ラカンの発言がときに矛盾しているように見えるのは、同じ語でも想像界、象徴界、現実界の各レヴェルで語っているせいのことが多いだけだよ。
たとえば愛。ラカンが愛について語るときは主にイマジネールな水準。でも次の言明は明らかにリアルな愛について言っている。
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死は愛である [la mort, c'est l'amour.] (Lacan, L'Étourdit E475, 1970)
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究極の現実界はもちろん死(あるいは死の欲動)にかかわる。 |
死は現実界の基礎である。la mort, dont c'est le fondement de Réel (Lacan, S23, 16 Mars 1976)
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したがってリアルな愛は本来の享楽のこと(享楽にも象徴的ファルス享楽=欲望、想像的自我の享楽=ナルシシズムがあるが[参照])。
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享楽は現実界にある [la jouissance c'est du Réel]。(ラカン、S23, 10 Février 1976)
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死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)
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現実界が死であるのは究極的にはそうであるということで、標準的にはまずジジェクのとてもわかりやすい記述でよいだろう。
ラカンによれば、人間存在の現実は、象徴界・想像界・現実界という、たがいに絡み合った三つの次元から構成されている。この三幅対はチェスに例えると理解しやすい。チェスをやる際に従わなければならない規則、それがチェスの象徴的次元である。純粋に形式的・象徴的な視点からみれば、「騎士(ナイト)」は、どういう動きができるかによってのみ定義される。この次元は明らかに想像的次元とは異なる。想像的次元では、チェスの駒はどれもその名前(王、女王、騎士)の形をしており、それにふさわしい性格付けがなされている。…最後に、現実界とは、ゲームの進行を左右する一連の偶然的で複雑な状況の全体、すなわちプレイヤーの知力や、一方のプレイヤーの心を乱し、時にはゲームを中断してしまうような、予想外の妨害などである。(ジジェク『ラカンはこう読め』2006年)
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チェスの比喩を使っての象徴界と想像界の区分けは実に見事。愛だけじゃなく、たとえば女の三界や男の三界は何だろうと考える導きの糸となる。象徴的男や女は、世話をしてくれる人やら性交する相手等ということになるだろうし(上下左右しか動けないルークと左右斜めしか動けないビショップの動きが男と女の典型かも)、想像的男や女はイメージとしての騎士や女王や歩兵やらということになるだろう。
ではリアルな女やリアルな男はなんだろう? リアルな女は、ラカン的には男を貪り喰うメドゥーサ、フロイト的には母なる大地もしくは沈黙の死の女神だ(参照)。ではリアルな男は? フロイトの原父、すべての女を独り占めにする(したい)男としておこう、たぶんほとんどすべての男の底にはこれがあるよ。
ジジェク文に戻れば、現実界は、《ゲームの進行を左右する一連の偶然的で複雑な状況の全体、すなわちプレイヤーの知力や、一方のプレイヤーの心を乱し、時にはゲームを中断してしまうような、予想外の妨害などである》とあるけれど、これは「異者」や「不気味なもの」にほぼ相当するとさしあたりしておこう。あくまで「ほぼ」であり、現実界については、上のジジェクの記述ではいくらかユルスギルところがないではない(そもそもジジェクはラカンの現実界の或る相しか把握しておらず臨床ラカン派観点からは大いに問題がある[参照])。
この不気味なものとは無意識のエスの反復強迫を指し、何よりもまずこれが後期ラカン(1973年5月以降)の真のリアルである。
ではリアルな女やリアルな男はなんだろう? リアルな女は、ラカン的には男を貪り喰うメドゥーサ、フロイト的には母なる大地もしくは沈黙の死の女神だ(参照)。ではリアルな男は? フロイトの原父、すべての女を独り占めにする(したい)男としておこう、たぶんほとんどすべての男の底にはこれがあるよ。
ジジェク文に戻れば、現実界は、《ゲームの進行を左右する一連の偶然的で複雑な状況の全体、すなわちプレイヤーの知力や、一方のプレイヤーの心を乱し、時にはゲームを中断してしまうような、予想外の妨害などである》とあるけれど、これは「異者」や「不気味なもの」にほぼ相当するとさしあたりしておこう。あくまで「ほぼ」であり、現実界については、上のジジェクの記述ではいくらかユルスギルところがないではない(そもそもジジェクはラカンの現実界の或る相しか把握しておらず臨床ラカン派観点からは大いに問題がある[参照])。
フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ。La Chose freudienne […] ce que j'appelle le Réel (ラカン, S23, 13 Avril 1976)
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(心的装置に)同化不能の部分(モノ)einen unassimilierbaren Teil (das Ding)(フロイト『心理学草案 Entwurf einer Psychologie』1895)
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モノを 、フロイトは異者とも呼んだ。das Ding[…] ce que Freud appelle Fremde – étranger. (J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 26/04/2006)
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暗闇に蔓延る異者 wuchert dann sozusagen im Dunkeln[…]fremd (フロイト『抑圧』1915年)
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異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである。…étrange au sens proprement freudien : unheimlich (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)
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この不気味なものとは無意識のエスの反復強迫を指し、何よりもまずこれが後期ラカン(1973年5月以降)の真のリアルである。
心的無意識のうちには、欲動蠢動 Triebregungen から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。この内的反復強迫 inneren Wiederholungszwang を想起させるあらゆるものこそ、不気味なもの unheimlich として感知される。(フロイト『不気味なもの』1919年)
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自我にとって、エスの欲動蠢動 Triebregung des Esは、いわば治外法権 Exterritorialität にある。…われわれはこのエスの欲動蠢動を、異物ーーたえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen ーーと呼んでいる。(フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年)
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◼️付記
現実界についての相反する二種類の定義
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書かれぬことを止めない
ne cesse pas de ne pas s'écrire
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書かれることを止めない
ne cesse pas de s'écrire
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私の定式: 不可能性は現実界である ma formule : l'impossible, c'est le réel. (Lacan, RADIOPHONIE、AE431、1970)
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症状は現実界について書かれることを止めない。le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel (ラカン, La Troisième, 1974)
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不可能性:書かれぬことを止めないもの Impossible: ce qui ne cesse pas de ne pas s'écrire (Lacan, S20, 13 Février 1973)
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現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire (S 25, 10 Janvier 1978)
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現実界は形式化の行き詰まりに刻印される以外の何ものでもない le réel ne saurait s'inscrire que d'une impasse de la formalisation(LACAN, S20、20 Mars 1973)
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現実界、それは話す身体の神秘、無意識の神秘である Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient(ラカン、S20、15 mai 1973)
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現実界は、見せかけ(象徴秩序)のなかに穴を為す。ce qui est réel c'est ce qui fait trou dans ce semblant.(ラカン、S18, 20 Janvier 1971)
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欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する。欲動は身体の空洞に繋がっている。il y a un réel pulsionnel […] je réduis à la fonction du trou. C'est-à-dire ce qui fait que la pulsion est liée aux orifices corporels.(Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter, Strasbourg le 26 janvier 1975)
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現実界との出会いとしてのテュケーは、出会い損なうかもしれない出会いのことである。la τύχη [ tuché ]… du réel comme rencontre, de la rencontre en tant qu'elle peut être manquée, (ラカン, S11, 12 Février 1964)
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書かれることを止めないもの un ne cesse pas de s'écrire。これが現実界の定義 la définition du réel である。…
書かれぬことを止めないもの un ne cesse pas de ne pas s'écrire。すなわち書くことが不可能なもの impossible à écrire。この不可能としての現実界は、象徴秩序(言語秩序)の観点から見られた現実界である。le réel comme impossible, c'est le réel vu du point de vue de l'ordre symbolique (Jacques-Alain Miller, Choses de finesse en psychanalyse IX Cours du 11 février 2009)
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