それをもっているために女であり、そのために男を誘惑し、それが原因でおとしめられ、女の中核でありながら、女自身から最も女が遠ざけられているもの (上野千鶴子『女遊び』1988年)
前回、「わたしのアソコに呼び名がない」で引用した「架橋するフェミニズム : 歴史・性・暴力」(2018年、PDF)からの元橋利恵さんの論文には、この上野千鶴子さんの言葉が引用されている。名著『スカートの下の劇場』の前年に上梓された『女遊び』である。わたくしは『スカ下』しか読んでおらず、どんなことが書かれていたのだろう、とネット上でいくらか探ったら行き当たった。別に次の文も拾った。
おまんこ、と叫んでも誰も何の反応も示さなくなるまで、わたしはおまんこと言いつづけるだろうし、女のワキ毛に衝撃力がなくなるまで、黒木香さんは腕をたかだかとあげつづけるだろう。それまでわたしたちは、たくさんのおまんこを見つめ、描き、語りつづけなければならない.そしてたくさんのおまんこをとおして“女性自身(わたしじしん)”が見えてくることだろう。(上野千鶴子『女遊び』1988年)
上野千鶴子は最近一部で評判が悪い。たしかにそう判断されても致し方ない男性へのセクハラまがいの発言をときにしている。だが初期にはとても核心をつくことを言っていた相が間違いなくある。おそらく彼女は、ファルス秩序(言語秩序)の世界における「おまんこ」への愛憎コンプレクスを強烈に抱き、闘い続けたのだろう。そのいくさの戦略が、社会運動家としては仮にいくらか問題があったとしても、認識論レベルではとてもすぐれた洞察を、あるいは誰もが実は内心そうだと感じているが言い出せないことを、若いころ獲得した俳句的素養を通した鋭利な寸言を以て、実に効果的な形で流通させてきたという点を見過ごすわけにはいかない。
・・・という話はここではこれだけにして、『女遊び』に《女のワキ毛に衝撃力がなくなるまで、黒木香さんは腕をたかだかとあげつづけるだろう》と懐かしい名に行き当たったので、その方向の記述に移行する。
ひとりの女は異者である。 une femme […] c'est une bizarrerie, c'est une étrangeté. (Lacan, S25, 11 Avril 1978)
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異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである。…étrange au sens proprement freudien : unheimlich (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)
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不気味なものは秘密の慣れ親しんだものであり、一度抑圧をへてそこから回帰したものである。そしてすべての不気味なものがこの条件を満たしているのはおそらく確からしい。Es mag zutreffen, daß das Unheimliche das Heimliche-Heimische ist, das eine Verdrängung erfahren hat und aus ihr wiedergekehrt ist, und daß alles Unheimliche diese Bedingung erfüllt.(フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年ーー「異者文献」)
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以下、村瀬ひろみさんの黒木香論から引用する。1996年のものであり、いくらか古くなっているところがないではない。とくに「所有」という語を毛嫌いする人は今ではそれなりにいるだろう。だが、わたくしは彼女の女の身体の三区分とても感心した。
《女たちにとって、所有されることが、愛や優しさや肉体的愛情に関する自分の欲求を満たすセックスである、それゆえ、女たち自身が本性上、所有されることを激しく欲望している、とまで意味づけられるようになっている。あなたを奪い、あなたを犯す男によって官能的に所有されることが、女であることや女らしさや男に欲望される存在であることの肯定一肉体に課せられた意味深い肯定一になっている。》[A.ドウォーキン「インターコース』より]
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「所有される」ということは、自分が商品としてだれかに価値を見いだしてもらって、初めておこることです。自分が所有される価値のある者なのかどうか、女の子は常に意識し続けなければなりません。小倉千加子は、『女の人生すごろく」 のなかで、 「自分の身体が異性の欲望によって消費されるために社会に流通する記号だという認識をもった時、その子は、たとえ小学校2年生でも思春期なんです」と言い放ちます。
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この、女性の性的身体獲得の局面を分析するために、ここで、3つの基本的概念を導入したいと思います。それは、(1)「受け身的身体」(2)「エロス的身体」(3)「魅惑する身体」の3つです。では、以下に順番に説明していきたいと思います。
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「受け身的身体」とは、 異性の視線によって形作られる身体像です。 ドウォーキンや小倉千加子らが指摘するように、 女にとって性的身体は、 まず異性によって欲望され、 所有される身体として現れてくるのです。 そこでは、 女自身が自分の身体に付与する性的な意味付けや価値は、間われません。男の視線によって、 男の価値に自分をあわせていく受動的な身体像があるだけです。その受動的な身体像は、女を抑圧せずにはいられません。女たちは、男にとって「価値のある」身体であろうと欲し、 身を削っていくのです。
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それでは、女にとって抑圧のない(あるいは少ない)性的身体の自己像は存在しうるのでしょうか。あるとすれば、それはナルシズムすれすれの、女自身にとって価値ある性的身体の可能性だと思うのです。自分の性的身体を、男の価値観を経由しない形で自分で認めるということ。そして、ナルシズムに淫しないことが重要です。性的身体が、他者(異性でも同性でも)に開かれた性愛関係を導くのですから、自己の殻に閉じこもることは、その性的身体の本質を失うことになります。
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女自身にとって価値のある、そのような性的身体像を、わたしは「エロス的身体」とよびたいのです。「わたしがわたしであることが、女としても価値のあることなのだ」という意味の全面的肯定なのです。
しかし、「エロス的身体」には、異性に対時するような身体が射程に入っていません。では、「エロス的身体」をもって、異性に向かうということはどのようなことなのでしょうか。わたしは、そこで「魅惑する身体」 を考えたいのです。「エロス的身体」を獲得した女が、そのエロスを自覚的に異性にさしむけ、その異性を性的に魅惑できる身体を獲得したとき、わたしはその身体のことを「魅惑する身体」を呼びたいのです。「魅惑する身体」の獲得は、男によって押し付けられた性的身体像をなぞること(「受け身的身体」)とはことなっています。男によって意味付けられた性的身体像はいくらなぞってもなぞっても、後に述べるように揺れていくのです。
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「魅惑する身体」とは、1つの力です。自分で自分の装う意味と目的を知って、自身の身体によって異性を“魅惑する”のです。そして「魅惑する身体」の背後に「エロス的身体」が存在していることが重要なことなのです。「エロス的身体」を根幹にもつことなしには、「魅惑する身体」は、あり得ません。
これらの3つの概念を図式化すると、図のようになります。
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通常、女の性的身体の価値は男によって造られ、男によって指し示されているのですから、女には、存在の初めからその価値に応じるような道しかありません。女の美が、それ自身で価値があるのではありません。この性的身体は男によって消費されてはじめて価値を持つのです。 普通、 女の身体においては、 女自身が感じる美の価値「エロス的身体」 は、疎外されていくのです。
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「エロス的身体」と、「魅惑する身体」の間でさえ、大きな隔たりがあります。外部から押し寄せてくる視線は女に「エロス的身体」を破壊しねじ曲げていくことを強要してきます。その一方で、ある種のトレーニングをつめば、女たちは魅力的な身体を簡単に得ることができます。どのような服がセクシーなのか、どのようなメイクが色っぽいのか、どのような仕草が男を魅き付けるのか。それなのに、たとえ女たちが魅力的な身体を手に入れたとしても、その価値は男の側に属するものです。「昼は淑女で、 夜は娼婦のように振る舞ってほしい」 「妻にする女と恋人にする女は違う」 という男たちの言葉を取ってみても、そのことは明白なのです。女は、男の目線に併せて、淑女と娼婦の間をうろうろとさまよわなければならいのです。
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女に対する性のダブルスタンダードは、処女マリアか、男を滅ぼすファムファタールのどちらかに女を分類します。その意味でも、「昼は淑女、夜は娼婦」というのは言い得て妙です。もちろん、個人によってマリア型の女がいいという人もいるし、ファムファタールっぽいのが良いという人もいるでしょう。その両極端のあいだで揺れる男たちの好みが、女の身体に反映して、女たちも揺れざるを得ないのです。女たちはその両方に常に引き裂かれているのです。そして、男に合わせて、ほどほどの女を自己演出していくことになります。
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さて、学校制度の中の性教育では「魅惑する身体」「エロス的身体」の価値は教えられません。性的な面をもつ女の身体を発見して、この自分の性的な身体を自分で認めてよいのどうかか戸惑っている思春期の女のコたちに教えられるのは、母性の称賛だけなのです。
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『モノグラフ・小学生ナウ 性成熟』(福武書店 1990) によれば、初潮という性成熟のサインを喜べない子供は 70% にもたっします。 新しい性教育では、初潮を「祝福すべきもの、健康の証し、あなたの身体が、子供を産めるような立派なお母さんの身体になる、その証し」としていますから、これはなぜなのでしょうか。初潮の意味は、ここでは母になって、子供を産むべき誇らしい身体と結び付いているだけです。母になる前に通らなければならない、セクシュアリティやエロスの問題はまるで存在しないかのようです。だれも女の「魅惑する身体」について語りはしません。ただ、大人へと変容していく「エロス的身体」があるばかりです。
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「エロス的身体」は、「母性」の方へねじまげられ、「魅惑する身体」の価値は虐げらていきます。母になる前に通る性的自己の受容は、黒木香が、古典近代の化石として扱われるポストモダンの現代でさえ徹底的に無視されているのです。女にとっての性的自己の受容は未だに「甘美な秘密」などではあり得ず、忌避すべきやっかいなものなのです。(村瀬ひろみ「仕組まれた〈セクシュアリティ〉一黒木香論の地平から一」 1996-01-31)
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中心は通常(a)と記されるが、村瀬ひろみの「空洞化」に近似するように穴とした。
対象aは、大他者自体の水準において示される穴である。l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel (ラカン、S16, 27 Novembre 1968)
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大他者は身体である![L'Autre c'est le corps!] (ラカン、S14, 10 Mai 1967)
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身体は穴である[le corps…C'est un trou](Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)
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穴をラカンは享楽の穴、フロイトは愛の引力と呼んだ。究極的にはおまんこの穴に収斂する(参照:享楽のブラックホール)。
この意味でも、冒頭に引用した上野千鶴子の次の文には十全の敬意を表したい。
それをもっているために女であり、そのために男を誘惑し、それが原因でおとしめられ、女の中核でありながら、女自身から最も女が遠ざけられているもの (上野千鶴子『女遊び』1988年)
上図をラカン語彙にて示せばこうなる。
「自ら享楽する身体」は、フロイトの「自体性愛」であり、「自己身体エロス」とも言い換えうる。したがって村瀬さんの「エロス 的身体」に合致する。「魅惑する身体」「受け身的身体」もそれぞれ、「欲望される身体」「愛される身体」とほぼ置ける。とすれば、いかにもフロイトラカン的な概念の提示がなされているのである。
彼女はこう言っている。
・「受け身的身体」とは、 異性の視線によって形作られる身体像です。
・自分の性的身体を、男の価値観を経由しない形で自分で認めるということ。(…)女自身にとって価値のある、そのような性的身体像を、わたしは「エロス的身体」とよびたいのです。
・「魅惑する身体」とは、1つの力です。自分で自分の装う意味と目的を知って、自身の身体によって異性を“魅惑する”のです。(…)「エロス的身体」を根幹にもつことなしには、「魅惑する身体」は、あり得ません。
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ボロメオの環において、想像界の環は現実界の環を覆っている(支配しようとする)。象徴界の環は想像界の環を覆っている。だが象徴界自体は現実界の環に覆われている。これがラカンのトポロジー図の一つであり、多くの臨床的現象を形式的観点から理解させてくれる。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE、DOES THE WOMAN EXIST? 1999)
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自ら享楽する身体[corps en tant qu'il se jouit]とは、フロイトが自体性愛 auto-érotisme と呼んだもののラカンによる翻訳である。「性関係はない」とは、この自体性愛の優越の反響に他ならない。[le dit de Lacan Il n'y a pas de rapport sexuel ne fait que répercuter ce primat de l'autoérotisme. ](J.-A. MILLER, -L'être et l'un, 30/03/2011 )
自ら享楽する身体=エロス的身体、ーー村瀬曰く《「エロス的身体」には、異性に対時するような身体が射程に入っていません》、これこそ性的非関係の身体である。
もっとも彼女のエロス的身体には次の相がないが、そこまで求めるつもりは腋毛ほどもない。
自体性愛の対象は、喪われた対象a [l'objet perdu (a)) ]の形態をとる。対象a の起源は、永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964, 摘要)
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享楽の対象 Objet de jouissance…フロイトのモノ La Chose(das Ding)、…それは喪われた対象 objet perdu である。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
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モノとしての享楽の価値は、穴と等価である。La valeur que Lacan reconnaît ici à la jouissance comme la Chose est équivalente à l'Autre barré. (J.-A. Miller, Les six paradigmes de la jouissance, 1999)
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自体性愛Autoerotismus。…性的活動の最も著しい特徴は、この欲動は他の人andere Personen に向けられたものではなく、自己身体 eigenen Körper から満足を得ることである。それは自体性愛的 autoerotischである。(フロイト『性欲論三篇』1905年)
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