橘玲氏が、新著『女と男 なぜわかりあえないのか』をめぐるインタビューでこう話している。
|
カナダの女性神経心理学者による「女は身体的な興奮と主観的な興奮が一致しない」という実験結果もびっくりしました。男はペニスの勃起と性的興奮が完全に一致しますが(興奮にしないと勃たない)、女はヴァギナが興奮しても主観的には性的興奮を感じていないことがある。これは男にとって驚天動地の話ですが、知り合いの複数の女性から「そんなの当たり前だと思っていた」「橘さんが驚いたことに驚いた」といわれて、さらにびっくりすることになりました。(橘玲「進化しない人間の性愛 男にとって女が「永遠の謎」である理由」2020年7月14日)
|
わたくしも少し前に知ったばかりだが、こういったことはセクシャリティについて語りたい者は皆知っておくべきじゃないだろうかね。知っておけば男女間の無駄な論争やらいがみ合いが少なくともいくらは減るはずだよ。
「女は身体的な興奮と主観的な興奮が一致しない」については、カナダの女性神経心理学者だけでなく、種々の研究成果を紹介している2019年の論がある(Understanding sexual arousal and subjective–genital arousal desynchrony in women, by Cindy Meston&Amelia M. Stanton, 2019, PDF)
この論には色々な図が示されているが、橘玲氏が上で言っていることは次の図にある。
性器の性的興奮と主体の性的興奮の不一致が一定の割合の女性にはある。女性の場合、主体(主観)の性的興奮をもたらすものは心的要因があり、関係性とパートナー要因、性的態度や信念、性的履歴等々と示されている。
これは精神分析的にも、とくにラカニアンにおいて、かつてから言われてきたことである。
古来からの男女の二項対立において、一見、女は自然・欲動・身体等を表し、男は文化・象徴界(言語界)・精神等を表しように思える。だがこれは、日々の経験によっても、臨床実践によっても立証されない。
女性のエロティシズムと女性のアイデンティティは、男性のそれよりもはるかにずっと象徴界に引きつけられているように見える。聖書的であろうとそうでなかろうと、女はおおむね、耳で考え言葉で誘惑される。
対照的に、言語に媒介されない、身体の欲動に支配されたセクシャリティは、はるかにずっと男性のエロティシズムである。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, Phallacies of binary reasoning: drive beyond gender, 2004年)
|
フロイトラカン派の古典的観点のいくつかを掲げておこう。
「愛されると同時に欲望される être désirée en même temps qu'aimée」(ラカン、E694、1958)ーーこれが女たちの願いである。(ピエール=ジル・ゲガーンPierre-Gilles Guéguen, On Women and the Phallus 2010)
|
女たちは愛されたいのです[elles veulent être aimées]。愛と関心、それは彼女たちに示されたり、彼女たちが他のひとに想定するものですが、女性の愛の引き金をひく[déclencher leur amour]ために、それらはしばしば不可欠なものです。(ジャック=アラン・ミレール Jacques-Alain Miller, On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " 2010年)
|
われわれは、女性性には(男性性に比べて)より多くのナルシシズムがあると考えている。このナルシシズムはまた、女性による対象選択 Objektwahl に影響を与える。女性には愛するよりも愛されたいという強い要求があるのである。geliebt zu werden dem Weib ein stärkeres Bedürfnis ist als zu lieben.(フロイト『新精神分析入門』第33講「女性性」1933年)
|
(多くの男は)愛するとき欲望しない。欲望するとき愛しえない。Wo sie lieben, begehren sie nicht, und wo sie begehren, können sie nicht lieben.(フロイト『性愛生活が誰からも貶められることについて』1912)
|
(場合によっては)誰にも属していない女は黙殺されたり、拒絶されさえする。他の男と関係がありさえすれば、即座に情熱の対象となる。Weib zuerst übersehen oder selbst verschmäht werden kann, solange es niemandem angehört, während es sofort Gegenstand der Verliebtheit wird, sobald es in eine der genannten Beziehungen zu einem anderen Manne tritt.(『男性における対象選択のある特殊な型について 』1910)
|
もしわれわれが心的インポテンツpsychischen Impotenz概念の拡大ではなく、症候学に注意を払うなら、現在の文明化された世界の男たちの愛の習性Liebesverhalten des Mannesは、全体的にみて心的インポテンツの刻印が負わされている。教育ある人々のあいだでは、情愛と官能 die zärtliche und die sinnliche Strömung の流れが合流しているケースはごくわずかである。
男はほとんど常に、女性への敬愛Respekt vor dem Weibeを通しての性行動sexuellen Betätigung に制限を受けていると感じる。そして貶められた性的対象erniedrigtes Sexualobjekt に対してのみ十全なポテンツを発揮する。(フロイト『性愛生活が誰からも貶められることについて』1912)
|
…………
ラカンはこう言っている。
|
愛は欲望の昇華である[l'amour est la sublimation du désir]…
ラ・ロシュフーコーはこう言っている、《いちども愛の話を聞かなかったなら、愛などけっしてしなかったろうと思われる人間がたくさんいる[Combien de gens n'auraient jamais aimé s'ils n'en avaient entendu parler]》。
つまりは、《文化がなかったら愛の問題はないだろう。Qu'il ne serait pas question d'amour s'il n'y avait pas la culture》である。 (Lacan, S10, 13 Mars 1963)
|
女たちは性愛にかんして文化的なのである。文化的、すなわち言語的である。
ボロメオの環において、想像界の環は現実界の環を覆っている(支配しようとする)。象徴界の環は想像界の環を覆っている。だが象徴界自体は現実界の環に覆われている。これがラカンのトポロジー図の一つであり、多くの臨床的現象を形式的観点から理解させてくれる。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE、DOES THE WOMAN EXIST? 1999)
|
※穴(=トラウマ)についてはやや難解だが、さしあたって「主体の穴、享楽の穴、身体の穴」の文献を参照のこと。もうすこし説明的には「去勢と穴」を見よ。