人はは忘れ得ぬ女たちに、偶然の機会に、出会う、都会で、旅先の寒村で、舞台の上で、劇場の廊下で、何かの仕事の係わりで。そのまま二度と会わぬこともあり、そのときから長いつき合いが始まって、それが終ることもあり、終らずにつづいてゆくとこもある。しかし忘れ得ないのは、あるときの、ある女の、ある表情・姿態・言葉である。それを再び見出すことはできない。
再び見出すことができるのは、絵のなかの女たちである。絵のなかでも、街のなかでと同じように、人は偶然に女たちに出会う。しかし絵のなかでは、外部で流れ去る時間が停まっている。10年前に出会った女の姿態は、今もそのまま変わらない、同じ町の、同じ美術館の、同じ部屋の壁の、同じ絵のなかで。(加藤周一『絵のなかの女たち』)
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Bertolucci, Novecento, 1976
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さすがにこの顔は美しい、ここには、内的な優美の玄関口にあたるという個所に肉体的醜悪がない、鼻翼は繊細で、完全なデッサンを描き、あたかもコンブレーのまわりの牧場の花の上にとまっている小さな蝶のようだ(プルースト「ゲルマントのほう」)
Michel Deville, Le Voyage en douce, 1980
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それらのものは、私にはなぜだかわからなかったが、充実して、ひらきかかり、それらがそとのふたにしかなっていないその中身を私にひきわたそうとしていた、という気がしたからなのであった。(プルースト「スワン家のほうへ)
Bertolucci, Il Conformista, 1970
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それらのさまざまな物のまんなかにはーーここには、田舎のレストランの花咲く壁面のばら色の夕映とか、空腹感とか、女たちへの欲望とか、ぜいたくへの快楽とががあり、かしこには、水の女精たちの肩のようにちらちらと水面に浮かびでる楽節の断片をつつみこむ朝の海の青い波の渦巻があるというふうにーーこの上もなく単純な身振や行為が、密封した千の壺 mille vases clos のなかにとじこめられたようになって残っており、その瓶の一つ一つには、絶対に他とは異なる色や匂や気温をふくむものが、いっぱいに詰っているだろう、いうまでもなく、それらの壺は、われわれが単に夢によってであれ思考によってであれ、たえず変化することをやめないで過ぎてきたその年月順に配列されているのであり、また種々さまざまな高度に位置していて、われわれにきわめて多種多様な雰囲気の感覚をあたえるというわけなのだ。むろんそういう諸変化をわれわれは知らずのうちになしとげただろう。(プルースト「見出された時」)