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2020年7月14日火曜日

マルチチュードとコミューンニズム


ネグリは2018年のインタビューでこう言っている。

マルチチュードは、主権の形成化 forming the sovereign power へと解消する「ひとつの公民 one people」に変容するべきである。(…)multitudo 概念を強調して使ったスピノザは、政治秩序が形成された時に、マルチチュードの自然な力が場所を得て存続することを強調した。実際にスピノザは、マルチチュードmultitudoとコモンcomunis 概念を推敲するとき、政治と民主主義の全論点を包含した。(…)スピノザの教えにおいて、単独性からコモンsingularity to the commonへの移行において決定的なことは、想像力・愛・主体性である。新しく発明された制度newly invented institutionsへと自らを移行させる単独性と主体性は、コモンティスモcommontismoを要約する一つの方法である。(The Salt of the Earth On Commonism: An Interview with Antonio Negri – August 18, 2018)

この発言の少し前には次のようにもある。

なぜ我々はこれをコミュニズムと呼ばないのか。おそらくコミュニズムという語は、最近の歴史において、あまりにもひどく誤用されてしまったからだ。(…だが)私は疑いを持ったことがない、いつの日か、我々はコモンの政治的プロジェクトをふたたびコミュニズムと呼ぶだろうことを[I have no doubt that one day we will call the political project of the common ‘communism' again]。だがそう呼ぶかどうかは人々しだいだ。我々しだいではない。(The Salt of the Earth On Commonism: An Interview with Antonio Negri – August 18, 2018)

結局、マルチチュードの真意はマルチチュード(有象無象)ではなく、コミューンニズムなのである。
スピノザ には、「共通概念 notio communis」と「一般的概念 notio universalis」という用語がある。スピノザは後者を否定し、前者の「共通概念」を顕揚した。この「共通概念 notio communis」とはそのまま訳せば、「コミューン概念」である。どうしてこれがコミュニズムでないわけがあろう。
スピノザの「共通概念 notio communis」と「一般的概念 notio universalis」とは、柄谷が2000年前後から強調し続けているカントの「統整的理念 die regulative Idee」(理性の統整的原理 das regulative Prinzip der Vernunft)と「構成的理念 die konstruktive Idee」と近似してはいないだろうか。スピノザ にもカントにもほとんど無知なわたくしは、今のところ、おそらくそうでありうるという「錯覚に閉じ籠っている」。

ある理想やデザインによって社会を強引に構成するような場合、それは理性の構成的使用であり、そのような理念は構成的理念である。しかし、現在の社会(資本=ネーション=国家)を超えてあるものを想定することは、理性の統整的使用であり、そのような理念は統整的理念である。仮象であるにもかかわらず、有益且つ不可欠なのは、統整的理念である。(第一回 長池講義 講義録 柄谷行人  2007/11/7)

そして柄谷にとってこの統整的理念がコミュニズムである。

僕はよくいうんですが、カントが理念を、二つに分けたことが大事だと思います。彼は、構成的理念と統整的理念を、あるいは理性の構成的使用と理性の統整的使用を区別した。構成的理念とは、それによって現実に創りあげるような理念だと考えて下さい。たとえば、未来社会を設計してそれを実現する。通常、理念と呼ばれているのは、構成的理 念ですね。それに対して、統整的理念というのは、けっして実現できないけれども、絶えずそれを目標として、徐々にそれに近づこうとするようなものです。カントが、「目的の国」とか 「世界共和国」と呼んだものは、そのような統整的理念です。 僕はマルクスにおけるコミュニズムを、そのような統整的理念だと考えています。
しかし、ロシア革命以後とくにそうですが、コミュニズムを、人間が理性的に設計し構築する社会だと考えるようになりました。それは、「構成的理念」としてのコミュニズムです。それは「理性の構成的使用」です。つまり、「理性の暴力」になる。だから、ポストモダンの哲学者は、理性の批判、理念の批判を叫んだわけです。 しかし、それは「統整的理念」とは別です。マルクスが構成的理念の類を嫌ったことは明らかです。未来について語る者は反動的だ、といっているほどですから。ただ、彼が統整的理念としての共産主義をキープしたことはまちがいないのです。それはどういうものか。た とえば、「階級が無い社会」といっても、別にまちがいではないと思います。しかし、もっと厳密にいうと、第一に、労働力商品(賃労働)がない社会、第二に、国家がない社会です。 (柄谷行人「世界危機の中のアソシエーション・協同組合」2009年)

ここで今まで何度か引用しているジジェクの2018年のインタビュー記事、ポルノ愛好家のジジェクの"Pornography no longer has any charm"という題がついた記事からも再掲しておこう。

私は、似非ドゥルージアンのネグリ&ハートの革命モデル、マルチチュードやダイナミズム等…、これらの革命モデルは過去のものだと考えている。そしてネグリ&ハートは、それに気づいた。

半年前、ネグリはインタヴューでこう言った。われわれは、無力なこのマルチチュードをやめるべきだ [we should stop with this multitudes, with no-power]と。われわれは二つの事を修復しなければならない。政治権力を取得する着想と、もうひとつ、ーードゥルーズ的な水平的結びつき、無ヒエラルキーで、たんにマルチチュードが結びつくことーー、これではない着想である。ネグリは今、リーダーシップとヒエラルキー的組織を見出したのだ。私はそれに全面的に賛同する。(ジジェク, Pornography no longer has any charm, 19.01.2018)



カント、スピノザ概念を(危険を侵しつつ)敢えて統合して示せばこういうことである。




支配の論理に陥りがちな構成的理念を打破しようとしたのが20世紀後半の思想運動の歴史である。だがそのとき水平的でほとんど無力なマルチチュードしか残らなかった。各マルチチュード運動には小粒のリーダーやら小倫理委員会やらは生まれたかもしれない。だがそれらはけっして「コモン」とはならない。ポリコレフェミなどはその典型であり、男女をいっそう分断する作用しかもたなかった。

したがって支配の論理に陥らないような、しかし全体を統整する理念としてのコミューンニズムが必要不可欠だということになる。もちろんどうやってそれを成し遂げるかという問題はある。だがいまだにマルチチュードーーそこにはポピュリズムも含まれるーーをナイーヴに顕揚しているばかりの社会運動家やら政治学者やらは早いところお釈迦になっていただかなくてはならないということだけは確かである。


最後にーー「錯覚に閉じ籠っている」ついでにーー、こう言っておこう。スピノザの神とは「一般的概念 notio universalis」ではなく「コミューン概念notio communis」ある、と。

神の能力は神の本質そのものである Dei potentia est ipsa ipsius essentia(スピノザ  『エチカ』第一部定理三四)