引き続き金子光晴の引用(ネット上から拾ったもの)。
じぶんが苦しんで、あひての苦しみの肩代りをしたつもりでも、それは、むだなことだ。あひてがそれで助かるわけでもない。それは、男と女とは、人間であることでは平等だが、おなじものを別の感性で受けとり、おなじことばで、別のなかみを喋る。その齟齬(くひちがい)に気付かぬあひだは安泰だが、たがひの足並みが乱れ、ふたつのこころの隙間や、がたつきが気になりだしたら、それこそ百年目で、男の人生では、女の生きかたが無意味にみえるし、女の人生では、男の生きかたが非道としかおもはれない。それにしても、男にも、女にも生きるといふことは難儀なことだ。とりわけ、男にとつては潔白に、女にとつてはうつくしく生きることは。男と女がよりあつて、愛情の像を築きあげることはもつとむづかしい。 ひきはなされてゐて、たがひにもとめあふこころのなかだけで湧くきよらかな泉。 男と女とで編む日常の一目 一目が生きるといふことで, そのほかはおほむねむなしいことを、人は忘れがちだ。(略)
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淑徳や、貞操にしばられた非力な女たちの念珠を繰るやうな日々の倦さは、狡猾で、わが儘で、うぬぼれのつよい私達男のしむけた結果ではあるが (略) 愛情もまた、喰ひつ喰はれつするものだ。喰はれることで、喰つたものよりもゆたかになることもあるし、喰つたために阿修羅道に墜ちる人間もゐる。 男と女の別々なエネルギーは, 永遠に理解することのむづかしい双方の宿命から、どちらかを荒廃させる結果となることがわかつてゐればこそ、なほさら二つのいのちが牽かれあひ、一つにならうとする。 その破滅的な接触の瞬間をおいては、男と女がエゴをはなれ、肝胆を照らしあへる機会はないといふ。(略)
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いつの時代にも女の人は、そのときのはやりを身につけて、変身(メタモルフオーゼ)しながら、ほのぼのとした肌あかりで存在の中心部をうきあがらせてみせた。私達男は、一生の大部分を、女の人への関心とかかはりあひで、むなしくつかひすててきた。(略)
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敗戦後のアマゾンは、学校で、家庭で、職場で、男たちと対等にはりあふやうになりはしたが、それはただ、男たちに背丈が届くといふだけのことで、女の虚落は、埋めやうもない。むなしい故にひとしほに、あえかにうつくしい女の開花。産みおとしたいのちを、むざんに殺める男たちの専断への女のかなしい憤り。娘や、妻や、母の切れ目のない行列はどこまでもつづいて、晴れの若さでかがやく美貌が、つぎつぎに受けわたされる。それをながめては見送るだけで、しらぬまに十年、二十年が、私の一生が過ぎてしまひさうだ。(金子光晴「女の一生を詩ふ」)
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これもとってもいい、とくに《男と女とは、人間であることでは平等だが、おなじものを別の感性で受けとり、おなじことばで、別のなかみを喋る。その齟齬(くひちがい)に気付かぬあひだは安泰だが、たがひの足並みが乱れ、ふたつのこころの隙間や、がたつきが気になりだしたら、それこそ百年目で、男の人生では、女の生きかたが無意味にみえるし、女の人生では、男の生きかたが非道としかおもはれない。》なんて。
何度か引用しているクンデラ よりずっといい。
何度か引用しているクンデラ よりずっといい。
ふたりは一度も互いに理解し合ったことがなかったが、しかしいつも意見が一致した。それぞれ勝手に相手の言葉を解釈したので、ふたりのあいだには、素晴らしい調和があった。無理解に基づいた素晴らしい連帯があった。(クンデラ 『笑いと忘却の書』)
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金子光晴の「女の一生」は、究極的には「人間の一生」なんだろうけど。マグリット的に言えば、「「人間の条件 La condition humaine」( 1933)だ。
イマージュ(事物表象)自体、言語によって構造化されているわけで、あるいは「絵画は他の言葉では表現することができない言語活動だ」(バルテュス)であり、これらは言語を使用して生きている人間の宿命だな。
とはいえーー「そっくり騙されてゐたとしても」ーー、ヒト族はこの宿命を楽しむ他ないね。
部屋の内側から見える窓の前に、私は絵を置いた。その絵は、絵が覆っている風景の部分を正確に表象している。したがって絵のなかの樹木は、その背後、部屋の外側にある樹木を隠している。それは、見る者にとって、絵の内部にある部屋の内側であると同時に、現実の風景のなかの外側である。これが、我々が世界を見る仕方である。我々は己れの外側にある世界を見る。だが同時に、己れ自身のなかにある世界の表象を抱くに過ぎない。(ルネ・マグリット, “Life Lines”ーー人はみなフェティシストである)
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なんだろう、伝達の言語ゲームとは?
わたくしは言いたい、あなたは、ひとが誰かに何かを伝達できるということを、あまりにも自明なことと見なしすぎている。すなわち、われわれは会話における言語を通したコミュニケーションにあまりにも慣れすぎているから、コミュニケーションの全眼目が、わたくしのことばの意味ー-何か心的なもの-ーを他人が把握し、いわばそれを自分の精神の中へ拾い上げることのうちにあるように,われわれには思える。そのときかれがそのことによってさらに何かやり始めるとしても,それはもはや言語の直接目的の一部ではないのだ,と。
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Was ist das Sprachspiel des Mitteilens?
Ich möchte sagen: du siehst es für viel zu selbstverständlich an, daß man Einem etwas mitteilen kann. Das heißt: Wir sind so sehr an die Mitteilung durch Sprechen, im Gespräch, gewöhnt, daß es uns scheint, als läge der ganze Witz der Mitteilung darin, daß ein Andrer den Sinn meiner Worte - etwas Seelisches - auffaßt, sozusagen in seinen Geist aufnimmt. Wenn er dann auch noch etwas damit anfängt, so gehört das nicht mehr zum unmittelbaren Zweck der Sprache.(ウィトゲンシュタイン 『哲学探究 Philosophische Untersuchungen』 363節、死後出版1953年)
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とはいえーー「そっくり騙されてゐたとしても」ーー、ヒト族はこの宿命を楽しむ他ないね。
生きてゐるなんてことは、いかほど合理化してみても、むごたらしいことにかはりない。犠牲なく一日も生きることはできないのだ。僕の自叙傳はおほむね、凡庸な一人の矮人(せひくおとこ)が多くの同類のあひだに挟まつて、不意打ちな『死』の訪れるまでを、どうやつてお茶をにごし、目をふさぎ、耳をふさぎ、どうやつて真相と当面するのを避けて、じぶんたちの別な神、別な哲学、別な思想で、どん帳芝居にうつつをぬかしたかといふこととなるのだ。(金子光晴『人間の悲劇』1954年ーー
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この年になって、もっとしっかり女性器を見ておくんだった、と後悔している。目もだいぶみえなくなってきたが、女性器の細密画をできるだけ描いてから死にたい。
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ーー金子光晴、79歳 死の前年(吉行淳之介対談集『やわらかい話』より)
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