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2020年8月6日木曜日

ラカンはコモノ

ラカンはフロイトに比べれば、ずっとコモノだよ。

ラカンはフロイトを批判している箇所(主にエディプスコンプレクス)はあるが、人間のメタ心理学的原理としては、たとえそれが曖昧な形ではあれ、フロイトがほとんど思考し切ったのでありーーもっとも最後まで「父」に囚われていた欠陥はあり、この点ではラカンのブレイクスルーがあるが、ラカン自身、臨床的には、フロイトの「イマジネールな父」から「象徴的な父の機能」を前面に出しただけだーー、フロイトによってタネは十全に撒かれている。あとはそれをどうやって育てるかだけだ、ここでは敢えてそう言っておくよ、フロイトがほとんど読まれていないこの21世紀への挑発として

ラカン自身、基本的には死ぬまで「精神分析の父」フロイトを解釈し続け、綿密に読むことによりフロイトが撒いたタネを成長させたのである。何か新しい相を提示する折には、最晩年に至るまで、いや晩年になればなるほどフロイトに依拠しつつそれを示している。たとえば「人はみな妄想する」やら「人はみな倒錯」やら(参照)。




これらの最晩年のラカンの言葉や現代ラカン派による概念群は、すべて現実界という死の欲動あるいはトラウマの穴とそれに対する防衛(穴埋め)にかかわり、表現の仕方こそ異なれフロイトに既にある。たとえばフロイトが《すべての症状形成は、不安を避けるためのものである alle Symptombildung nur unternommen werden, um der Angst zu entgehen。》(『制止、不安、症状』第9章、1926年)というときの「不安」は、ラカンの現実界=トラウマのことである。

死の欲動は現実界である。不可能としてしか考えれないという限りで。つまりはチラリと鼻先を覗かせるだけであり、思考しえないものである。この不可能と取り組むことは何の希望も構成しない。不可能なものが死であり、この思考しえない死が現実界の基礎である。La pulsion de mort c'est le Réel en tant qu'il ne peut être pensé que comme impossible, c'est-à-dire que chaque fois qu'il montre le bout de son nez, il est impensable.   Aborder à cet impossible ne saurait constituer un espoir. Puisque cet impensable c'est la mort, dont c'est  le fondement de Réel qu'elle ne puisse être pensée. (Lacan, S23, 16 Mars 1976)
ラカンの現実界は、フロイトがトラウマと呼んだものである。ラカンの現実界は常にトラウマ的である。それは言説のなかの穴である。ce réel de Lacan […], c'est ce que Freud a appelé le trauma. Le réel de Lacan est toujours traumatique. C'est un trou dans le discours.  (J.-A. Miller, La psychanalyse, sa place parmi les sciences, mars 2011ーー「後期ラカンの現実界の定義(簡潔版)」)


前回示した通り、現在の主流ラカン派は、結局、フロイトの「原抑圧=固着」に戻って臨床のあり方を議論している。あるいは固着によってエスに置き残される異物(異者としての身体)に対していかに防衛するかが核心となっている。フロイトとラカンを並び称するのは、もはや無知な連中だけだ。父の名が曲がりなりにもいまだ存在したフロイトの時代と、父の名の失墜後の時代における臨床対応という点で、ラカンの言っていることのほうが役立つという面はもちろんあるだろうがね。それにフロイトを形式化あるいは構造化したという意味では、ラカンのほうがずっと使いやすいということもあるには違いないけど。

……

前回示した図に「異物」を付け加えればこうなる。




以下、固着と異物に絞って簡潔な引用を列挙する。いまだあまりにもこういった相が知られていないのではないか。

エスの欲動要求がある。
エスの欲求によって引き起こされる緊張の背後にあると想定された力は、欲動と呼ばれる。欲動は、心的な生の上に課される身体的要求を表す[Die Kräfte, die wir hinter den Bedürfnisspannungen des Es anneh-men, heissen wir Triebe. Sie repräsentieren die körperlichen Anfor-derungen an das Seelenleben]。 (フロイト『精神分析概説』第2章草稿、死後出版1940年)

欲動の固着があり、異者(異物)がエスに居残る。
原抑圧と同時に固着が行われ、暗闇に異者が蔓延る。Urverdrängung[…] Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; […]wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen, (フロイト『抑圧』1915年)
翻訳の失敗、これが臨床的に「(原)抑圧」と呼ばれるものである。Die Versagung der Übersetzung, das ist das, was klinisch <Verdrängung> heisst.(フロイト、フリース書簡 Freud in einem Brief an Fließ  6,12, 1896)
自我はエスから発達している。エスの内容の或る部分は、自我に取り入れられ、前意識状態に格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳に影響されず、原無意識としてエスのなかに置き残されたままである[das Ich aus dem Es entwickelt. Dann wird ein Teil der Inhalte des Es vom Ich aufgenommen und auf den vorbewußten Zustand gehoben, ein anderer Teil wird von dieser Übersetzung nicht betroffen und bleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück] 。(フロイト『モーセと一神教』第2章E、1939年)

ーー固着(=欲動の固着・リビドーの固着・享楽の固着)とは具体的には、幼児の最初の世話役(母親役の人物)による身体の上への刻印である。

エスに居残った異物が不気味な反復強迫を生む。
自我にとって、エスの欲動蠢動 Triebregung des Esは、いわば治外法権 Exterritorialität にある。…われわれはこのエスの欲動蠢動を、異物ーーたえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen ーーと呼んでいる。(フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年)
心的無意識のうちには、欲動蠢動 Triebregungen から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。この内的反復強迫 inneren Wiederholungszwang を想起させるあらゆるものこそ、不気味なもの unheimlich として感知される。(フロイト『不気味なもの』1919年)





【ラカンおよびミレール注釈】
◼️異者(異者としての身体)
異者は、残存物、小さな残滓である。L'étrange, c'est que FREUD[…] c'est-à-dire le déchet, le petit reste,    (Lacan, S10, 23 Janvier 1963)
異者としての身体…問題となっている対象aは、まったき異者である。corps étranger,[…] le (a) dont il s'agit,[…] absolument étranger (Lacan, S10, 30 Janvier 1963)
享楽は、残滓 (а)  を通している。la jouissance[…]par ce reste : (а)  (ラカン, S10, 13 Mars 1963)
異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである。…étrange au sens proprement freudien : unheimlich (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)
現実界のなかの異物概念は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある。une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance (J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004)

◼️モノ=異物
フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ。La Chose freudienne […] ce que j'appelle le Réel (ラカン, S23, 13 Avril 1976)
モノの概念、それは異者としてのモノである。La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger, (Lacan, S7, 09  Décembre  1959)
(心的装置に)同化不能の部分(モノ)einen unassimilierbaren Teil (das Ding)(フロイト『心理学草案 Entwurf einer Psychologie』1895)
現実界は、同化不能 inassimilable の形式、トラウマの形式 la forme du trauma にて現れる。(ラカン、S11、12 Février 1964)
フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマ réel trauma である。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(ミレール 、J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,- 2/2/2011 )
トラウマないしはトラウマの記憶 [das psychische Trauma, resp. die Erinnerung an dasselbe]は、異物 [Fremdkörper] ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物ーーのように作用する。(フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年)

◼️モノ=異者=享楽=エス
モノを 、フロイトは異者とも呼んだ。das Ding[…] ce que Freud appelle Fremde – étranger. (J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 26/04/2006)
モノは享楽の名である。das Ding[…] est tout de même un nom de la jouissance(J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XX, 10 juin 2009)
フロイトのモノ、これが後にラカンにとって享楽となる[das Ding –, qui sera plus tard pour lui la jouissance]。…フロイトのエス、欲動の無意識。事実上、この享楽がモノである。[ça freudien, l'inconscient de la pulsion. En fait, cette jouissance, la Chose](J.A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse X, 4 mars 2009)


ーーもういくらか詳しくは「サントームは固着」「異者文献」を見よ。