このブログを検索

2020年8月17日月曜日

思い出の珊瑚はにわかに紫の火花を放つ


『記憶障害』Japanese Journal of Cognitive Neuroscience 2011 年 13 巻 1 号(長田 乾, 小松 広美, 渡邊 真由美)という論文PDF には、種々の図表が掲げられているが、そのうちの一つに次のものがある。




中井久夫は『発達的記憶論』(2002年)にて《神経学者は、おおまかに、次のように記憶を分類しているようだ》として次のように示している。





これは神経科学者のあいだの区分としてはコモンセンスなのだろう。最近の英論文をいくつか覗いてみたが同様である。そして、この区分に異議を表明しているのが中井久夫である。

私の試みは外傷性記憶を記憶全体の中に位置づけようとすることである。(…)

神経学者は記憶を短期記憶と長期記憶とにわけ、長期記憶を一般記憶とエピソード記憶(私は「個人的記憶」でよいと思う)と手続き記憶とにわける。ここにはフラッシュバック的記憶は座がない。一般に記憶の研究は「忘却」や「欠損」すなわち老人性健忘と脳障害と関連してなされてきたからであろう。外傷性記憶の場合には「忘れようとしても忘れられない」記憶が問題である。(中井久夫「外傷性記憶とその治療――一つの方針」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収)

記憶全体を捉える上には、当然の異議だろう。精神分析的観点からだけでなく、文学的あるいは哲学的・思想的にも神経科学者の記憶分類には欠陥がある。

先に引用した「発達的記憶論ーー外傷性記憶の位置づけを考えつつ」初出2002年(『徴候・記憶・外傷』所収)のはセフェリスの詩がエピグラフに掲げられている。

海の神秘は浜で忘れられ、
深みの暗さは泡の中で忘れられる。
だが、思い出の珊瑚はにわかに紫の火花を放つ。

ーーヨルゴス・セフェリス(中井久夫訳)

外傷性のフラッシュバック記憶についてはこうある。

フラッシュバック的記憶となれば、記憶の専門書においても、たかだか「静止画像のような記憶」として数行を割いてきたのが普通である。私はこれを「光景記憶」と命名しておく。また私はもう一つ「一瞥」型記憶を提案する。これは一瞬目の前をよぎる映像から「部分から全体へ、暖味画像の意味明確化へ」というロールシャッハ的過程によって完成される記憶で、これを言っておくのは、外傷的事件の証言の不確かさを証明する、たとえばロフタス夫妻らの仕事は私たちの問題に関係するからであるが、これは記銘の問題が大きく、本論文では触れないことにする。(中井久夫「外傷性記憶とその治療――一つの方針」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収)

少し前、ボノボやチンパンジーについて調べたとき、彼らの記憶はどう捉えられているのかとネット上をいくらか探ってみたが、やれ動物の記憶は短期記憶しかないとか、いやチンパンジー等には長期記憶があるとかの議論があるようだが、この議論は外傷性記憶概念を導入すれば解決する。外傷性記憶とはフロイトやラカンにおいては「身体の上への刻印」の記憶であり、この「身体の記憶」という言語記憶よりはるかに長期の記憶が動物にないわけがないのである。たとえば犬における飼い主のにおいの記憶を少しだけでも考えてみたらよい。中井久夫は意味ではなく音調として記憶する単語の記憶自体(ラカンのララングの審級にある)、外傷性記憶ではないかと言っている、《単語の記憶というものがf記憶的(フラシュバック記憶的)なのであろう。》(中井久夫「記憶について」1996年

他にもたとえばプルーストのレミニサンスは身体の記憶の回帰である。

彼らが私の注意をひきつけようとする美をまえにして私はひややかであり、とらえどころのないレミニサンス réminiscences confuses にふけっていた…戸口を吹きぬけるすきま風の匂を陶酔するように嗅いで立ちどまったりした。「あなたはすきま風がお好きなようですね」と彼らは私にいった。(プルースト「ソドムとゴモラⅡ」)

これは極めて現実的な(リアルな)書 livre extrêmement réel だが、 「無意志的記憶 mémoire involontaire」を模倣するために、…いわば、恩寵 grâce により、「レミニサンスの花柄 pédoncule de réminiscences」により支えられている。 (Comment parut Du côté de chez Swann. Lettre de M.Proust à René Blum de février 1913)
私の身体は、歴史がかたちづくった私の幼児期である mon corps, c'est mon enfance, telle que l'histoire l'a faite。…匂いや疲れ、人声の響き、競争、光線など des odeurs, des fatigues, des sons de voix, des courses, des lumières、…失われた時の記憶 le souvenir du temps perdu を作り出すという以外に意味のないもの…(幼児期の国を読むとは)身体と記憶 le corps et la mémoireによって、身体の記憶 la mémoire du corpsによって、知覚することだ。(ロラン・バルト「南西部の光 LA LUMIÈRE DU SUD-OUEST」1977年)

PTSDに定義されている外傷性記憶……それは必ずしもマイナスの記憶とは限らない。非常に激しい心の動きを伴う記憶は、喜ばしいものであっても f 記憶(フラッシュバック的記憶)の型をとると私は思う。しかし「外傷性記憶」の意味を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」の意味にとれば外傷的といってよいかもしれない。(中井久夫「記憶について」1996年)

…………

ここでは外傷性記憶についてはこれ以上触れずに、短期記憶・長期記憶の定義をめぐっている箇所を引用しておく。

短期記憶とは、電話をかけている間、電話番号を覚えているといった記憶である。長期記憶とは、長期にわたる記憶である。前者はメモ帳のようなものでRNA合成を必要としないということである。 つくりつけの仕掛けがあるらしい。後者にはRNA合成が必要であるということだから、RNAか蛋白か、とにかく記憶のために細胞の中に何か新しいものができているのであろう。短期記憶は、情動を伴ったり、あるいは繰り返しているうちに、長期記憶に繰り込まれることがある。ただし、すべての記憶はまず短期記憶となってから長期記憶に移行するものかどうか。

免疫も広義の記憶である。免疫の記憶については利根川進以来、分子生物学的に長足の進歩がみられて、大筋は分かっている。脳の記憶も、おそらく似た機構であろうかと思われる。いずれ明らかにされるであろう。神経学的・脳科学的なことはそのほうの専門家にゆだねて、私のこれから述べようとするのは、臨床体験から出発し、発達論的立場を加えて、伝統的記憶の図式に修正を加えつつ、外傷性記憶の位置づけを試み、合わせて、無意識を考えに入れつつ、記憶の生涯にわたる変化を老年に至るまで縦断的に考察しようとするものである。

長期記憶は、長らく一般記憶に重点を置いて考察されてきた。そこに記憶論の一つの偏りがあると思う。この偏りは今日まであまり訂正されていないのではないかと危惧する。

一般記憶が重視されてきたのは、それがテストに乗りやすいからである。たとえば「長谷川式」テストは、短期記憶とともに主として一般記憶を調べるものである。

一般記憶とは、「九九表」であるとか「モナリザはレオナルド・ダ・ヴィンチが描いた」とかである。「誕生日」や「今日は何日」かも一般記憶に数えられる。それは他者と共有する記憶である。日常の社会生活に必要な記憶である。

エピソード記憶ということばは、長く使われているが、不正確なのでいろいろ言い換えられている。核心は、自己による自己の生活史の記憶である。正確にいえば「自己体験にもとづく自己を原点とするパースペクティヴという観点からの記憶」である。「私的記憶」と呼んでもよいであろう。言語によって他者に語ることはできても、他者と共有できない記憶である。つまり「兎追ひしかの山、小鮒釣りしかの川、夢は今もめぐりて忘れがたきふるさと」の世界である。相手の意識の中に入り込んで相手の意識を原点として体験を共有できないからには、これは当然である。

手続き記憶とは「頭と手で覚える記憶」である。鉛筆の削り方から始まって、テニスなどのスポーツ、手芸、道具の使用法などであって、スキルの世界である。これも、比較的最近に光が当てられた記憶形式である。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)