自我は自分の家の主人ではない Ich […] es nicht einmal Herr ist im eigenen Hause(フロイト『精神分析入門』第18講、1916-17年)
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自己の努力が精神だけに関係するときは「意志 voluntas」と呼ばれ、それが同時に精神と身体とに関係する時には「欲動 appetitus」と呼ばれる。ゆえに欲動とは人間の本質に他ならない。Hic conatus cum ad mentem solam refertur, voluntas appellatur; sed cum ad mentem et corpus simul refertur, vocatur appetitus , qui proinde nihil aliud est, quam ipsa hominis essentia(スピノザ『エチカ』第三部、定理9、1677年)
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欲動は、心的な生の上に課される身体的要求を表す。Triebe. Sie repräsentieren die körperlichen Anforderungen an das Seelenleben. (フロイト『精神分析概説』第1章、死後出版1940年)
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被分析者は、忘却されたもの Vergessenen、抑圧されたもの Verdrängtenから、何ものかを「想起するerinnern」わけではなく、むしろそれを「行為にあらわすagieren」。彼はそれを(言語的な)記憶としてではなく、行為として再現する。彼はもちろん、自分がそれを反復していることを知らずに、(行動的に)反復 wiederholen している。(フロイト『想起・反復・徹底操作 Erinnern, Wiederholen und Durcharbeiten』、1914)
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彼らはそれを知らないが、そうする Sie wissen das nicht, aber sie tun es(マルクス『資本論』第1巻、1867年)
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基本的には、あなたはそれを知らないが、そうしているってことだな。 |
私は私の身体で話している。私は知らないままでそうしている。だから私は、私が知っていること以上のことを常に言う。Je parle avec mon corps, et ceci sans le savoir. Je dis donc toujours plus que je n'en sais. (Lacan, S20. 15 Mai 1973)
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無意識の主体は身体を通して、身体に思考を導入することによって始めて魂に触れる。En fait le sujet de l'inconscient ne touche à l'âme que par le corps, d'y introduire la pensée (ラカン、Télévision, AE512, Noël 1973)
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君はおのれを「我 Ich」と呼んで、このことばを誇りとする。しかし、より偉大なものは、君が信じようとしないものーーすなわち君の肉体 Leibと、その肉体のもつ大いなる智 grosse Vernunft なのだ。それは「我」を唱えはしない、「我」を行なうのである die sagt nicht Ich, aber thut Ich。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第1部「肉体の軽侮者」1883年)
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一般的に精神科医の態度は次の如くだよ。これをふつうの人にやったらシツレイになるので大っぴらにしないだけて、関心のある人物の発言は秘かにこう読んでるはずだよ。
こう書いてあるから多分こうではないだろう
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精神科医なら、文書、聞き書きのたぐいを文字通りに読むことは少ない。極端に言えば、「こう書いてあるから多分こうではないだろう」と読むほどである。(中井久夫『治療文化論』1990年)
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精神科医は、眼前でたえず生成するテクストのようなものの中に身をおいているといってもよいであろう。
そのテクストは必ずしも言葉ではない、言葉であっても内容以上に音調である。それはフラットであるか、抑揚に富んでいるか? はずみがあるか? 繰り返しは? いつも戻ってくるところは? そして言いよどみや、にわかに雄弁になるところは? (中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」2007年)
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他者の「メタ私」は、また、それについての私の知あるいは無知は相対的なものであり、私の「メタ私」についての知あるいは無知とまったく同一のーーと私はあえていうーー水準のものである。しばしば、私の「メタ私」は、他者の「メタ私」よりもわからないのではないか。そうしてそのことがしばしば当人を生かしているのではないか。(中井久夫「世界における徴候と索引」1990年)
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でもある種の作家たちだって似たようなもの。ツイッターなんかを退屈しないで読むにはーー身ぶりはわからないが、《それはフラットであるか、抑揚に富んでいるか? はずみがあるか? 繰り返しは? いつも戻ってくるところは? そして言いよどみや、にわかに雄弁になるところは?》ってのはかなりわかるねーーこれしかないんじゃないだろうか。少なくともボクはほとんど常にそう読んでるけどね。
10年近くまえ、相手が精神科医ならいいだろうと思い、若いラカン派のボウヤに対してコメント入れて揺さぶりつつ試したことがあるんだけど、そうしたら閉じちゃったね。彼のメタ私はよく見えたんだけどな。 |
ひびの入った皮膜
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報告された快楽から、どのようにして快楽を汲み取るのか…。どのようにして批評を読むのか。唯一の手段はこうだ。私は、今、第二段階の読者なのだから、位置を移さなければならない。批評の快楽の聞き手になる代わりにーー楽しみ損なうのは確実だからーー、それの覗き手 voyeur になることができる。こっそり他人の快楽を観察するのだ。私は倒錯する j'entre dans la perversion 。すると、注釈は、テクストにみえ、フィクションにみえ、ひびの入った皮膜 une enveloppe fissurée にみえてくる。作家の倒錯(彼の快楽は機能を持たない)、批評家の、その読者の、二重、三重の倒錯、以下、無限。(ロラン・バルト『テクストの快楽』)
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私の興味をひくのは、いおうとしている内容ではなくて言いぶり
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……なぜなら、私の興味をひくのは、人々のいおうとしている内容ではなくて、人々がそれをいっているときの言いぶりだからで、その言いぶりも、すくなくともそこに彼らの性格とか彼らのこっけいさがにじみでているのでなくてはいけなかった、というよりも、むしろそれは、特有の快楽を私にあたえるのでこれまでつねに別格の形で私の探求の目的になっていたもの、すなわち甲の存在にも乙の存在にも共通であるような点、といったほうがよかった。そんなもの、そんな点を認めるとき、はじめて私の精神は、突然よろこびにあふれて獲物を追いかけはじめるのだが、しかしそのときに追いかけているものは(……)、なかば深まったところ、物の表面それ自体からかなたの、すこし奥へ後退したところにあるのであった。そして、それまでの私の精神といえば、たとえ私自身、表面活発に話していても――その生気がかえって精神の全面的な鈍磨を他の人々に被いかくしていて――そのかげで精神は眠っていたのであった。したがって、精神が深い点に到達するとき、存在の、表面的な、模写的な魅力は、私の興味からそれてしまうというわけだ、というのも、女の腹の艶やかな皮膚の下に、それを蝕む内臓の疾患を見ぬく外科医のように、もはや私はそのような表面の魅力にとどまる能力をもたなくなるからだった。(プルースト「見出されたとき」)
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身ぶり、談話、無意識にあらわされた感情から見て、この上もなく愚劣な人間たちも、自分では気づかない法則を表明していて、芸術家はその法則を彼らのなかからそっとつかみとる。その種の観察のゆえ、俗人は作家をいじわるだと思う、そしてそう思うのはまちがっている、なぜなら、芸術家は笑うべきことのなかにも、りっぱな普遍性を見るからであって、彼が観察される相手に不平を鳴らさないのは、血液循環の障害にひんぱんに見舞われるからといって観察される相手を外科医が見くびらないようなものである。そのようにして芸術家は、ほかの誰よりも、笑うべき人間たちを嘲笑しないのだ。(プルースト「見出されたとき」)
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最も大切なのは次の態度だけどな、これはなかなか難しい。中井久夫の言うように《私の「メタ私」は、他者の「メタ私」よりもわからない》だろうから。
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他人のなすあらゆる行為に際して自らつぎのように問うて見る習慣を持て。「この人はなにをこの行為の目的としているか」と。ただしまず君自身から始め、第一番に自分を取調べるがいい。(マルクス・アウレーリウス『自省録』神谷美恵子訳)
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