2020年7月30日木曜日

唯一の祈りの対象



ーーとってもいいスチール画像だな。映画の一場面なんだろうか、ちょっとわからない。



フロイトにとって、信じることのの最も大きな問題は、結局、父を信じること[la croyance au père]だ。(…)

ラカン は考えた、父を信じることを超えるのは完全に可能だと。では問いが生じる。男にとってどうやって可能となるのだろう。男はまったく簡単に女というものを信じる[la croyance à La femme]ようになるが、それをなしで済ますには。そして女にとってどうやって可能になるのだろう。彼女について語るパートナーを被愛妄想的に信じること[la  croyance érotomaniaque en un partenaire qui parlerait d'elle]から自由になるには。(エリック・ロラン Éric Laurent 、Conversation des AE du 21 mars 2012 à Paris, « Savoir y faire avec son symptôme »)


エリック・ロランは、フロイト大義派(ミレール 派)のナンバーツーだが、女というものを信じちゃダメなのかな、ボクは完全に信仰してるけど。


問題となっている「女というもの」は、「神の別の名」である。La femme dont il s'agit est un autre nom de Dieu(ラカン、S23、18 Novembre 1975)

ムリなこと言われてもな、女なる神への信仰はやむことはないよ

女というものは存在しない。女たちはいる。だが女というものは、人間にとっての夢である。[La femme n'existe pas. Il y des femmes, mais La femme, c'est un rêve de l'homme](Lacan, Conférence à Genève sur le symptôme, 1975)
女というものは存在しない。しかし存在しないからこそ、人は女というものを夢見るのです。女というものは表象の水準では見いだせないからこそ、我々は女について幻想をし、女の絵を画き、賛美し、写真を撮って複製し、その本質を探ろうとすることをやめないのです。[La femme n'existe pas, mais c'est de ça qu'on rêve. C'est précisément parce qu'elle est introuvable au niveau du signifiant qu'on ne cesse pas d'en fomenter le fantasme, de la peindre, d'en faire l'éloge, de la multiplier par la photographie, qu'on ne cesse pas d'appréhender l'essence d'un être dont,](J-A. MILLER, エル・ピロポ El Piropo , 1979年)

問題は女性のほうの信仰だよ、《彼女について語るパートナーを被愛妄想的に信じること[la  croyance érotomaniaque en un partenaire qui parlerait d'elle]》なんてのからは、絶対逃れなくちゃな。男と同様、女なる神のみを信仰しといたらいいのさ。

ラカン だってこう言っている。

定義上、異性愛とは、おのれの性が何であろうと、女たちを愛することである。それは最も明瞭なことである。Disons hétérosexuel par définition, ce qui aime les femmes, quel que soit son sexe propre. Ce sera plus clair. (ラカン、L'étourdit, AE.467, le 14 juillet 72)

もっとも「女というもの La femme」じゃなくて「女たち les femmes」になっているから、《女というものは存在しない。だが女たちはいる》ーーの女たちだ。

ひとりの女が複数いる、ようはひとりの女の複数をみんな愛すべきだね、男も女も。異性愛とは異者愛さ。これは誰もそう言っているのに出会ったことはないけど、論理的必然だよ。

ひとりの女は異者である。 une femme […] c'est une bizarrerie, c'est une étrangeté.  (Lacan, S25, 11  Avril  1978)
異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである。…étrange au sens proprement freudien : unheimlich (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)

不気味なものが「真に存在する」神でないわけないさ

女性器 weibliche Genitale という不気味なもの Unheimliche は、誰しもが一度は、そして最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷 Heimat への入口である。冗談にも「愛とは郷愁だ Liebe ist Heimweh」という。もし夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女性器 Genitale、あるいは母胎 Leib der Mutter であるとみなしてよい。したがって不気味なもの Unheimliche とはこの場合においてもまた、かつて親しかったもの Heimische、昔なじみのものなの Altvertraute である。しかしこの言葉(unhemlich)の前綴 un は抑圧の徴 Marke der Verdrängung である。(フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年)

これは別名「穴」と呼ばれる。女の穴。ーー《女は何も欠けていない La femme ne manque de rien》(ラカン, S10, 13 Mars 1963)。

不気味なもの Unheimlich とは、…私が(-φ)を置いた場に現れる。(-φ)とは、想像的去勢castration imaginaire を思い起こさせるが、それは欠如のイマージュ image du manqueではない。…私は(-φ)を、欠如が欠如している manque vient à manquerと表現しうる。(ラカン、S10「不安」、28 Novembre 1962)
欠如の欠如が現実界を為す Le manque du manque fait le réel(AE573、1976)
現実界は…穴=トラウマを為す。le Réel […] ça fait « troumatisme ».(ラカン、S21、19 Février 1974)

ラカンは別に「享楽の穴」とも呼んだが、フロイトの「愛の引力」のことだ。アソコは、人の子の故郷なんだから、ブラックホールの力があるに決まっている。

あの穴にどうして祈りを捧げずにいられるわけがあろう?

ラカンの現実界は、フロイトがトラウマと呼んだものである。ラカンの現実界は常にトラウマ的である。それは言説のなかの穴である。ce réel de Lacan […], c'est ce que Freud a appelé le trauma. Le réel de Lacan est toujours traumatique. C'est un trou dans le discours.  (J.-A. Miller, La psychanalyse, sa place parmi les sciences, mars 2011)
人はみなトラウマ化されている。…この意味は、すべての人にとって穴があるということである[tout le monde est traumatisé …ce qu'il y a pour tous ceux-là, c'est un trou.  ](J.-A. Miller, Vie de Lacan, 17/03/2010 )


ボクはフォーレの遺作op.121のアンダンテの次の箇所を聴くと、必ず女の穴への祈りの体制に入るんだが、きっとフォーレ自身も死をひかえて祈りつつ作曲したんじゃないかな、穴に吸い込まれていく感じがするよ。今のところ葬儀用音楽にきめてんだけど。