精神分析の世界でのアタッチメント概念は、メラニー・クラインと一緒に仕事をしたジョン・ボウルビィJohn Bowlby の『Attachment』(1969年)ーー邦訳『愛着行動』ーーに始まるらしく、彼のアタッチメントの定義は、「生物個体が危機的状況に接し,あるいは潜在的な危機的状況を予知し,不安や恐れといったネガティブな情動が強く喚起されたとき に,特定の他個体への近接を通して,主観的な安全の感覚(felt security)を回復・維持しようとす る行動システム」だそうだ。とすれば、「愛着」という邦訳自体もいくらか問題ありだろうな。実際は「くっつき」程度のほうがいいんじゃないか。
いずれにしろアタッチメント理論(愛着理論)についてはほとんど知らないから、何やら言われても困るな。わたくしがしばしば依拠するポール・バーハウが2000年代半ばぐらいからピーター・フォナギー P.Fonagyのアタッチメント理論をフロイトラカン理論に積極的に関連づけているので全く知らないわけではないが、それを読む限りでは、男女の愛の相違を分析するという点では弱い理論だな。
だいたいボクの関心は、男と女はなんでこうも違うんだろうということから始まっているので、いくらフロイトが100年前の人、ラカンが50年前の人でも、どうしてもこのふたりのほうがずっと参考になるということだ。
男の愛と女の愛は、心理的に別々の位相にある、という印象を人は抱く。
Man hat den Eindruck, die Liebe des Mannes und die der Frau sind um eine psychologische Phasendifferenz auseinander.(フロイト『新精神分析入門』第33講「女性性」1933年)
|
女性の対象選択 Objektwahlの決定因は、しばしば気づかれない形で社会的条件によって為される。選択が自由に行われる場では、しばしば彼女がそうなりたい男性というナルシシズム的理想 narzißtischen Ideal にしたがって対象選択がなされる。もし彼女が父への結びつき Vaterbindungに留まっているなら、つまりエディプスコンプレクスにあるなら、その女性の対象選択は父タイプ Vatertypus に則る。(フロイト『新精神分析入門』第33講「女性性」1933年)
|
男性の場合、栄養の供給や身体の世話などの影響によって、母が最初の愛の対象 ersten Liebesobjekt となり、これは、母に本質的に似ているものとか、彼女に由来するものなどによって置き換えられるようになるまでは、この状態がつづく。
女性の場合にも、母は最初の対象 erste Objekt であるにちがいない。対象選択 Objektwahl の根本条件は、すべての小児にとって同一なのである。しかし、発達の終りごろには、男性である父が愛の対象となるべきであって、というのは、女性の性の変換には、その対象の性の変換が対応しなくてはならないのである。(フロイト『女性の性愛』1931年)
|
ーー基本的には女性の場合、母との同一化ーー母の場に自らを置くことーーにより、ナルシシズム(二次ナルシシズム)と被愛妄想が生まれる。それは「愛の条件」で記した通り。
…………
※付記
冒頭の図というのは、基本的には次のように簡略化して示せる。
ナルシシズム的愛は自己への愛にかかわる。アタッチメント的愛は大他者への愛である。ナルシシズム的愛は想像界の軸にあり、アタッチメント的愛は象徴界の軸にある。l'amour narcissique concerne l'amour du même, tandis que l'amour anaclitique concerne l'amour de l'Autre. Si l'amour narcissique se place sur l'axe imaginaire, l'amour anaclitique se place sur l'axe symbolique(J.-A. Miller「愛の迷宮 Les labyrinthes de l'amour」1992)
|
男性と女性とを比較してみると、対象選択の類型に関して両者のあいだに、必ずというわけではもちろんないが、いくつかの基本的な相違の生じてくることが分かる。アタッチメント型 Anlehnungstypusにのっとった完全な対象愛 volle Objektliebeは、本来男性の特色をなすものである。このような対象愛は際立った性的過大評価Sexualüberschätzungをしている。(…)
|
女性の場合にもっともよくみうけられ、おそらくもっとも純粋一で真正な類型と考えられるものにあっては、その発展のぐあいがこれとは異なっている。ここでは思春期になるにつれて、今まで潜伏していた女性の性器 latenten weiblichen Sexualorganeが発達するために、根源的ナルシシズム ursprünglichen Narzißmus の高まりが現われてくるように見えるが、この高まりは性的過大評価をともなう正規の対象愛を構成しがたいものにする。とくに美しく発育してゆくような場合には女性の自己満足が生じてきて、これが女性のために社会的に侵害された対象選択の自由の償いをするのである。このような女性は厳密にいうならば、男性が彼女を愛するのと同じような強さでもって自分自身を愛しているにすぎない。Solche Frauen lieben, strenggenommen, nur sich selbst mit ähnlicher Intensität, wie der Mann sie liebt.
彼女が求めているものは愛することではなくて、愛されることであり、このような条件をみたしてくれる男性を彼女は受け入れるのである。Ihr Bedürfnis geht auch nicht dahin zu lieben, sondern geliebt zu werden, und sie lassen sich den Mann gefallen, welcher diese Bedingung erfüllt. (フロイト『ナルシシズム入門』第2章、1914年)
|
|
愛するということには、一つだけではなく、三つの対立関係が可能である。愛する-憎むlieben–hassen という対立関係の他に、愛する-愛されるlieben–geliebtという対立関係があり、さらに、愛すると憎むlieben und hassenとをいっしょにしたものが、無頓着あるいは無関心Indifferenz oder Gleichgültigkeitという状態に対立する。以上三つの対立関係のうち、愛する-愛されるという対立関係は、能動性から受動性Aktivität zur Passivitätへの転換に全面的に対応している。…その基本的事態は、自分自身を愛することsich selbst liebenであり、これはナルシシズムの特性Charakteristik des Narzißmusにほかならない。(フロイト『欲動とその運命』1915年)
|
ラカンはこのフロイトを受け入れて、愛はナルシシズムだと連発している。
|
愛することは、本質的に、愛されたいということである。l'amour, c'est essentiellement vouloir être aimé. (ラカン、S11, 17 Juin 1964)
|
愛はナルシシズムである。l'amour c'est le narcissisme。(Lacan, S15, 10 Janvier 1968)
|
愛はその本質においてナルシシズム的である。l'amour dans son essence est narcissique (Lacan, S20, 21 Novembre 1972)
|
微妙な差異はないではないが基本は、「原ナルシシズム=享楽自体=身体の享楽」、「アタッチメントタイプ=欲望=ファルス享楽」、「ナルシシズムタイプ=愛=想像的自我の享楽」であり(参照)、フロイト語彙をボロメオの環におけばこうなる。
人間は二つの根源的な性対象を持つ。すなわち、自分自身(ナルシシズム型
narzißtischen Typus)と世話してくれる女性(アタッチメント型Anlehnungstypus)である。この二つは、対象選択において最終的に支配的となるすべての人間における原ナルシシズムを前提にしている。[Wir sagen, der Mensch habe zwei ursprüngliche Sexualobjekte: sich selbst und das pflegende Weib, und setzen dabei den primären Narzißmus jedes Menschen voraus, der eventuell in seiner Objektwahl dominierend zum Ausdruck kommen kann. ](フロイト『ナルシシズム入門』第2章、1914年)
|
|
|
|