朋子は、男というものが嫌悪だった。だんだん彼女にとって、生きるための便宜になってゆくのが腹立たしいのだった。ーー上海というところがいけないのだ。上海が私をこんな私にしてしまったのだ。と、彼女は考えた。だが、それまでにしても立去りがたい魅力が上海にはあった。ーーなんだろう? と、彼女は考えた。なんだかよくわからないが、人間的な哀しい臭気がしみついて忘れられないようでもあり、徹底の魅力のようでもあった。古田は一口に、「海外だからさ。自由なんだよ。」と、片付けた。そうかもしれない、と彼女はおもった。 (森三千代「髑髏杯」)
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街の体臭も強くなった。その臭気は、性(セックス)と、生死の不安を底につきまぜた、蕩尽にまかせた欲望の、たえず亡びながら滲んでくる悩乱するような、酸っぱい人間臭であった。いつのまにか、私のからだから白い根が生えて、この土地の精神の不毛に、石畳のあいだから分け入って、だんだん身うごきが出来なくなっていくのを私はひそかに感じとっていた。上海ゴロという名が、私のみずおちのへんに、金印(やきいん)となっ てはっきりあらわれ出るのをおぼえ、私の屍体の土嚢のような重たさが日に日に加わっていて、よそには運び出せないものになってゆくのを、ひとごとのように眺めているよりほかはなかった。(金子光晴『どくろ杯』)
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この連中の青春は、成長するよりも先に、すり減ってしまった青春であった。彼らのアナルシズムは、無気力とでたらめの破滅の淵ということに尽きていた。たまたま、女をつれて駈落してきたものも、その女を手放して、まわし持ちという結果になるに決っていた。男がそうさせまいとしても、女がはやくも周囲の感化を受けて、勝手放題にうごきだす。歯止めのきかない第一の理由は、そもそも上海というところが、アナルシズムでできた町であるからだ。( 金子光晴『どくろ杯』)
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そんなに自由はいいものにちがいないのだが、それを味わうのはわずかな瞬間だった。須貝と苦労したり、小柳にぶらさがったり、ハンチンスンに囲われたり、劉の妻になったり、斎田と自滅的な共同生活をしたり、やっていることとはすべて、自由を自分でしばりつけて、狭い在留邦人の間で噂の種になって、どこまでおっこってゆくかわからない、そして、男達と別れた瞬間丈、のびのびと呼吸をするにすぎなかった。だが、すぐ、これからどうしよう、ということがあった。 (森三千代「髑髏杯」)
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日本の旅館や、商店が並んで、門口に笹を立て、かたちばかりの正月飾りをしていた。 呉服屋の店窓には、大きな押絵の羽子板がかざってあり、初春めいた駘蕩とした気分が、わずかにこの街のへんだけにながれていた。平静にはちがいがなかったが、その底に反日の気運が盛りあがって、次の歳、一九三二年は、あんまりいい年では なさそうだという予感を誰もが抱いていた。そんな浮き立たない気分が反映しているせいか、年のくれらしく活気がなく、ひっそりとしていた。遊興の巷だけが、不景気しらずな顔をしてどんちゃん騒ぎ立っているのさえ不自然な感をふかくした。 あそんで、昼前から酔っぱらっている人達の顔ぶれ、職業を点検すれば、アブノーマルな世相のうごきがよくわかった。呉淞路の大通りを、三人の紳士が肩を組み、上海の在留邦人達は、続々とあがってくる陸戦隊の行進を迎えて、熱狂した。閘北 一帯には、蔡廷楷のひきいる十九路軍の精英が集結していて、一触即発の危機が眼の前に迫っていた。( 森三千代「根なし草」)
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須貝の友人のコムミュニストやアナキストの仲間から戦争の悪をきかされて一応 納得していた朋子は、一方浪人組の小柳達から、戦争による以外日本民族の活路は ないことを説かれ、それももっともとおもうようなありさまで、正直を言うとどっちだかよくわからなかった。ただ、生活がにっちもさっちもゆかず停滞している現在、そこになにか、新しいはけくちがみつかりそうな、あてのないながらかすかな期待があった。案外、多くの人の気持も、大同小異におもわれるのであった。人垣のうしろから行軍をみながら、彼女も、心強さとときめきをおぼえないわけにはゆかなかっ た。( 森三千代「根なし草」)
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建物はどちらを眺めても、赤煉瓦の三階か四階である。アスファルトの大道には、西洋人や支那人が気忙しそうに歩いている。が、その世界的な群衆は、赤いタバアンをまきつけた印度人の巡査が相図をすると、ちゃんと馬車の路を譲ってくれる。交通整理の行き届いている事は、いくら贔屓眼に見た所が、到底東京や大阪なぞの日本の都会の及ぶ所じゃない。車屋や馬車の勇猛なのに、聊恐れをなしていた私は、こう云う晴れ晴れした景色を見ている内に、だんだん愉快な心もちになった。(芥川龍之介『上海游記』)
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問。仏蘭西租界なぞへも行ったかい?
答。あの住宅地は愉快だった。柳がもう煙っていたり、鳩がかすかに啼いていたり、桃がまだ咲いていたり、支那の民家が残っていたり、――
問。あの辺は殆西洋だね。赤瓦だの、白煉瓦だの、西洋人の家も好いじゃないか?
答。西洋人の家は大抵駄目だね。少くとも僕の見た家は、悉下等なものばかりだった。
問。君がそんな西洋嫌いとは、夢にも僕は思わなかったが、――
答。僕は西洋が嫌いなのじゃない。俗悪なものが嫌いなのだ。
(…)
問。すると君は上海の西洋には、全然興味を感じないのかい?
答。いや、大いに感じているのだ。上海は君の云う通り、兎に角一面では西洋だからね。善かれ悪かれ西洋を見るのは、面白い事に違いないじゃないか? 唯此処の西洋は本場を見ない僕の眼にも、やはり場違いのような気がするのだ。(芥川龍之介『上海游記』)
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何でもXと云う日本人があった。Xは上海に二十年住んでいた。結婚したのも上海である。子が出来たのも上海である。金がたまったのも上海である。その為かXは上海に熱烈な愛着を持っていた。たまに日本から客が来ると、何時も上海の自慢をした。建築、道路、料理、娯楽、――いずれも日本は上海に若かない。上海は西洋も同然である。日本なぞに齷齪しているより、一日も早く上海に来給え。――そう客を促しさえした。そのXが死んだ時、遺言状を出して見ると、意外な事が書いてあった。――「骨は如何なる事情ありとも、必日本に埋むべし。……」
私は或日ホテルの窓に、火のついたハヴァナを啣えながら、こんな話を想像した。Xの矛盾は笑うべきものじゃない。我々はこう云う点になると、大抵Xの仲間なのである。(芥川龍之介『上海游記』)
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今日でも上海は、漆喰と煉瓦と、赤甍の屋根とでできた、横ひろがりにひろがっただけの、なんの面白味もない街ではあるが、雑多な風俗の混淆や、世界の屑、ながれものの落ちてあつまるところとしてのやくざな魅力で衆目を寄せ、干いた赤いかさぶたのようにそれにつづいていた。かさぶたのしたの痛さや、血や、膿でぶよぶ よしている街の鋪石は、石炭殻や、赤さびにまみれ、糞便やなま痰でよごれたうえを、落日で焼かれ、なが雨で叩かれ、生きていることの酷さとつらさを、いやがうえに、人の身に沁み,こころにこたえさせる。(金子光晴『どくろ杯』)
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