後期フロイトにとって原欲動とは原マゾヒズム欲動である。1919年の『子供が叩かれる』まではそうでなくサディズムが先立つものと考えていた。だが1920年以降、徐々に考えなおし、1933年にこう断言する。
マゾヒズムはその目標 Ziel として自己破壊 Selbstzerstörung をもっている。…そしてマゾヒズムはサディズムより古い der Masochismus älter ist als der Sadismus。
他方、サディズムは外部に向けられた破壊欲動 der Sadismus aber ist nach außen gewendeter Destruktionstriebであり、攻撃性 Aggressionの特徴をもつ。或る量の原破壊欲動 ursprünglichen Destruktionstrieb は内部に居残ったままでありうる。…
我々は、自らを破壊しないように、つまり自己破壊欲動傾向 Tendenz zur Selbstdestruktioから逃れるために、他の物や他者を破壊する anderes und andere zerstören 必要があるようにみえる。ああ、モラリストたちにとって、実になんと悲しい開示だろうか!⋯⋯⋯⋯
我々が、欲動において自己破壊 Selbstdestruktion を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動 Todestriebes の顕れと見なしうる。(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)
後期フロイトの考えでは、他者破壊欲動としてのサディズムは、自己破壊欲動としての原マゾヒズムに対する防衛なのである。このあたりはドゥルーズのマゾッホ論における見解とはまったく異なる。ドゥルーズはサディズムとマゾヒズムを「超自我」「理想自我」用語などを使って截然と区別したが(参照)、ラカンのマゾヒズムは後期フロイトのマゾヒズムである。➡︎「享楽という原マゾヒズム文献」
享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. …マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel。フロイトはこれを発見したのである。(ラカン、S23, 10 Février 1976)
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死の欲動は現実界である。死は現実界の基礎である。
La pulsion de mort c'est le Réel […] c'est la mort, dont c'est le fondement de Réel qu'elle ne puisse être pensée. (Lacan, S23, 16 Mars 1976)
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死への道 Le chemin vers la mort…それはマゾヒズムについての言説であるdiscours sur le masochisme 。死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)
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異論があるのはわかっているが、ここではこの前提を受け入れて以下の文を読もう。
◼️サドという名のマゾヒスト
享楽の意志 la volonté de jouissanceは、モントルイユ夫人によって容赦なく行使された道徳的拘束のうちへと引き継がれることによって、その本性がもはや疑いえないものとなる。(ラカン, Kant ·avec Sade, E778, Avril 1963)
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マルキ・ド・サドは、他者に苦しみをもたらしたと伝えられるが、半生涯を刑務所で過ごした。そしてマルキ・ド・サドの秘密はマゾヒズムであるとラカンは強調している。(ジャック=アラン・ミレールThe Non-existent Seminar 、1991)
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これ以上はっきり申し上げられるでしょうか、マダム? 私の胸の裡をこれ以上はっきりお聞かせできるでしょうか? どうかお願いですから、私のおかれた状態を少しは憐れんでください! 恐ろしい状態なのです。そう申し上げることで私があなたを勝利者にしてしまうことくらい承知しています。しかしもうそんなことはかまいません。私はあまりにも不運なやりかたであなたのお心の平安を乱してしまったがために、マダム、私の犠牲であなたに勝利をご提供致すはめになったことを悔やむ気にすらなれないのです。あなたはご自分の力を尽くして、ひとりの人間が蒙りうる最高度の辱めと、絶望と、不幸とに私が見舞われるのをご覧になろうとしたわけですから、どうぞご享楽ください、マダム、さあどうぞ、なぜならあなたは目標を達せられたのですから。私はあえて申しますが、人生を私ほど重荷に感じている存在はこの世にひとりたりともおりません。 (サド「モントルイユ夫人宛書簡」1783 年 9 月 2 日付)
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大他者の享楽の対象になることが、本来の享楽の意志である。D'être l'objet d'une jouissance de l'Autre qui est sa propre volonté de jouissance…問題となっている大他者は何か?…この常なる倒錯的享楽…見たところ(母子)二者関係に見出しうる。その関係における不安…Où est cet Autre dont il s'agit ? […]toujours présent dans la jouissance perverse, […]situe une relation en apparence duelle. Car aussi bien cette angoisse…この不安がマゾヒストの盲目的目標である。cette angoisse qui est la visée aveugle du masochiste, (ラカン, S10, 6 Mars 1963)
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(原母子関係には)母なる女の支配 dominance de la femme en tant que mère がある。…語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存 dépendance を担う母が。(ラカン、S17、11 Février 1970)
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他者の欲望の対象として自分自身を認めたら、常にマゾヒスト的である⋯ Se reconnaître comme objet de désir, au sens où je l'articule, c'est toujours masochiste. » (ラカン、S10, 16 janvier 1963)
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女性的マゾヒズム Feminine masochismの根には、性感的マゾヒズム erogenen masochism、つまり苦痛のなかの快 Schmerzlust がある。(フロイト 『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)
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快原理の彼岸 Au-delà du principe du plaisirにある享楽…フロイトは書いている、「享楽はその根にマゾヒズムがある」と。FREUD écrit : « La jouissance est masochiste dans son fond »(ラカン, S16, 15 Janvier 1969)
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……………
◼️ドストエフスキーという名のマゾヒスト
◼️ドストエフスキーという名のマゾヒスト
ドストエフスキーは、小さな事柄においては、外に対するサディストであったが、大きな事柄においては、内に対するサディスト、すなわちマゾヒストであり、最もお人好しな、もっとも慈悲心に富んだ人間であった。in kleinen Dingen Sadist nach außen, in größeren Sadist nach innen, also Masochist, das heißt der weichste, gutmütigste, hilfsbereiteste Mensch. (フロイト『ドストエフスキーと父親殺し』1928年)
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マゾヒズム的とは、その根において女性的受動的ということである。masochistisch, d. h. im Grunde weiblich passiv.(フロイト『ドストエフスキーと父親殺し』1928)
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心ひそかに自分を責めさいなみ、われとわが身を噛み裂き、引き挘るのだ。そうするとしまいにはこの意識の苦汁が、一種の呪わしい汚辱に満ちた甘い感じに変わって、最後にはそれこそ間違いのない真剣な快楽になってしまう! そうだ、快楽なのだ、まさに快楽なのである!(⋯⋯)
諸君、諸君はこれでもまだわからないだろうか? 駄目だ、この快感のありとあらゆる陰影を解するためには、深く深く徹底的に精神的発達を遂げて、底の底まで自覚しつくさなければならないらしい!(ドストエフスキー『地下生活者の手記』)
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