このブログを検索

2020年8月20日木曜日

ベンジャミン・リベットの「アイ/セルフ」

このところ「無意識」をめぐっていくらか記したところで、ベンジャミン・リベット Benjamin Libetを思い出した。といっても原著に当たったことはなく、中井久夫による2003年の記述である。リベットについては、別にジジェクが2006年の書『パララックスヴュー』で触れているのを読んだことがあるが、他はまったく知らない。最近の研究ではどう評価されているのかももちろん知らないが、ざっとネット上の英語文献を掠め眺める限りでは(細部への異議はないでもないようだが)、おおむね受け入れてられているようにみえる。



米国の神経生理学者ベンジャミン・リベットによれば、人間が自発的行為を実行する時、その意図を意識するのは脳が行動を実行しはじめてから〇・五秒後である。脳/身体が先に動きだし、意識は時間を置いてその意図を知る。しかも、意識は自分が身体に行動するように指示したと錯覚しているーーということである。

(……)私たちは、指を曲げようというような動作をし始めてから意識が、「指を曲げることにするよ」という意図を意識のスクリーンに現前させるというわけだ。一世紀以上前に米国の哲学者・心理学者ウィリアム・ジェームスは「悲しいから泣くのでなくて泣くから悲しいのだ」といった。それに近い話である。

これが正しければ、意識による「自己コントロール」は、まちがって踏みはじめたアクセルにブレーキを遅ればせにかけることになる。そして、意識は、追認するか、制止するか、軌道を修正するかである。ラテン語以来、イタリア、フランス、スペイン語で「意識」と「良心」とが同じconscientia(とそのヴァリエーション)であることに新しい意味が加わる。意識はすでに判断者なのである。抑止は、追いかけてブレーキをかけることである。〇・五秒は、こういう時にはけっこう長い時間であり、「車」はかなり先に行っている。

もっと前段階の、実行の構想段階、準備段階でも、行動の開始はその意識に先行するかどうかが問題である。リベットの研究はもっぱら最終的実行にかかわることだからである。

実験にもとづくリベットの説は、私たちが私たちのどうすることもできない力にふりまわされていることを示しているのではない。彼は、その主張の根拠を、脳/精神全体の情報処理能力(「自分」の機能)と、意識の情報処理能力(「私」の機能)との格段の差に帰している。感覚器からの入力を脳が補足して情報する能力は毎秒1100万ビットであり、意識が処理できる量はわずか40ビットだと彼はいう。脳全体が判断して行動を起しつつある時、その一部を多少遅れて意識が情報処理するということである。彼によれば、自由意志という体験は、「自分」が「私」に処理をまかせている時に起こる瞬間的な決断に際しては「私」とその自由意志は一時停止し、「自分」が脳全体を駆使して判断するという。彼は神経生理学の立場から脳全体の機能を「自分、セルフ」といいい、意識の機能活動を「自我、アイ」という。ユングの用法に等しからずといえども遠からずであろうか。欧米のように意識を非常に重視する哲学的風土においてはショッキングであろうが、私にはむしろ、そう考えるとかえって腑に落ちることが少なくない。

日常生活でも、服を手にとってから「あ、私、これが買いたかったのよ」と言う。「この人と友達になろう」と言う時はすでにそうなりつつある。熱烈なキスでは、行為は相手と同時に起こり、唇を合わせてから始めてキスしているおのれを意識するのが普通であろう。おそらく、行為は、互いに相手からのそれこそ意識下の情報をくみ取りあって、「セルフ」のほうが先に動くのであろう。「愛している」という観念が後を追いかけてきても、その時は小説のように、プルーストの小説のように、相手の頬の肌の荒れなどを観察しつつ、唇が合わさるように持ってゆくのは、例外的な「意識家」であり、モームの小説に出てくる、スピノザの哲学書をよみながら性交する男に似てfrigidであろう。意識が精神全体の、さらには心身の専制君主であるわけではないということである。

「アイ」は、歩き馴れた道を歩くような時にも「セルフ」に多くを任せているのであろう。階段がもう一段あるつもりで足を踏み出した時に起こる不愉快な当て外れ感覚は「パニック」の例によく挙げられるものであるが、パニックを起こしているのは「アイ」であろう。段差に気づかずに転倒する時、気づくと受け身の姿勢をとって身体の要所を庇っていることがある。これなどは「セルフ」がよく働いた場合である。この「無意識」はベルクソンが無意識の例として挙げているものに近い。彼は、身体的な多くの機能が意識の指示を待たずに円滑に動いているからこそ、意識が本来の自由な活動にひたれると考えていた。

リベットの説が正しければ、犯罪・非行への対処は、「アイ」もさることながら、「セルフ」すなわち脳全体ということになる。考えてみれば、当然のことである。今後の脳生理学は、1100万ビット/秒の感覚器に降り注ぐ情報を、どのようにしぼりこんで行動の開始を決定するか、そしてどの部分がどの形で意識の40ビット/秒にまわされるかを明らかにしてほしい。私たちが粗雑に衝動とか判断とか決定と呼んでいるものについて再考するきっかけになるであろう

踏み越えは脳/精神の全体が決め手であり、自己決定、自己制御のみに集中する現在の行き方は限界があるだろう。小は些細な買い物に始まり、エロス的行為や犯罪を経て、戦争に至る「踏み越え」のパターンが、人格というもののプラグマティックな輪郭を示すとすれば、その過程に臨床的な接近をすることは多くの問題を解決する糸口になるのではないだろうか。時に、神経心理学者は、精神科医、心理学者に大局観を教えてくれる。敬愛する神経心理学者・山鳥重によると、知情意というが、順序は情知意であるという。知や意は情の大海の上に浮かぶ船、中に泳ぐ魚に過ぎないということであろう。(中井久夫「「踏み越え」について」2003年『徴候・記憶・外傷』所収)


《私たちが粗雑に衝動とか判断とか決定と呼んでいるものについて再考するきっかけになるであろう》とあるが、「衝動」とはフロイトの駆り立てる力Drang としての欲動(リビドー)としてよいだろう。欲動とは、フロイトの最晩年の定義においては、心的生に課される身体的要求である。

フロイトやラカン図式ではこうである。



ちなみにフロイトは「判断」について次のように記している。

おそらく判断Urteilsということを研究してみて始めて、第一次的な欲動蠢動 Spiel der primären Triebregungen から知的機能が生まれてくる過程を洞察する目が開かれる。判断は、もともと快原理にしたがって生じた自我への「取り入れ Einbeziehung」、ないしは自我からの「吐き出し Ausstoßung」 の合目的的に発展した結果生じたものである。その両極性は、われわれが想定している二つの欲動群の対立性に呼応しているように思われる。肯定Bejahung は、融合の代理 Ersatz der Vereinigungとしてエロスに属し、否定は Verneinung は廃棄の後裔 Nachfolge der Ausstossung として破壊欲動Destruktionstriebに属する。(フロイト『否定』1925)  


フロイトにとっても身体はもちろん脳にかかわる。それは、中井久夫=リベットが《脳/身体が先に動きだし》と書いている通りである。

われわれが心的なもの(心的生)と呼ぶもののうち、われわれに知られているのは、二種類である。ひとつは、それの身体器官と舞台、すなわち脳(神経系)であり、もうひとつは、われわれの意識作用である。Von dem, was wir unsere Psyche (Seelenleben) nennen, ist uns zweierlei bekannt, erstens das körperliche Organ und Schauplatz desselben, das Gehirn (Nervensystem), ander-seits unsere Bewusstseinsajcte(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)