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2020年8月7日金曜日

フーコードゥルーズ デリダはコモノ


ラカンがコモノだというのは、仏現代思想家連中だってコモノだというのと相同的な意味だよ。

たとえば日本では殆ど読まれていないが一部では評判が高いガリー・ガッティングGary Guttingの『Thinking the Impossible: French Philosophy Since 1960』の第5章は「How They All Are Nietzscheans」となっている。

そこに記されているのは、フーコードゥルーズ デリダは結局みなニーチェアンだということだ。これはそう指摘されてみれば、誰もが頷かざるをえない筈。この三人は、ニーチェが撒いたタネを発展させたとはいえ、まったく十分でないという意味で、どうしたってフーコードゥルーズ デリダはコモノだ。《鋭利ながら細身にすぎる剣をもってする二十世紀知性》(中井久夫)が、19世紀的知の巨人と闘ったにすぎない。21世紀はさらにコモノ化してチョロチョロしたヤツしかいなくなったから、フーコードゥルーズ デリダ程度が手頃というだけだ。

小説だってそうだろうな、たとえばトルストイに並び称するべき20世紀の小説家なんていない。

ガリー・ガッティングが言っているのは、フーコーの系譜学、ドゥルーズの内在性(あるいは「プラトニズムの転倒」)はもとより、デリダの形而上学からの脱出の試み(あるいは「差延」)ーー、一般にはハイデガー 起源とされるが、その向こうにはニーチェがいると(もちろんこういう見解を示すとライプニッツやらスピノザやらの名を出してなんたらいう連中はいるのだろうが)、

存在という語を抹消する交叉線ーー差延[La croix – ou la différance – qui biffe le mot « être » ](デリダ「ハイデガー講義」1964-1965) 

ーーーデリダは死の年に、ニーチェの「恐ろしい女主人」の注釈をしている。

ドゥルーズ やフーコーからもひとつずつだけ引用するならこうだ。

プラトニズムの転倒は次のことを意味する。すなわち 、コピーに対するオリジナルの優位を否認すること、イマージュに対するモデルの優位を否認すること、見せかけ(シミュラークル)と反映の君臨を賛美すること。Renverser le platonisme signifie ceci : dénier le primat d'un original sur la copie, d'un modèle sur l'image. Glorigier le règne des simulacres et des reflets. (ドゥルーズ『差異と反復』1968年)
ニーチェの考えるような歴史的感覚は、自らがある視点 perspectif を持つことを知っており、自らに固有の不公正さの体系を拒否しはしない。歴史的感覚は、評価し、イエスかノーを言い、毒のあらゆる痕跡をたどり、最良の解毒剤を見つけ出そうという断固とした意図 (propos)をもって、特定の角度から眺めるのである。(フーコー「ニーチェ、系譜学、歴史 Nietzsche, la généalogie, l'histoire」、1971年)


こういった思考は、何よりもまず次のニーチェの言葉に起源があるだろうということだ。

「仮象の」世界が、唯一の世界である。「真の世界」とは、たんに嘘によって仮象の世界に付け加えられたにすぎない…Die »scheinbare« Welt ist die einzige: die »wahre Welt« ist nur hinzu-gelogen... (ニーチェ『偶像の黄昏』「哲学における「理性Vernunft」」 1888年)

わたしにとって今や「仮象」とは何であろうか! 何かある本質の対立物では決してない。Was ist mir jetzt »Schein«! Wahrlich nicht der Gegensatz irgendeines Wesens(ニーチェ『悦ばしき知』1882年)
現象 Phänomenen に立ちどまったままで「あるのはただ事実のみ es giebt nur Thatsachen」と主張する実証主義 Positivismus に反対して、私は言うであろう、否、まさしく事実なるものはなく、あるのはただ解釈のみ nein, gerade Thatsachen giebt es nicht, nur Interpretationen と。私たちはいかなる事実「自体」をも確かめることはできない。おそらく、そのようなことを欲するのは背理であろらう。……

総じて「認識 Erkenntniß」という言葉が意味をもつかぎり、世界は認識されうるものである。しかし、世界は別様にも解釈されうるのであり、それはおのれの背後にいかなる意味をももってはおらず、かえって無数の意味をもっている。---「遠近法主義 Perspektivismus」(ニーチェ『力への意志』1886/87草稿)
確信は嘘にもまして危険な真理の敵ではなかろうかとは、すでに長いこと私の考慮してきたところのことであった(『人間的、あまりに人間的』第一部483番)。このたびは私は決定的な問いを発したい、すなわち、嘘と確信Lüge und Überzeugungとのあいだには総じて一つの対立があるのであろうか? 

――全世界がそう信じている、しかし全世界の信じていないものなど何もない! ――それぞれ確信は、その歴史を、その先行形式を、その模索や失敗をもっている。長いこと確信ではなかったのちに、なおいっそう長いことほとんど確信ではなかったのちに、それは確信となる。えっ? 確信のこうした胎児形式のうちには嘘もまたあったかもしれないのではなかろうか? ――ときおり人間の交替を必要とするだけのことである。すなわち父の代にはまだ嘘であったものが、子の代にいたって確信となるのである。(ニーチェ『反キリスト者』1888年)


もっともニーチェはまったくこれだけではないし、フーコードゥルーズデリダもニーチェの力への意志(フロイトの「エスの意志」)をいくらかフォローしているが、わたくしのかれらに対する少ない知では、そのフォローの仕方がまったく十分ではない。

・・・おお、このギリシア人たち! ギリシア人たちは、生きるすべをよくわきまえていた。生きるためには、思いきって表面に、皺に、皮膚に、踏みとどまることが必要だった。仮象 Schein を崇めること、ものの形や音調や言葉を、仮象のオリュンポス全山を信ずることが、必要だったのだ! このギリシア人たちは表面的であった。深みからして! そして、わたしたちはまさにその地点へと立ち返るのではないか、--わたしたち精神の命知らず者、わたしたち現在の思想の最高かつ最危険の絶頂に攀じのぼってそこから四方を展望した者、そこから下方を見下ろした者は? まさにこの点でわたしたちはーーギリシア人ではないのか? ものの形の、音調の、言葉の崇め人ではないのか? まさにこのゆえにーー芸術家なのではないか。(ニーチェ『悦ばしき知』序文4番ーー1887年追加版)
ギリシア人において、偉大さにおける安らぎ、理想的な志操、高い単純さに驚嘆しつつ、「美しい魂」、「黄金中庸」、その他の完全性をギリシア人のうちから嗅ぎ出すということーーこうした「大いなる単純さ」から、つまりは結局のところドイツ的愚かしさから私を守ってくれたのは、私がおのれのうちにもっていた心理学者のおかげである。私は、ギリシア人の最も強い本能、力への意志を見てとり、私は彼らがこの欲動の飼い馴らされていない暴力に戦慄するのを見てとった、ーー私は、彼らのあらゆる制度が、彼らの内部にある爆発物に対してたがいに身の安全を護るための保護手段から生じたものであるのを見てとったのである。

In den Griechen »schöne Seelen«, »goldene Mitten« und andre Vollkommenheiten auszuwittern, etwa an ihnen die Ruhe in der Größe, die ideale Gesinnung, die hohe Einfalt bewundern - vor dieser »hohen Einfalt«, einer niaiserie allemande zu guter Letzt, war ich durch den Psychologen behütet, den ich in mir trug. Ich sah ihren stärksten Instinkt, den Willen zur Macht, ich sah sie zittern vor der unbändigen Gewalt dieses Triebs - ich sah alle ihre Institutionen wachsen aus Schutzmaßregeln, um sich voreinander gegen ihren inwendigen Explosivstoff sicher zu stellen. (ニーチェ『偶像の黄昏』「私が古人に負うところのもの」1888年)


結局、ニーチェはわれわれの仮象としての生は、すべて力への意志としての「エスの身体」に対する防衛だと言ってはいないだろうかね。

君はおのれを「我 」と呼んで、このことばを誇りとする。しかし、より偉大なものは、君が信じようとしないものーーすなわち君の肉体と、その肉体のもつ大いなる理性なのだ。それは「我」を唱えはしない、「我」を行なうのである。"Ich" sagst du und bist stolz auf diess Wort. Aber das Grössere ist, woran du nicht glauben willst, - dein Leib und seine grosse Vernunft: die sagt nicht Ich, aber thut Ich. (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第1部「肉体の軽侮者Von den Verächtern des Leibes」 1883年)
言語のうえだけの「理性」、おお、なんたる年老いた誤魔化しの女であることか! 私は怖れる、私たちが神を捨てきれないのは、私たちがまだ文法を信じているからであるということを・・・Die »Vernunft« in der Sprache: o was für eine alte betrügerische Weibsperson! Ich fürchte, wir werden Gott nicht los, weil wir noch an die Grammatik glauben...(ニーチェ「哲学における「理性」Die »Vernunft« in der Philosophie」『偶像の黄昏』1888年)
ーーいま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる。ああ、ああ、なんと吐息をもらすことか、なんと夢を見ながら笑い声を立てることか。[- nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen: ach! ach! wie sie seufzt! wie sie im Traume lacht!]
ーーおまえには聞こえぬか、あれがひそやかに、すさまじく、心をこめておまえに語りかけるのが? あの古い、深い、深い真夜中が語りかけるのが?[- hörst du's nicht, wie sie heimlich, schrecklich, herzlich zu _dir_ redet, die alte tiefe tiefe Mitternacht? Oh Mensch, gieb Acht! ](ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」第3節、1885年)

力への意志については、➡︎現実界の意志(エスの意志)


ニーチェによって獲得された自己省察(内観 Introspektion)の度合いは、いまだかつて誰によっても獲得されていない。今後もおそらく誰にも再び到達され得ないだろう。Eine solche Introspektion wie bei Nietzsche wurde bei keinem Menschen vorher erreicht und dürfte wahrscheinlich auch nicht mehr erreicht werden.(フロイト、於ウィーン精神分析協会会議 Wiener Psychoanalytischen Vereinigung、1908年 )