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2020年8月19日水曜日

まぁ、無意識とはその程度のものです


無意識というのは、現在に至ってもラカン派プロパでさえ誤解を招くようなことを言ってしまっているので、50年前の三島由紀夫が「無意識は絶対おれにはない」と対談程度の場で言ってしまうのは止むえないわ、というかゼンゼン問題はないわ。それを今になってもマジとりしている横尾忠則みたいな人がいるらしいけど、彼も「芸術家」だからしょうがないわ、なんたって「まぁ、世界とはその程度のものです」(蓮實)よ。

自閉症者には無意識がなく、その結果、一般的な自我を持つことができません。(向井雅明「自閉症について」2016年)

向井さんってのはラカン派プロパどころか、日本ラカン派の大御所のひとりだけれど、これは自閉症者は一般的な自我がないということを強調したくて口が滑ったのかもしれないけど、いかにもmisleadingな発言。

自閉症とは正統的ラカン派観点では、無意識がないどころか原無意識の症状のこと。

以下、ジャック=アラン・ミレールを引用してそれを確認しよう。


自閉症は主体の故郷の地位にある。l'autisme était le statut natif du sujet。そして「主体」という語は括弧で囲まれなければならない、疑いもなく「言存在parlêtre」という語の場に道を譲るために。 (J.-A. MILLER, - Le-tout-dernier-Lacan – 07/03/2007)
ラカンは “Joyce le Symptôme”(1975)で、フロイトの「無意識」という語を、「言存在 parlêtre」に置き換える remplacera le mot freudien de l'inconscient, le parlêtre。…

言存在 parlêtre の分析は、フロイトの意味における無意識の分析とは、もはや全く異なる。言語のように構造化されている無意識とさえ異なる。 analyser le parlêtre, ce n'est plus exactement la même chose que d'analyser l'inconscient au sens de Freud, ni même l'inconscient structuré comme un langage。…

言存在のサントーム le sinthome d'un parlêtre は、《身体の出来事 un événement de corps》(AE569)・享楽の出現 une émergence de jouissanceである 。さらに、問題となっている身体は、あなたの身体であるとは言っていない。あなたは《他の身体の症状 le symptôme d'un autre corps》、《ひとりの女 une femme》でありうる。(J.-A. MILLER, L'inconscient et le corps parlant、2014)


上に「身体の出来事」とか「ひとりの女」とかあるけれど、これは現実界的な異者としての身体の症状ということで、つまりは人間の原症状のこと。それは「自己に組み込まれないリアルな身体」で比較的詳しく示したところ



原抑圧と同時に固着が行われ、暗闇に異者(異物)が蔓延る。Urverdrängung[…] Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; […]wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen, (フロイト『抑圧』1915年)

ーーこの時期のフロイトにエス概念はないけれど、暗闇とは明らかにエスのことであり、これがラカンの現実界。


自我にとって、エスの欲動蠢動 Triebregung des Esは、いわば治外法権 Exterritorialität にある。…われわれはこのエスの欲動蠢動を、異物(異者としての身体)ーーたえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen ーーと呼んでいる。…異物とは内界にある自我の異郷部分 ichfremde Stück der Innenweltである。(フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)

ひとりの女の話に戻れば、ラカンはひとりの女はサントーム、ひとりの女は他の身体の症状とする以外にひとりの女は異者とも言っている。

ひとりの女は異者である。 une femme […] c'est une étrangeté.  (Lacan, S25, 11  Avril  1978)
われわれにとっての異者としての身体 un corps qui nous est étranger(ラカン, S23, 11 Mai 1976)


要するに異者としての身体の症状とは原症状としてのサントームのことであり、これこそ無意識のエスの反復強迫症状のこと。

サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps (MILLER, L'Être et l'Un, 30/3/2011)

反復的享楽 、これを中毒の享楽と言い得るが、厳密に、ラカンがサントーム と呼んだものは、中毒の水準にある。この反復的享楽は「1のシニフィアン le signifiant Un」・S1とのみ関係がある。その意味は、知を代表象するS2とは関係がないということだ。この反復的享楽は知の外部にある。それはただ、S2なきS1[S1 sans S2](=フロイトの固着)を通した身体の自動享楽に他ならない。 La jouissance répétitive, la jouissance qu'on dit de l'addiction - et précisément, ce que Lacan appelle le sinthome est au niveau de l'addiction -, cette jouissance répétitive n'a de rapport qu'avec le signifiant Un, avec le S1. Ça veut dire qu'elle n'a pas de rapport avec le S2, qui représente le savoir. Cette jouissance répétitive est hors-savoir, elle n'est qu'auto-jouissance du corps par le biais du S1 sans S2(ce que Freud appelait Fixierung, la fixation) (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 23/03/2011)


このサントームの身体の享楽をラカン派では自閉症的享楽と呼ぶ。

サントームの身体、肉の身体、存在論的身体はつねに自閉症的享楽に回帰する。
Le corps du sinthome, le corps de chair, le corps existentiel, renvoie toujours à une jouissance autiste.(ピエール=ジル・ゲガーンPierre-Gilles Guéguen, Au-delà du narcissisme, le corps de chair est hors sens, 2016)

この自閉症の捉え方は、自閉症概念創出者ブロイアー 起源にあり、現在のDSMの定義とはたぶんかなり異なる。

自閉症 Autismus はフロイトが自体性愛 Autoerotismus と呼ぶものとほとんど同じものである。Autismus ist ungefähr das gleiche, was Freud Autoerotismus nennt. (オイゲン・ブロイラー『早発性痴呆または精神分裂病群 Dementia praecox oder Gruppe der Schizophrenien』1911年)

そしてこの自閉症=自体性愛が、ラカンの本来の享楽のこと。

ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance。より正確に言えばーー私は今年、強調したいがーー、享楽とは、フロイト(フロイディズムfreudisme)において自体性愛auto-érotisme と伝統的に呼ばれるもののことである。…ラカンはこの自体性愛的性質 caractère auto-érotique を、全き厳密さにおいて、欲動概念自体 pulsion elle-mêmeに拡張した。ラカンの定義においては、欲動は自体性愛的である la pulsion est auto-érotique。(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)
サントームという本来の享楽 la jouissance propre du sinthome (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse, 17 décembre 2008)


そもそもフロイトにも二種類の無意識がしっかりとある。この把握自体、日本フロイト派はいまだもってほとんど全滅にみえる。そもそも彼らは原抑圧や固着という語彙さえまともに前面に出すことをしていない。だがこの原抑圧=欲動の固着(リビドーの固着)こそ理論的にはフロイトの核。フロイトは治癒不能の「欲動の根Triebwurzel」とも呼んでいる。要するに臨床的には原抑圧の症状には明瞭な治療法を最後まで提示していない。ラカンがフロイトの遺書と呼んだ『終わりなき分析』(1937年)で「魔女のメタサイコロジー」しかないと諦めてフロイトは死んでいった。ラカン的対応はこの治癒不能の原症状と同一化しそこから距離を取るための別の症状を構築するというもので、これがサントームの臨床である。あるいは2010年代に入って、ラカンがジョイスに関わってさらりと言った脚立escabeauの臨床(原症状の昇華)などという話もあるが、結局、言語外=トラウマ的な原症状を宥めすかすという範囲を出ず、相手はトラウマであり当然のことながら、決定的な治療法では決してない。

人はみなトラウマ化されている。 …この意味はすべての人にとって穴があるということである。[tout le monde est traumatisé …ce qu'il y a pour tous ceux-là, c'est un trou.](J.-A. Miller, Vie de Lacan, 17/03/2010 )
ラカンの現実界は、フロイトがトラウマと呼んだものである。ラカンの現実界は常にトラウマ的である。ce réel de Lacan […], c'est ce que Freud a appelé le trauma. Le réel de Lacan est toujours traumatique.  (J.-A. Miller, La psychanalyse, sa place parmi les sciences, mars 2011)

穴は埋まらない。誤魔化すしかない。これが今のところのフロイト大義派(ミレール 派)の実態であり、フロイトの魔女のメタサイコロジイからそれほど大きく変わってないように見える。

固着が無意識のリアルな穴を身体に掘る[qui y creuse le trou réel de l'inconscient]。このリアルな穴は閉じられることはない。[…]要するに、無意識は治療されない。[celui qui ne se referme pas […]. En bref, de l'inconscient on ne guérit pas,](ピエール=ジル・ゲガーンPierre-Gilles Guéguen, ON NE GUÉRIT PAS DE L'INCONSCIENT, 2015)


話が逸脱したが、二種類の無意識の話をしていた。ポール・バーハウの簡潔明瞭な文にて示そう。

フロイトは、「システム無意識 System Ubw あるいは原抑圧 Urverdrängung」と「力動的無意識 Dynamik Ubw あるいは抑圧された無意識 verdrängtes Unbewußt」を区別した(『無意識』1915年)。

システム無意識 System Ubw は、欲動の核の身体の上への刻印(リビドー固着Libidofixierungen)であり、欲動衝迫の形式における要求過程化である。ラカン的観点からは、原初の過程化の失敗の徴、すなわち最終的象徴化の失敗である。
他方、力動的無意識 Dynamik Ubw は、「誤った結びつき eine falsche Verkniipfung」のすべてを含んでいる。すなわち、原初の欲動衝迫とそれに伴う防衛的加工を表象する二次的な試みである。言い換えれば症状である。フロイトはこれを「無意識の後裔 Abkömmling des Unbewussten」(同上、1915)と呼んだ。この「無意識の後裔」の基盤となる無意識 Unbewusstenは、システム無意識 System Ubwである。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、On Being Normal and Other Disorders A Manual for Clinical Psychodiagnostics、2004年)


この二つの無意識はラカンならたとえば次の二つの定義に相当する。

無意識は言語のように構造化されている L'inconscient est structuré comme un langage (ラカン、S11、22  Janvier  1964)
現実界、それは話す身体の神秘、無意識の神秘である Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient(ラカン、S20、15 mai 1973)


後者の無意識が、サントームの無意識、自閉症の無意識のこと。

サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)

このラカンの二種類の無意識は、エクリ程度しか読んでいない人には理解の埒外にあり、中井久夫でさえ掴んでいない。

ラカンが、無意識は言語のように(あるいは「として」comme)組織されているという時、彼は言語をもっぱら「象徴界」に属するものとして理解していたのが惜しまれる。(中井久夫「創造と癒し序説」初出1996年『アリアドネからの糸』所収)


要するにフロイトラカンには次の二種類の無意識がある(「システム無意識System Ubw」は新訳はどうだかしれないけど、旧訳では無意識体系と訳されている)。




この二項対立は、ミレール 2005の次の図に直結する。



ラカンは「欲動の現実界」としているけれど、《欲動は、心的な生 Seelenleben の上に課される身体的要求 körperlichen Anforderungen 》(フロイト『精神分析概説』死後出版1940年)であり、身体の現実界、身体の無意識と言ってもいい筈。

欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する。…この穴は原抑圧と関係がある。il y a un réel pulsionnel […] je réduis à la fonction du trou.[…]La relation de cet Urverdrängt,(ラカン, Réponse à une question de Marcel RitterStrasbourg le 26 janvier 1975

ーー要するに人間には言語による無意識と身体による無意識がある。この症状の二重構造(精神神経症と現勢神経症)をフロイトは比較的初期から分かっていたにもかかわらず(1905年の症例ドラで顕著[参照])、一般にフロイト派臨床の対象は自由連想等の言語の無意識に限定されて来た。

上の表の左項に「真理」とあるが、これだけは誤解のないよう注釈引用をしよう。

真理は本来的に嘘と同じ本質を持っている。(フロイトが『心理学草稿』1895年で指摘した)proton pseudos[πρωτoυ πσευδoς] (ヒステリー的嘘・誤った結びつけ)もまた究極の欺瞞である。嘘をつかないものは享楽、話す身体の享楽である Ce qui ne ment pas, c'est la jouissance, la ou les jouissances du corps parlant。(JACQUES-ALAIN MILLER, L'inconscient et le corps parlant, 2014)

……………

以上、要は、ツイッターやら対談やらの社交の場での気合い系の物言いってのはマジとりしないことよ。

たとえばこういうのだって、力動的無意識しか視野に入ってない気合い系発言。

千葉雅也) いまや、無意識を持っているのは「特権階級」なのかもしれない。無意識というのは余りであり、動物的にただ生き残るために生きていたら、無意識は要らない。邪魔です。(中略)
僕としては、その状況は、グローバル資本主義によって、「無意識が奪われていっている」状況なのだ、とネガティブに捉えています。(『欲望会議』2018年)