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2020年8月20日木曜日

幼少の砌の固着の残滓



子供の頃に可愛がられていた人間は、後年しぶといものです。孤立無援になった時、過去に無条件に好かれていたという思いがあれば、辛抱できるんです。
でも、人に好かれないで突き放されて生きていた人は、痛ましい話だけれど、強くてももろいところがあるんです。こういう人は子供の頃に体験できなかった感情を、成人してから調達しようとします。(古井由吉『人生の色気』「自分の好きなことを貫くには」2009年)

《人に好かれないで突き放されて生きていた人は、痛ましい話だけれど、強くてももろいところがあるんです》というのは、たぶん何人かの作家の顔ーーそれだけじゃないだろうけどーーを思い浮かべながら言ってるんじゃないかしら。


頼朝公卿幼少の砌の髑髏〔しゃれこうべ〕、という古い笑い話があるが、誰しも幼少年期の傷の後遺はある。感受性は深くて免疫のまだ薄い年頃なので、傷はたいてい思いのほか深い。はるか後年に、すでに癒着したと見えて、かえって肥大して表れたりする。しかも質は幼年の砌のままで。

小児の傷を内に包んで肥えていくのはむしろまっとうな、人の成熟だと言えるのかもしれない。幼い頃の痕跡すら残さないというのも、これはこれで過去を葬る苦闘の、なかなか凄惨な人生を歩んできたしるしかと想像される。しかしまた傷に晩くまで固着するという悲喜劇もある。平生は年相応のところを保っていても、難事が身に起ると、あるいは長い矛盾が露呈すると、幼年の苦についてしまう。現在の関係に対処できなくなる。幼少の砌の髑髏が疼いて啜り泣く。笑い話ではない。(古井由吉「幼少の砌の」『東京物語考』1984年)


で、幼少の砌の固着の起源は、母への固着しかないわ

母へのエロス的固着の残滓は、しばしば母への過剰な依存形式として居残る。Als Rest der erotischen Fixierung an die Mutter stellt sich oft eine übergrosse Abhängigkeit von ihr her(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
享楽は、残滓 (а)  を通している。la jouissance[…]par ce reste : (а)  (ラカン, S10, 13 Mars 1963)
異者は、残存物、小さな残滓である。L'étrange, c'est que FREUD[…] c'est-à-dire le déchet, le petit reste,    (Lacan, S10, 23 Janvier 1963)
原抑圧と同時に固着が行われ、暗闇に異者が蔓延る。Urverdrängung[…] Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; […]wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen, (フロイト『抑圧』1915年)

残滓 (а) =異者(異者としての身体)➡︎《異者としての身体…問題となっている対象aは、まったき異者である。corps étranger,[] le (a) dont il s'agit,[…] absolument étranger》 (Lacan, S10, 30 Janvier 1963)


いわゆる享楽の残滓 [reste de jouissance]。…ラカンはフロイトによって啓示を受け、リビドーの固着点 [points de fixation de la libido]を語った。これが、孤立化された、発達段階の弁証法に抵抗するものである。(J.-A. MILLER,  - Orientation lacanienne III-  5/05/2004)
発達や変化に関して、残存現象 Resterscheinungen、つまり前段階の現象が部分的に置き残される Zurückbleiben という事態は、ほとんど常に認められるところである。…いつでも以前のリビドー体制が新しいリビドー体制と並んで存続しつづける。…最終的に形成されおわったものの中にも、なお以前のリビドー固着の残滓 Reste der früheren Libidofixierungenが保たれていることもありうる。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)
人の生の重要な特徴はリビドーの可動性であり、リビドーが容易にひとつの対象から他の対象へと移行することである。反対に、或る対象へのリビドーの固着があり、それは生を通して存続する。Ein im Leben wichtiger Charakter ist die Beweglichkeit der Libido, die Leichtigkeit, mit der sie von einem Objekt auf andere Objekte übergeht. Im Gegensatz hiezu steht die Fixierung der Libido an bestimmte Objekte, die oft durchs Leben anhält. (フロイト『精神分析概説』第2章、死後出版1940年)


➡︎《享楽の名、それはリビドーというフロイト用語と等価である。le nom de jouissance[…] le terme freudien de libido auquel, par endroit, on peut le faire équivaloir.》(J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne III, 30/01/2008)

………………


以下、上の固着とはいくらか異なるけれど、父の名による原享楽の防衛をめぐる(メカニズムとしては同じ)。


斜線を引かれた原享楽を代替する上部の大他者は、対象aと呼ばれる残滓を置き残す。l'Autre audessus se substituant à une jouissance primaire, elle, barrée […] laisse ce reste dénommé petit a. (J.-A. MILLER, L'Autre qui  n'existe pas et ses comités d'éthique -11/12/96)



われわれが父の名による隠喩作用を支える瞬間から、母の名は原享楽を表象するようになる。à partir du moment où on fait supporter cette opération de métaphore par le Nom-du-Père, alors c'est le nom de la mère qui vient représenter la jouissance primordial (J.-A. Miller, CAUSE ET CONSENTEMENT, 23 mars 1988)




要するに次のようになる。




斜線を引かれた享楽の上の大他者[grand A sur grand J barré. ]。

これが父の名の効果である。父の名の真の本質は言語である。すなわち言語の構造自体が享楽を投げ捨てる効果をもつ。[c'est que le langage comme tel a l'effet du Nom-du-père, que la vraie identité du Nom-du-père, c'est le langage, que la structure de langage elle-même a un effet anéantissant sur la jouissance. ](J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme, 14/1/98)     



言語、法、ファルスとの間には密接な結びつきがある。父の名の法は、基本的に言語の法以外の何ものでもない。法とは何か? 法は言語である。Il y a donc ici un nœud très étroit entre le langage, la Loi et le phallus. La Loi du Nom-du-Père, c'est au fond rien de plus que la Loi du langage ; […] qu'est-ce que la Loi ? - la Loi, c'est le langage.  (J.-A. MILLER, - L’Être et l’Un,  2/3/2011)


………………


以下、既に何度か掲げているけど、残滓 (а) の最も基本的注釈。

ラカンによって幻想のなかに刻印される対象aは、まさに「父の名 Nom-du-Père」と「父の隠喩 métaphore paternelle」の支配から逃れる対象である。
…この対象は、いわゆるファルス期において、吸収されると想定された。これが言語形式forme linguistique において、「ファルスの意味作用 la signification du phallus」とラカンが呼んだものによって作られる「父の隠喩 métaphore paternelle」である。

この意味は、いったん欲望が成熟したら、すべての享楽は「ファルス的意味作用 la signification phallique」をもつということである。言い換えれば、欲望は最終的に、「父の名」のシニフィアンのもとに置かれる。この理由で、「父の名」による分析の終結が、欲望の成熟を信じる分析家すべての念願だと言いうる。

そしてフロイトは既に見出している、成熟などないと。フロイトは、「父の名」はその名のもとにすべての享楽を吸収しえないことを発見した。フロイトによれば、まさに「残滓 restes」があるのである。その残滓が分析を終結させることを妨害する。残滓に定期的に回帰してしまう強迫がある。

セミネール4において、ラカンは自らを方向づける。それは、その後の彼の教えにとって決定的な仕方にて。私はそれをネガの形で示そう。ラカンによって方向づけられた精神分析の実践にとって真の根本的な言明。それは、成熟はない il n'y pas de maturation 。無意識としての欲望にはどんな成熟もない ni de maturité du désir comme inconscient である。( J.-A. Miller「大他者なき大他者 L'Autre sans Autre 」2013)



固着の残滓、成熟不能の無意識があるんだから、男がこういうことしたくなるのやむ得ないんじゃないかしら?

夕暮れにひとりきりになって立つ女の子の、その背後に男の子が忍び足でまわり、いきなりスカートの下に手を入れて、下ばきを膝までおろしてしまう。女の子はそれにしてはたじろかず、なにか遠くへ笑っているような顔を振り向けてから、腰をまるく屈めて下ばきをなおし、何もしらないくせにと言わんばかりの大人の背を見せて立ち去る。(古井由吉『ゆらぐ玉の緒』)

えらいわ、この女の子。たいしてたじろがないなんて。

女のほうもたまには能動的に次のようなサービスしたらどうかしら、そうしたらたいしたものないって男の子たちわかるんじゃない?




あんなとこ帰れるわけないわ、頭だって入りゃしない。

自我の発達は原ナルシシズムから距離をとることによって成り立ち、自我はこの原ナルシシズムを取り戻そうと精力的な試行錯誤を起こす。Die Entwicklung des Ichs besteht in einer Entfernung vom primären Narzißmus und erzeugt ein intensives Streben, diesen wiederzugewinnen.(フロイト『ナルシシズム入門』第3章、1914年)
子宮内生活は原ナルシシズムの原像である。la vie intra-utérine serait le prototype du narcissisme primaire (Jean Cottraux, Tous narcissiques, 2017)

以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年)
人には、出生とともに、放棄された子宮内生活へ戻ろうとする欲動、母胎回帰がある。Man kann mit Recht sagen, mit der Geburt ist ein Trieb entstanden, zum aufgegebenen Intrauterinleben zurückzukehren, […] eine solche Rückkehr in den Mutterleib. (フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)


バキュームベットとかバキュームキューブって子宮内生活の代替効果がかなりあるわよ、そこのアンタも試してみたら?






「バキュームキューブ」は母胎の代理である。最初の住まい、おそらく人間がいまなお渇望し、安全でとても居心地のよかった母胎の代理である。das Wohnhaus ein Ersatz für den Mutterleib, die erste, wahrscheinlich noch immer ersehnte Behausung, in der man sicher war und sich so wohl fühlte. (フロイト『文化の中の居心地の悪さ』1930年、訳語を一箇所変更)


アタシはベッドのほうだけど三日に一回ぐらいは使ってるわ




無難なところではアルコーヴだっていいかもよ

(精神病棟の設計に参与するにあたって)、設備課の若い課員から、人間がいちばん休まるのはどういうものかという質問があった。私は、アルコーヴではないかと答えた。これは、壁の中に等身大の凹みを作って、そこに寝そべるのである。ブリティッシュ・コロンビア大学の学生会館のラウンジには、いくつかのアルコーヴを作ってあって、そこには学生が必ずはいっていた。(中井久夫「精神病棟の設計に参与する」1993年)