ひどいこというヤツらだなあ、これだから保守系コメンテーターって大嫌いさ。
石垣ファンのリベラル左翼なにやってんだろ。こういう機会にこそしっかり庇ってやれよ。
2019年6月のボクの記事から再掲しておくよ
石垣のりこさんの不幸は、エフエム仙台のアナウンサーから政治家になっちまったことだよ。
四つの視線のカテゴリー
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誰もが、誰かに見られていることを求める。どのようなタイプの視線の下で生きていたいかによって、われわれは四つのカテゴリーに区分される。(クンデラ『存在の耐えられない軽さ』)
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①
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第一のカテゴリーは限りなく多数の無名の目による視線、すなわち別のことばでいえば、大衆の視線に憧れる。(…)政治家になる道を選ぶ人間は、その人間が大衆の好意を得るという、素朴でむき出しの信仰を持って、自らすすんで大衆を自分の判定者にする。
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政治家、スター、TV キャスター等
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②
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第二のカテゴリーは、生きるために数多くの知人の目という視線を必要とする人びとから成る。この人たちはカクテル・パーティや、夕食会を疲れを知らずに開催する。…この人たちは大衆を失ったとき、彼らの人生の広間から火が消えたような気持ちになる第一のカテゴリーの人たちより幸福である。このことは第一のカテゴリーの人たちのほとんどすべてに遅かれ早かれ一度はおこる。それに反して第二のカテゴリーの人はそのような視線をいつでも見つけ出す。
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社交家
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③
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次に愛している人たちの眼差しを必要とする、第三のカテゴリーがある。この人たちの状況は第一のカテゴリーの人の状況のように危険である。愛している人の目が、あるとき閉ざされると、広間は闇となる。
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愛する人
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④
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そしてもう一つ、そこにいない人びとの想像上の視線の下に生きる人たちという、もっとも珍しい第四のカテゴリーがある。これは夢見る人たちである。
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夢想家、理念家、死者
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ああなんと惜しまれることか、朝風に似て歩みもかるくすがすがしい乙女がキッチュなんかに身を落として。
キッチュな人間のキッチュな欲求。それは、あばたをえくぼと化する虚偽の鏡の覗きこみ、そこに映る自分の姿を見てうっとりと満足感にひたりたいという欲求である。(クンデラ「七十三語」)
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キッチュという言葉は、どんなことをしてでも、大多数の人びとに気に入ってもらいたいと望む者の態度をあらわしています。気に入ってもらうためには、あらゆる人びとが理解したいと望んでいることを確認し、紋切り型の考えに仕えなければなりません。キッチュとは、紋切り型の考えの愚かしさを美しさと情緒の言葉に翻訳することなのです。キッチュは、私たち自身にたいする感動の涙を、私たちが考えたり感じたりする平凡なことにたいする涙を私たちに流させます。
どうしても気に入られ、そうすることによって大多数の人びとの関心を得なければならないという必要を考えてみれば、マス・メディアの美学はキッチュの美学にならざるをえません。マス・メディアが私たちの生活のすべてを包囲し、そこに浸透するにつれて、キッチュは私たちの美学にそして私たちの日常の道徳になっていきます。最近まで、モダニズムは紋切り型の考えとキッチュにたいする非順応的抵抗を意味していました。今日では、モダニティはマス・メディアの途方もない活力と一体になっていますし、モダンであるということは、時代に乗り遅れないようにするためのすさまじい努力、このうえなく型どおりであるよりもさらに型どおりであろうとするためのすさまじい努力を意味しています。モダニティはキッチュというドレスを身にまとったのです。(クンデラ「エルサレム講演」『小説の精神』所収)
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キッチュなものは続けざまに二つの感涙を呼びおこす。第一の涙はいう。芝生を駆けていく子供は何と美しいんだ!
第二の涙はいう。芝生を駆けていく子供に全人類と感激を共有できるのは何と素晴らしいんだろう!
この第二の涙こそ、キッチュをキッチュたらしめるものである。
世界のすべての人びとの兄弟愛はただキッチュなものの上にのみ形成できるのである。
世の中に政治家よりこのことをよく理解している人はいない。政治家は身近にカメラがあると、すぐ一番近くの子供に駆け寄り、その子を高く持ち上げて、頬にキスする。キッチュなものはあらゆる政治家、あらゆる政党や運動の美的な理想なのである。(クンデラ『存在の耐えられない軽さ』)
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