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2020年8月8日土曜日

人間ハ食ツテ居レバソレデヨロシイノサ

学問ナンカスルナ馬鹿気タモンサネ骨董商ノ方ガイヽヨ僕ハ高等学校ヘ行ツテ駄弁ヲ弄シテ月給ヲモラツテ居ル夫デモ中々良教師ト独リデ思ツテル大学ノ講義モ大得意ダガワカラナイソウダ、アンナ講義ヲツヾケルノハ生徒ニ気ノ毒ダ、トイツテ生徒ニ得ノ行ク様ナコトハ教エルノガイヤダ、試験ヲシテ見ルニドウシテモ西洋人デナクテハ駄目ダヨ/ 近来昼寢病再発グーグー寢ルヨ博士ニモ教授ニモナリ度ナイ人間ハ食ツテ居レバソレデヨロシイノサ大著述モ時卜金ノ問題ダカラ出来ナケレバ出来ナイデモ構ハナイ (漱石書簡、菅虎雄宛、明治三十六年六月十四日付)

絶學無憂。唯之與阿、相去幾何。善之與惡、相去何若。人之所畏、不可不畏。荒兮其未央哉。衆人煕煕、如享太牢、如春登臺。我獨怕兮其未兆、如孾兒之未孩。儽儽兮若無所歸。衆人皆有餘、而我獨若遺。我愚人之心也哉、沌沌兮。俗人昭昭、我獨昏昏。俗人察察、我獨悶悶。澹兮其若海、飂兮若無止。衆人皆有以、而我獨頑似鄙。我獨異於人、而貴食母。(老子『道徳経』第二十章)
学問をやめることだ。そうすれば憂いはなくなる。

だいたいこの問題の答えが正しいのと間違っているので現実にどれだけの違いがでるか。文章の美と悪の間にどれだけの相違があるか。人は学識を尊敬してくれるようにみえるが、こちらも人に遠慮することが多くなる。

だいたい学問をやっても茫漠としていてはっきりしないことばかりだ。

衆人は嬉々として、豪勢な饗宴を楽しみ、春に丘の高台に登るような気分でさざめいている。私は一人つくねんとして顔を出す気にもなれない。まだ笑い方も知らない嬰児のようだ。ああ、疲れた。私の心には帰るところもないのか。

みんなは余裕があるが、私だけは貧乏だ。私は自分が愚かなことは知っていたが、つくづく自分でも嫌になった。普通の職業の人はてきぱきとしているのに、私の仕事は、どんよりとしている。彼らは明快に腕を振るうが、私の仕事は煩悶が多い。海のように広がっていく仕事は恍惚として止まるところがない。

衆人はみな有為なのに、私だけが頑迷といわれながら田舎住まいを続けている。しかし、そうはいっても、私は違う。私はここにいて小さい頃からの乳母を大事にしたいのだ。(老子『道徳経』第二十章、保立道久『現代語訳 老子』)

食ウノガ足リタラ後ハ女ヲ喰ウダケダナ