けられた死の本能 instinct de mort 、享楽という原マゾヒズム masochisme primordial de la jouissance である。(ラカン、S13、June 8, 1966)
享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. …マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel。フロイトはこれを発見したのである。(ラカン、S23, 10 Février 1976)
死への道 Le chemin vers la mort…それはマゾヒズムについての言説であるdiscours sur le masochisme 。死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)
マゾヒズムはその目標 Ziel として自己破壊 Selbstzerstörung をもっている。…そしてマゾヒズムはサディズムより古い der Masochismus älter ist als der Sadismus。…我々が、欲動において自己破壊 Selbstdestruktion を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動 Todestriebes の顕れと見なしうる。(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)


ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものかを把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽である。Lacan a utilisé les ressources de la langue française pour attraper quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido, à savoir la jouissance. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)
リビドーは情動理論 Affektivitätslehre から得た言葉である。われわれは量的な大きさと見なされたーー今日なお測りがたいものであるがーーそのような欲動エネルギー Energie solcher Triebe をリビドーLibido と呼んでいるが、それは愛Liebeと総称されるすべてのものを含んでいる。…哲学者プラトンのエロスErosは、その由来 Herkunft や作用 Leistung や性愛 Geschlechtsliebe との関係の点で精神分析でいう愛の力 Liebeskraft、すなわちリビドーLibido と完全に一致している。…この愛の欲動 Liebestriebe を、精神分析ではその主要特徴と起源からみて、性欲動 Sexualtriebe と名づける。(フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)