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2020年8月18日火曜日

三島の「無意識は絶対におれにはないのだ」


◼️三島由紀夫と安部公房の対談(1966年(昭和41年)、雑誌『文藝』2月号)
安部「でも、今度のきみの芝居を読んで、つくづき思ったな、ああ、これは書かされた芝居だ、書いてる芝居ではない。だからいいんだよ。つまりね、作品として自立できる作品って、全部そうだよ。」
三島「それは無意識……。」
安部「ベトナムあたりに行って、ガチャガチャ書いたものは、書いた作品だよ、あれは。」
(中略)
三島「芸術か、一つの。」
安部「君はさっき、理屈っぽく、アクションがこうあって、これを取り除いて、選んでと、いかにも意識的に書いているように言うけれども。」
三島「そういうふうに書いたんだよ。」
安部「信じないね。」
三島「書いているところを見せたかったな、それは(笑)」
安部「おれがにらんでたら、きみ、一行も書けないよ(笑) 密室でなければ書けないよ、作家は」
(中略)
三島「おれは、だけれどももう、無意識というのはなるたけ信じないようにしているのだ。」
安部「信じなくても、いるのだ。」
三島「そうか。無意識のなかに精神分析学者なり、精神病医なりが僕のなかに発見するものは、みんな僕が前から知っていると言いたいわけだな。だから無意識というものは、絶対におれにはないのだと……。」
安部「そんなバカな。」
三島「絶対にないのだから。」
安部「そんなむちゃくちゃな。」


バカねえ、三島って。
アンタの人生、無意識のエスに引きずり回された人生でしょうに。

アタシ、男に見せかけてるの疲れてきたから女に戻るわ、
男ってバカばっかり。やっぱり子宮がないせいかしら


女性はそもそも、いろんな点でお月さまに似てをり、お月さまの影響を受けてゐる。(三島由紀夫「反貞女大学」)
男と女の一等厄介なちがいは、男にとっては精神と肉体がはっきり区別して意識されているのに、女にとっては精神と肉体がどこまで行ってもまざり合っていることである。女性の最も高い精神も、最も低い精神も、いずれ肉体と不即不離の関係に立つ点で、男の精神とはっきりちがっている-三島由紀夫「不道徳教育講座」

男がものごとを考える場合について、頭と心臓をふくむ円周を想定してみる。男はその円周で、思考する。ところが、女の場合には、頭と心臓の円周の部分で考えることもあるし、子宮を中心にした円周で考えることもある。(吉行淳之介『男と女をめぐる断章』)
まったく、男というものには、女性に対してとうてい歯のたたぬ部分がある。ものの考え方に、そして、おそらく発想の根源となっている生理のぐあい自体に、女性に抵抗できぬ弱さがある。(吉行淳之介「わたくし論」)


せめて男だったらニーチェやフロイトのような子宮研究家じゃないとね

ここでついでに、わたしは女というものが何かをよく知っていると、あえて仮説的に主張してよいだろうか? この知識は、ディオニュソスがわたしに持ってきてくれた財産の一端である。ことによったら、私は、「永遠の女性 Ewig-Weiblichen」の本質に通じた最初の心理学者なのかもしれない。

女という女はわたしを愛するーーいまさらのことではない。もっとも、かたわになった女たち、子供を産む能力を失った例の「解放された女たち」は別だ。 ―― 幸いにしてわたしには、八つ裂きにされたいという気はない。完全な女は、愛する者を引き裂くのだ …… わたしは、そういう愛らしい狂女〔メナーデ Mänaden〕たちを知っている …… ああ、なんという危険な、足音をたてない、地中にかくれ住む、小さな猛獣だろう! しかも実にかわいい! ……(ニーチェ『この人を見よ』

いくらバカな男だって、ヒステリーの語源はギリシア語の子宮 στέρα (hustéra)ってことぐらいは知ってるわよね

ヒステリーは、原初の不快の経験を必ず前提とする。この不快の経験は受動性である。女性における自然な性的受動性は、ヒステリーに導かれる傾向を説明する。私が男にヒステリー を見出だすとき、そこにありあまるほどの性的受動性を立証しうる。Die Hysterie setzt notwendigerweise ein primäres Unlusterlebnis also passiver Natur voraus. Die natürliche sexuelle Passivität des Weibes erklärt die Bevorzugung desselben für die Hysterie. Wo ich Hysterie bei Männern fand, konnte ich ausgiebige sexuelle Passivität. (フロイト、フリース宛書簡 Briefe an Wilhelm Fließ, Dezember 1895)
本源的に抑圧されている要素は、常に女性的なものではないかと想定される。Die Vermutung geht dahin, daß das eigentlich verdrängte Element stets das Weibliche ist (⋯⋯)(例えば)男たちが本源的に抑圧しているのは、女性的要素であるWas die Männer eigentlich verdrängen, ist das päderastische Element(フロイト, Brief an Wilhelm Fließ, 25, mai, 1897)


男たちは子宮の声を聞いたことがないのよね
「新月→満月→旧月」の声、「創造→維持→破壊」の声、
「生→死→再生」の声を知らないのよね

20世紀後半以降の日本のあらゆる文学者・批評家よりはずっと頭のいいかも知れない三島のたぐいのバカ向けに引用列挙しとくわ
地底を貼ってるバカ虫は読むべからず。


◼️お前には聞こえぬか
いま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる。ああ、ああ、なんと吐息をもらすことか、なんと夢を見ながら笑い声を立てることか。
ーーおまえには聞こえぬか、あれがひそやかに、すさまじく、心をこめておまえに語りかけるのが? あの古い、深い、深い真夜中が語りかけるのが?
- nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen: ach! ach! wie sie seufzt! wie sie im Traume lacht!
- hörst du's nicht, wie sie heimlich, schrecklich, herzlich zu _dir_ redet, die alte tiefe tiefe Mitternacht? Oh Mensch, gieb Acht! (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」1885年)

◼️人はみな未知の制御できない力に生かされている
ゲオルク・グロデックは(『エスの本 Das Buch vom Es』1923 で)繰り返し強調している。我々が自我Ichと呼ぶものは、人生において本来受動的にふるまうものであり、未知の制御できない力によって「生かされている 」»gelebt» werden von unbekannten, unbeherrschbaren Mächtenと。…
(この力を)グロデックに用語に従ってエスEsと名付けることを提案する。
グロデック自身、たしかにニーチェの例にしたがっている。ニーチェでは、われわれの本質の中の非人間的なもの、いわば自然必然的なものについて、この文法上の非人称の表現エスEsがいつも使われている。(フロイト『自我とエス』第2章、1923年)

◼️エスの意志 Willen des Es 
自我の、エスにたいする関係は、奔馬 überlegene Kraft des Pferdesを統御する騎手に比較されうる。騎手はこれを自分の力で行なうが、自我はかくれた力で行うという相違がある。この比較をつづけると、騎手が馬から落ちたくなければ、しばしば馬の行こうとするほうに進むしかないように、自我もエスの意志 Willen des Es を、あたかもそれが自分の意志ででもあるかのように、実行にうつすことがある。(フロイト『自我とエス』1923年)

◼️力への意志 Wille zur Macht 
力への意志は、原情動形式であり、その他の情動は単にその発現形態である。Daß der Wille zur Macht die primitive Affekt-Form ist, daß alle anderen Affekte nur seine Ausgestaltungen sind: …
すべての欲動力(すべての駆り立てる力 alle treibende Kraft)は力への意志であり、それ以外にどんな身体的力、力動的力、心的力もない。Daß alle treibende Kraft Wille zur Macht ist, das es keine physische, dynamische oder psychische Kraft außerdem giebt...
「力への意志」は、一種の意志であろうか、それとも「意志」という概念と同一なものであろうか?ist "Wille zur Macht" eine Art "Wille" oder identisch mit dem Begriff "Wille"? ……
――私の命題はこうである。これまでの心理学における「意志」は、是認しがたい普遍化であるということ。そのような意志はまったく存在しないこと。 mein Satz ist: daß Wille der bisherigen Psychologie, eine ungerechtfertigte Verallgemeinerung ist, daß es diesen Willen gar nicht giebt, (ニーチェ「力への意志」遺稿 Kapitel 4, Anfang 1888)

◼️エスの力 Macht des Es
エスの力 Macht des Esは、個々の有機体的生の真の意図 eigentliche Lebensabsicht des Einzelwesensを表す。それは生得的欲求 Bedürfnisse の満足に基づいている。己を生きたままにすることsich am Leben zu erhalten 、不安の手段により危険から己を保護することsich durch die Angst vor Gefahren zu schützen、そのような目的はエスにはない。それは自我の仕事である。… 
エスの欲求によって引き起こされる緊張 Bedürfnisspannungen の背後にあると想定された力 Kräfte は、欲動 Triebeと呼ばれる。欲動は、心的な生 Seelenleben の上に課される身体的要求 körperlichen Anforderungen を表す。(フロイト『精神分析概説』第2章、死後出版1940年)
すべての欲動は実質的に、死の欲動である。 toute pulsion est virtuellement pulsion de mort(ラカン、E848、1966年)

◼️ナルシシズムの背後の死
ナルシシズムの背後には、死がある[derrière le narcissisme, il y a la mort.](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 06/04/2011)
自我の起源には死がある[aux origines du moi, il y a la mort]。…死はもちろん生物学的死ではない。厳密に自殺の死[la mort suicide]である。この理由で、ラカンは二つの形容詞を結びつけた。ナルシシズム的と自殺的[narcissique et suicidaire]である。(J.-A. Miller, DONC  - 26 janvier 1994)
自我は想像界の効果である。ナルシシズムは想像的自我の享楽である。Le moi, c'est un effet imaginaire. Le narcissisme, c'est la jouissance de cet ego imaginaire(J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse XX, Cours du 10 juin 2009)



◼️マゾヒズムと死の欲動
マゾヒズム用語が意味するのは、何よりもまず死の欲動に苛まれる主体である。リビドー はそれ自体、死の欲動である。したがってリビドーの主体は、死の欲動に苦しみ苛まれる。Le terme de masochisme veut dire que c'est d'abord le sujet qui pâtit de la pulsion de mort. La libido est comme telle pulsion de mort, et le sujet de la libido est donc celui qui en pâtit, qui en souffre. (J.-A. Miller,  LES DIVINS DÉTAILS, 3 mai 1989)
ラカンはマゾヒズム において、達成された愛の関係を享楽する健康的ヴァージョンと病理的ヴァージョンを区別した。病理的ヴァージョンの一部は、対象関係の前性器的欲動への過剰なアタッチメントを示している。それは母への固着(=母へのエロス的固着)であり、自己身体への固着でさえある。自傷行為は自己自身に向けたマゾヒズムである。Il distinguera, dans le masochisme, une version saine du masochisme dont on jouit dans une relation amoureuse épanouie, et une version pathologique, qui, elle, renvoie à un excès de fixation aux pulsions pré-génitales de la relation d'objet. Elle est fixation sur la mère, voire même fixation sur le corps propre. L'automutilation est un masochisme appliqué sur soi-même..  (Éric Laurent発言) (J.-A. Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 7 février 2001)
主体の自傷行為は、イマジネールな身体ではなくリビドーの身体による[l'auto mutilation du sujet […] le corps qui n'est pas le corps imaginaire mais le corps libidinal]( J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6   - 16/06/2004)

◼️死と母とのあいだの結びつき
死へ向かう動き[tendance à la mort]。私はそれをラカンが離乳[sevrage]を語ったときに位置付ける。死と母とのあいだの結びつき[ la liaison de la mort et de la mère]。 死の幻想のすべては自殺への性向である [Tout ce qui est fantasme de mort, appel de la mort, pente au suicide]。これは母への傾注[le versant de la mère]に位置付けられる。母のイマーゴ[l'imago de la mère ]がこの理由を提供する。どういう意味か? 母は、原喪失・乳房の喪失の場を位置を占める[la mère préside à la perte primitive, celle du sein]。主体は、享楽の喪失が起こった時には常に、異なる強度にて、母なるイマーゴを喚起する[L'imago maternelle est rappelée au sujet, avec une intensité variable, chaque fois qu'une perte de jouissance intervient.]。(J.-A. Miller, DES REPONSES DU REEL, 14 mars 1984)
三島の初期の母子関係は異様なものであった。多くの人がその異様さの一端として引用するが,『伜』 によれば,三島の授乳は4時間おきで,祖母・夏子によって管理されており,授乳時間も10分か15分と 決まっていたという(安藤,1998)。また,早くから母親と引き離され,ヒステリー持ちの祖母のカビ臭い部屋に置かれ,祖母の世話役的な育てられ方をした。近所の男の子との遊びも悪戲を覚えてはいけないとの理由で禁止され,女の子として育てられた。祖母の名を差し置いて最初に母の名を呼ぶことが祖母のヒステリーを誘発することを恐れた幼い三島は,いつも祖母の名を先に呼ぶよう気を遣っていた(平岡, 1990)。

こうした陰鬱な時間は,三島が16歳で書いた処女作『花盛りの森(1944)』の中に,「祖母は神経痛をやみ,痙攣を始終起こした。(中略)痙攣が,まる一日,ばあいによっては幾夜さもつづくと,もっ と顕著なきざしが表れてきた。それは『病気』がわがものがおに家じゅうにはびこることである」と,幼い感受性でとらえた異常さと緊張が描写されている。ここには,①母性の早期の剥奪,②性の同一性の混乱,③依存を体験する前に大人に対する気遣いや世話を身につけてしまったことなど,世代の錯綜の問題などがすでに孕まれており,三島自身が初期に拘るようになるに十分な人生のスタートであった。(井原成男「ロールシャッハ・テストプロトコルからみた 三島由紀夫の母子関係と同性愛」2015)


◼️あらゆるトラウマ的経験の根には母からの分離がある
経験された寄る辺なき状況をトラウマ的状況と呼ぶ。Heißen wir eine solche erlebte Situation von Hilflosigkeit eine traumatische; …

ある危機な状況 Gefahrsituationで不安の信号Angstsignalがある。つまり寄る辺なき状況が到来することを予感したり、現在の状況が過去に経験された寄る辺なき状況を思いださせることである。Dies will besagen: ich erwarte, daß sich eine Situation von Hilflosigkeit ergeben wird, die gegenwärtige Situation erinnert mich an eines der früher erfahrenen traumatischen Erlebnisse.…

不安は一方でトラウマの予感であり、他方でトラウマの緩和された形での反復である。Die Angst ist also einerseits Erwartung des Traumas, anderseits eine gemilderte Wiederholung desselben.(フロイト『制止、症状、不安』第11章、1926年)
人間の最初の不安体験 Angsterlebnis は出産であり、これは客観的にみると、母からの分離 Trennung von der Mutter を意味し、母の去勢 Kastration der Mutter (子供=ペニス Kind = Penis の等式により)に比較しうる。(フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年)


◼️享楽の意志
大他者の享楽の対象になることが、本来の享楽の意志である。D'être l'objet d'une jouissance de l'Autre qui est sa propre volonté de jouissance…問題となっている大他者は何か?…この常なる倒錯的享楽…見たところ(母子)二者関係に見出しうる。その関係における不安…Où est cet Autre dont il s'agit ?    […]toujours présent dans la jouissance perverse, […]situe une relation en apparence duelle. Car aussi bien cette angoisse…この不安がマゾヒストの盲目的目標なら、ーー盲目というのはマゾヒストの幻想はそれを隠蔽しているからだがーー、それにも拘らず、われわれはこれを神の不安と呼びうる。que si cette angoisse qui est la visée aveugle du masochiste, car son fantasme la lui masque, elle n'en est pas moins, réellement, ce que nous pourrions appeler l'angoisse de Dieu. (ラカン, S10, 6 Mars 1963)
女というものは神の別の名である。La femme […]est un autre nom de Dieu,(ラカン、S23、18 Novembre 1975)

フロイトの観点では、享楽の不安との関係は、ラカンが同調したように、不安の背後にあるものである。欲動は、満足を求めるという限りで、絶え間なき執拗な享楽の意志[volonté de jouissance insistant sans trêve.]としてある。

欲動強迫[insistance pulsionnelle ]が快原理と矛盾するとき、不安と呼ばれる不快ある[il y a ce déplaisir qu'on appelle angoisse.。これをラカン は一度だけ言ったが、それで十分である。ーー《不快は享楽以外の何ものでもない déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance. 》( S17, 1970)ーー、すなわち不安は現実界の信号であり、モノの索引である[l'angoisse est signal du réel et index de la Chose]。定式は《不安は現実界の信号l'angoisse est signal du réel》である。(J.-A. MILLER,  Orientation lacanienne III, 6. - 02/06/2004)
モノは母である。das Ding, qui est la mère(ラカン, S7, 16 Décembre 1959)
モノは享楽の名である。das Ding[…] est tout de même un nom de la jouissance(J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XX, 10 juin 2009)
死への道 Le chemin vers la mort…それはマゾヒズムについての言説であるdiscours sur le masochisme 。死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)

享楽の意志は欲動の名である。欲動の洗練された名である。Cette volonté de jouissance est un des noms de la pulsion, un nom sophistiqué de la pulsion. (J.-A. Miller, LES DIVINS DETAILS, 17 MAI 1989)

というわけで、エスの意志、享楽の意志は、力への意志のこと。


◼️力への意志という諸科学の女王
これまで全ての心理学は、道徳的偏見と恐怖に囚われていた。心理学は敢えて深淵に踏み込まなかったのである。生物的形態学 morphologyと力への意志 Willens zur Macht 展開の教義としての心理学を把握すること。それが私の為したことである。誰もかつてこれに近づかず、思慮外でさえあったことを。…
心理学者は…少なくとも要求せねばならない。心理学をふたたび「諸科学の女王 Herrin der Wissenschaften」として承認することを。残りの人間学は、心理学の下僕であり心理学を準備するためにある。なぜなら,心理学はいまやあらためて根本的諸問題への道だからである。(ニーチェ『善悪の彼岸』第23番、1886年)


◼️お前はエスを知っているではないか
何事がわたしに起こったのか。だれがわたしに命令するのか。--ああ、わたしの女主人Herrinが怒って、それをわたしに要求するのだ。彼女がわたしに言ったのだ。彼女の名をわたしは君たちに言ったことがあるのだろうか。
きのうの夕方ごろ、わたしの最も静かな時刻 stillste Stunde がわたしに語ったのだ。つまりこれがわたしの恐ろしい女主人meiner furchtbaren Herrinの名だ。
……そのとき、声なき声 ohne Stimme がわたしに語った。「おまえはエスを知っているではないか、ツァラトゥストラよ。しかしおまえはエスを語らない[Du weisst es, Zarathustra, aber du redest es nicht! ](ニーチェ『ツァラトゥストラ』第2部「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」1883年)


◼️永遠回帰
わたしに最も深く敵対するものを、すなわち、本能の言うに言われぬほどの卑俗さを、求めてみるならば、わたしはいつも、わが母と妹を見出す、―こんな悪辣な輩と親族であると信ずることは、わたしの神性に対する冒瀆であろう。わたしが、いまのこの瞬間にいたるまで、母と妹から受けてきた仕打ちを考えると、ぞっとしてしまう。彼女らは完璧な時限爆弾をあやつっている。それも、いつだったらわたしを血まみれにできるか、そのときを決してはずすことがないのだ―つまり、わたしの最高の瞬間を狙ってin meinen höchsten Augenblicken くるのだ…。そ のときには、毒虫に対して自己防御する余力がないからである…。生理上の連続性が、こうした 予定不調和 disharmonia praestabilita を可能ならしめている…。しかし告白するが、わたしの本来の深遠な思想である 「永遠回帰」 に対する最も深い異論とは、 つねに母と妹なのだ Aber ich bekenne, dass der tiefste Einwand gegen die »ewige Wiederkunft«, mein eigentlich abgründlicher Gedanke, immer Mutter und Schwester sind.。― (ニーチェ『この人を見よ』--妹エリザベートによる差し替え前の正式版 Friedrich Wilhelm Nietzsche: : Ecce homo - Kapitel 3 、1888年)
永遠回帰 L'Éternel Retour …回帰 le Retour は力への意志の純粋メタファー pure métaphore de la volonté de puissance以外の何ものでもない。(…)しかし力への意志 la volonté de puissanceは…至高の欲動 l'impulsion suprême のことではなかろうか?(クロソウスキー『ニーチェと悪循環』1969年)

◼️母胎回帰
不安は対象を喪った反応として現れる。…最も根源的不安(出産時の《原不安》)は母からの分離によって起こる。Die Angst erscheint so als Reaktion auf das Vermissen des Objekts, […] daß die ursprünglichste Angst (die » Urangst« der Geburt) bei der Trennung von der Mutter entstand. (フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)
出産外傷 Das Trauma der Geburt、つまり出生という行為は、一般に「母への原固着」[ »Urfixierung«an die Mutter ]が克服されないまま、「原抑圧 Urverdrängung」を受けて存続する可能性をともなう。…これが「原トラウマ Urtrauma」である。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第1章、1937年、摘要)
人には、出生とともに、放棄された子宮内生活へ戻ろうとする欲動、母胎回帰がある。Man kann mit Recht sagen, mit der Geburt ist ein Trieb entstanden, zum aufgegebenen Intrauterinleben zurückzukehren, […] eine solche Rückkehr in den Mutterleib. (フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

◼️享楽回帰
反復は享楽回帰に基づいている la répétition est fondée sur un retour de la jouissance 。…フロイトによって詳述されたものだ…享楽の喪失があるのだ il y a déperdition de jouissance。.…これがフロイトだ。…マゾヒズムmasochismeについての明示。フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse」への探求の相がある。…

享楽の対象は何か? [Objet de jouissance de qui ? ]…
大他者の享楽? 確かに!  [« jouissance de l'Autre » ? Certes !   ]

享楽の対象としてのフロイトのモノ La Chose(das Ding)…モノは漠然としたものではない La chose n'est pas ambiguë。それは、快原理の彼岸の水準 au niveau de l'Au-delà du principe du plaisirにあり、…喪われた対象 objet perdu である。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)


◼️死の彼岸の永遠の生(永遠の享楽)
何を古代ギリシア人はこれらの密儀(ディオニュソス的密儀)でもっておのれに保証したのであろうか? 永遠の生 ewige Lebenであり、生の永遠回帰 ewige Wiederkehr des Lebensである。過去において約束された未来、未来へと清められる過去である die Zukunft in der Vergangenheit verheißen und geweiht。死の彼岸の生、転変の彼岸の生への勝ちほこれる肯定である das triumphierende Ja zum Leben über Tod und Wandel hinaus。総体としてに真の生である das wahre Leben als das Gesamt。生殖を通した生 Fortleben durch die Zeugung、セクシャリティの神秘を通した durch die Mysterien der Geschlechtlichkeit 生である。
このゆえにギリシア人にとっては性的象徴は畏敬すべき象徴自体であり、全古代的敬虔心内での本来的な深遠さであった。生殖、受胎、出産のいとなみにおける一切の個々のものが、最も崇高で最も厳粛な感情を呼びおこした。密儀の教えのうちでは苦痛が神聖に語られている。すなわち、「産婦の陣痛Wehen der Gebärerin」が苦痛一般を神聖化し――、一切の生成と生長、一切の未来を保証するものが苦痛の条件となっている・・・創造の永遠の享楽ewige Lust があるためには、生への意志Wille zum Leben がおのれを永遠にみずから肯定するためには、永遠に「産婦の陣痛」もまたなければならない・・・これら一切をディオニュソスという言葉が意味する。すなわち、私は、ディオニュソス祭のそれというこのギリシア的象徴法以外に高次な象徴法を知らないのである。そのうちでは、生の最も深い本能tiefste Instinkt des Lebensが、生の未来への、生の永遠性 Ewigkeit des Lebensへの本能が、宗教的に感じとられている、――生への道そのものが、生殖が、聖なる道として感じとられている・・・(ニーチェ「私が古人に負うところのもの」4『偶像の黄昏』1888年)


………………

フロイトやラカンだけを掠め読んで精神分析の知ったかぶりをしたらダメだわ、ーー《フロイトはニーチェの後継者なのよ[ Freud, Nietzsche's heir]》(カミール・パーリア 『性のペルソナ』1990年)

ニーチェによって獲得された自己省察(内観 Introspektion)の度合いは、いまだかつて誰によっても獲得されていない。今後もおそらく誰にも再び到達され得ないだろう。Eine solche Introspektion wie bei Nietzsche wurde bei keinem Menschen vorher erreicht und dürfte wahrscheinlich auch nicht mehr erreicht werden.(フロイト、於ウィーン精神分析協会会議 Wiener Psychoanalytischen Vereinigung、1908年 )
ニーチェは、精神分析が苦労の末に辿り着いた結論に驚くほど似た予見や洞察をしばしば語っている。Nietzsche, […] dessen Ahnungen und Einsichten sich oft in der erstaunlichsten Weise mit den mühsamen Ergebnissen der Psychoanalyse decken (フロイト『自己を語る Selbstdarstellung』1925年)



おわかりかしら?


世界は女たちのものである。
つまり死に属している。
人はみな女の掌の上にいる。

Le monde appartient aux femmes.
  C'est-à-dire à la mort.
  Là-dessus, tout le monde ment.

ーーPhilippe Sollers, Femmes, 1983