2020年7月28日火曜日

遺書をしたゝむ


長年使い馴れた老婢がその頃西班牙風邪とやら称えた感冒に罹って死んだ。それ以来これに代わるべき実直な奉公人が見付からぬ処からわたしは折々手ずからパンを切り珈琲を沸わかしまた葡萄酒の栓をも抜くようになった。自炊に似た不便な生活も胸に詩興の湧く時はさして辛くはなかった。(永井荷風『雨瀟瀟』1921(大正10)年3月)





大正八年(1919年)

五月三十日。昨朝八時多年召使ひたる老婆しん病死せし旨その家より知らせあり。この老婆武州柴又辺の農家に生れたる由。余が家小石川に在りし頃出入の按摩久斎といふものゝ妻なりしが、幾ばくもなく夫に死別れ、諸処へ奉公に出で、僅なる給金にて姑と子供一人とを養ひゐたる心掛け大に感ずべきものなり。明治二十八九年頃余が家一番町に移りし時より来りてはたらきぬ。爾来二十余年の星霜を経たり。去年の冬大久保の家を売払ひし折、余は其の請ふがまゝに暇をつかはすつもりの処、代るものなかりし為築地路地裏の家まで召連れ来りしが、去月の半頃眼を病みたれば一時暇をやりて養生させたり。其後今日まで一度びも消息なき故不思議の事と思ひゐたりしに、突然悲報に接したり。年は六十を越えたれど平生丈夫なれば余が最期を見届け逆縁ながら一片の回向をなし呉るゝものは此の老婆ならむかなど、日頃窃に思ひゐたりしに人の寿命ほど測りがたきはなし。(永井荷風『断腸亭日乗』)



大正七年(1918年)

十一月十一日。昨夜日本橋倶楽部、会塲吹はらしにて、暖炉の設備なく寒かりし為、忽風邪ひきしにや、筋骨軽痛を覚ゆ。体温は平熱なれど目下流行感冒猖獗の折から、用心にしくはなしと夜具敷延べて臥す。夕刻建物会社〻員永井喜平来り断膓亭宅地買手つきたる由を告ぐ。(永井荷風『断腸亭日乗』)





大正九年(1920年)荷風年四十有二

正月十二日。曇天。午後野圃子来訪。夕餉の後忽然悪寒を覚え寝につく。目下流行の感冒に染みしなるべし
正月十三日。体温四十度に昇る。
正月十四日。お房の姉おさくといへるもの、元櫓下の妓にて、今は四谷警察署長何某の世話になり、四谷にて妓家を営める由。泊りがけにて来り余の病を看護す。
正月十五日。大石君診察に来ること朝夕二回に及ぶ。
正月十六日。熱去らず。昏々として眠を貪る。
正月十七日。大石君来診。
正月十八日。渇を覚ること甚し。頻に黄橙を食ふ。
正月十九日。病床万一の事を慮りて遺書をしたゝむ。
正月二十日。病况依然たり。
正月廿一日。大石君又来診。最早気遣ふに及ばずといふ。
正月廿二日。悪熱次第に去る。目下流行の風邪に罹るもの多く死する由。余は不思議にもありてかひなき命を取り留めたり。
正月廿五日。母上余の病軽からざるを知り見舞に来らる。

正月卅一日。病後衰弱甚しく未起つ能はず。卻て書巻に親しむ。

二月廿二日。早朝中洲病院に電話をかけ病状を報ず。感冒後の衰弱によるものなれば憂るに及はずとの事なり。安堵して再び机に凭る。(永井荷風『断腸亭日乗』)






人口動態統計からみた日本における肺炎による死亡について(2018)PDF 
1899年における肺炎による死亡は,男子23,379人,女子19,934人の合計43,313人で,総死亡者数932,087人の4.6%を占めていた(図1).

年次推移をみると1899年から男女とも増加を続け1917年には男子52,727人,女子46,509人となっている.1918年には,いわゆるスペインかぜ)の流行に呼応して急激に死亡者数が増加し,男子105,507人,女子100,026人の合計205,533人とピークを示し,総死亡者数1,493,162人の13.8%を占めた.さらに,1920年には第2波のスペインかぜの影響を受け.男子88,551人,女子87,123人となっている.それ以降1943年まで,男子では56,000~76,000人,女子では48,000~63,000人程度で推移する.1945年以降は,死亡者数は大幅に減少し,1964年には男子12,186人,女子10,468人と最低を記録する.しかし,その後上昇に転じ,2016年には男子65,636人,女子53,664人になっている.


スペイン風邪なしの肺炎死亡者は、《1943年まで,男子では56,000~76,000人,女子では48,000~63,000人程度で推移する》とあるように、男女合わせて、12万人ほど死んでいたようだ。現在の人口換算で言えば、倍増とまでいかなくても、20万人ほどは毎年死んでいたことになる。




ちなみに現在の肺炎関連死者数(参照)。





死は現在、われわれのモラルにより目立たなくされているので、死を想像したり理解するのはとても困難です。死をなじみ深く、身近で、和やかで、大して重要でないもの[la mort est à la fois proche, familière et diminuée, insensibilisée]とする昔の態度は、死がひどく恐ろしいもので、その名をあえて口にすることもさしひかえるようになっているわれわれの態度とは、あまりにも反対です。それゆえに、私はここで、このなじみ深い死 mort familière を飼いならされた死 mort apprivoiséeと呼ぶことにしたいのです。死がそれ以前に野生のものであった、そしてそうでなくなった、というようなことをいいたいのではありません。逆に、死は今日野生のものとなってしまっている devenue sauvage 、といいたいのです。最古代の死は飼い馴らされていました La mort la plus ancienne était apprivoisée。(フィリップ・アリエス『死と歴史』1977年)