「思い出の珊瑚はにわかに紫の火花を放つ」をもう少し、精神分析的観点から補足しよう。
一般記憶すなわち命題記憶などは文脈組織体という深い海に浮かぶ船、その中を泳ぐ魚にすぎないかもしれない。
ところが、外傷性記憶とは、文脈組織体の中に組み込まれない異物であるから外傷性記憶なのである。幼児型記憶もまたーー。(中井久夫「外傷性記憶とその治療―― 一つの方針」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収)
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外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)
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このように精神分析におけるトラウマに関して、異物概念(異者としての身体Fremdkörper)が、極めて重要である。
フロイトは初期から晩年に至るまで、この語を使用している。
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トラウマないしはトラウマの記憶 [das psychische Trauma, resp. die Erinnerung an dasselbe]は、異物 [Fremdkörper] ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物ーーのように作用する。(フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年)
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原抑圧と同時に固着が行われ、暗闇に異者(異物)が蔓延る。Urverdrängung[…] Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; […]wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen, (フロイト『抑圧』1915年)
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自我にとって、エスの欲動蠢動 Triebregung des Esは、いわば治外法権 Exterritorialität にある。…われわれはこのエスの欲動蠢動を、異物(異者としての身体)ーーたえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen ーーと呼んでいる。…異物とは内界にある自我の異郷部分 ichfremde Stück der Innenweltである。(フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)
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忘却されたもの Vergessene は消滅 ausgelöscht されず、ただ「抑圧 verdrängt」されるだけである。その記憶痕跡 Erinnerungsspuren は、全き新鮮さのままで現存するが、対抗備給 Gegenbesetzungenにより分離されているのである。…それは無意識的であり、意識にはアクセス不能である。抑圧されたものの或る部分は、対抗過程をすり抜け、記憶にアクセス可能なものもある。だがそうであっても、異物 Fremdkörper のように分離 isoliert されている。(フロイト『モーセと一神教』1939年)
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「神経症はトラウマの病」とまで言うフロイトにとって(一般のフロイト研究者の通念に反して)、異物概念はフロイト理論の核心用語とさえ言ってよい。
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神経症はトラウマの病と等価とみなしうる。その情動的特徴が甚だしく強烈なトラウマ的経験を取り扱えないことにより、神経症は生じる。Die Neurose wäre einer traumatischen Erkrankung gleichzusetzen und entstünde durch die Unfähigkeit, ein überstark affektbetontes Erlebnis zu erledigen. (フロイト『精神分析入門』第18講「トラウマへの固着 Die Fixierung an das Trauma」1916-17年)
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より厳密に言えば、フロイトにおいての神経症とは、現勢神経症と精神神経症の二種類があり、これはほぼ、ラカンの現実界の症状(サントーム)とこのリアルな症状に対する防衛としての象徴界の症状に相当する。
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われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧 Verdrängungen は、後期抑圧 Nachdrängen の場合である。それは早期に起こった原抑圧 Urverdrängungen を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力 anziehenden Einfluß をあたえるのである。(フロイト『制止、症状、不安』第2章、1926年)
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原抑圧 Verdrängungen は現勢神経症 Aktualneurose の原因として現れ、抑圧Verdrängungenは精神神経症 Psychoneurose に特徴的である。(…)現勢神経症 Aktualneurosen の基礎のうえに、精神神経症 Psychoneurosen が発達する。(フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)
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ラカンのサントームとは何よりもまずこの原抑圧の症状である。
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四番目の用語(Σ:サントームsinthome)にはどんな根源的還元もない Il n'y a aucune réduction radicale、それは分析自体においてさえである。というのは、フロイトが…どんな方法でかは知られていないが…言い得たから。すなわち原抑圧 Urverdrängung があると。決して取り消せない抑圧である。…そして私が目指すこの穴trou、それを原抑圧自体のなかに認知する。(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)
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そしてラカンにおける穴とはトラウマのことである。
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現実界は…穴=トラウマを為す。le Réel […] ça fait « troumatisme ».(ラカン、S21、19 Février 1974)
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人はみなトラウマ化されている。…この意味は、すべての人にとって穴があるということである[tout le monde est traumatisé …ce qu'il y a pour tous ceux-là, c'est un trou. ](J.-A. Miller, Vie de Lacan, 17/03/2010 )
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ラカンの現実界は、フロイトがトラウマと呼んだものである。ラカンの現実界は常にトラウマ的である。それは言説のなかの穴である。ce réel de Lacan […], c'est ce que Freud a appelé le trauma. Le réel de Lacan est toujours traumatique. C'est un trou dans le discours. (J.-A. Miller, La psychanalyse, sa place parmi les sciences, mars 2011)
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この意味で、すべての症状の底部にあるリアルな症状とは「異者としての身体の症状」である。
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フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ。La Chose freudienne […] ce que j'appelle le Réel (ラカン, S23, 13 Avril 1976)
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モノの概念、それは異者としてのモノである。La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger, (Lacan, S7, 09 Décembre 1959)
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異者としての身体…問題となっている対象aは、まったき異者である。corps étranger,[…] le (a) dont il s'agit,[…] absolument étranger (Lacan, S10, 30 Janvier 1963)
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異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なもの(=トラウマへの固着による無意識のエスの反復強迫:引用者)である。…étrange au sens proprement freudien : unheimlich (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)
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われわれにとっての異者としての身体 un corps qui nous est étranger(ラカン, S23, 11 Mai 1976)
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現実界のなかの異物概念は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある。une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance (J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6 -16/06/2004)
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中井久夫から始めたので、最後に中井久夫に戻ろう。
私たちは成人文法性成立以前の記憶には直接触れることができない。本人にとっても、成人文法性以前の自己史はその後の伝聞や状況証拠によって再構成されたものである。それは個人の「考古学」によって探索される「個人的先史時代」である。縄文時代の人間の生活や感情と同じく、あて推量するしかない。これに対して成人文法性成立以後は個人の「歴史時代」である。過去の自己像に私たちは感情移入することができる。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーー 一つの方針」初出2003年『徴候・記憶・外傷』所収)
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二歳半から三歳半のあいだにさまざまな点で大きな飛躍があるとされている。フロイトのいうエディプス・コンプレックスの時期である。これは、対象関係論者によって「三者関係」を理解できる能力が顕在化する時期であると一般化された。それ以前は二者関係しか理解できないというのである。これは、ラカンのいう「父の名」のお出ましになる時期ということにもなるだろう。それ以前は「想像界」、それ以後は「象徴界」ということになるらしいが、ラカンの理論については自信のあることはいえない。…
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この大きな変化期にお問いて、もっとも重要なのは、そのころから記憶が現在までの連続感覚を獲得することではなかろうか。なぜか、私たちは、その後も実に多くのことを忘れているのに、現在まで記憶が連続しているという実感を抱いている。いわば三歳以後は「歴史時代」であり、それ以前は「先史時代」であって「考古学」の対象である。歴史と同じく多くの記憶が失われていて連続感は虚妄ともいいうるのに、確実に連続感覚が存在するのはどこから来るのであろうか。それは、ほとんど問題にされていないが、記憶にかんして基本的に重要な問題ではなかろうか。(中井久夫「発達的記憶論」2002年『徴候・記憶・外傷』所収)
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ーー《それ以前は「想像界」、それ以後は「象徴界」ということになるらしい》とは厳密にはーー後期ラカン観点からはーーやや問題があるが、それ以外は中井久夫の言う通りである。後期ラカンにおいてはボロメオの環の想像界と現実界の境界が最も重要であり、それ以外の想像界は象徴界によって構造化されている。
いまだ多くのフロイト研究者や臨床家がわたくしにはひどく奇妙に見えるのは、ほとんどの場合、成人文法以降の「精神神経症」ーーエディプス的な抑圧の症状ーーのみを対象にし、「現勢神経症」、つまり原抑圧の症状・異者としての身体の症状を前面に出して思考したり臨床対応していないことである。上にあるように言語外の「考古学の対象」なので困難な仕事であるのはよくわかる。だがリアルな症状は異者としての身体にしかない。他方、父の名の症状とは言語の症状である、ーー《父の名の真の本質は言語である。c'est que le langage comme tel a l'effet du Nom-du-père》(J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme, 14/1/98) 。身体、イマジネールな身体ではなく「リアルな身体=異者としての身体」(リビドーの身体)に対する抑圧・防衛が父の名の症状である。いつまでもこの症状にしか機能しない、寝椅子にての「自由連想」ばかりをやっていてはダメなのである。
そもそも現在の先端ラカン派においては、フロイト流「徹底操作 durcharbeiten」、つまり古典的ラカン流「幻想の横断 traversée du fantasme」は臨床手法として否定されつつある[参照]。これはサントームの臨床として、ラカンマテームでは「S1-S2」の旧来の言語的意味に関わる臨床から「S1-a」の臨床という形で語られるが、この「a」が異者としての身体である。《対象aは意味の問いに対して完全に異者である。l'objet(a) est tout à fait étranger à la question du sens》. (Lacan, S19, 06 Janvier 1972 ) |
いずれにせよ、精神分析学では、成人言語が通用する世界はエディプス期以後の世界とされる。
この境界が精神分析学において重要視されるのはそれ以前の世界に退行した患者が難問だからである。今、エディプス期以後の精神分析学には誤謬はあっても秘密はない。(中井久夫「詩を訳すまで」初出1996『アリアドネからの糸』所収)
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