すこし前、漱石の『明暗』に触れた。その関係で、水村美苗が30代半ばに書いた処女小説『続明暗』を読み返してみようとしたのだが、文庫なのでなかなか見当たらない。いったん諦めたのだが昨日ふと巡り合った。この本はもう一度読まなくちゃな、と通常の文庫棚とは別の特別置場(引き出しの奥)に6年まえ仕舞い込んでおいたのを失念していた。岩波文庫版の『明暗』とともに保存されていた(こっちのほうは大江の力のこもった「解説」がある)。
というわけだが、ここでは水村美苗の『続明暗』の本文ではなく「あとがき」全文と大江の「解説」から一部を抜き出して並べておく。
水村美苗の「あとがき」は気配りがよく行き届いた、だがとても力強い文で、なんだかとても感心してしまった。
◼️水村美苗『続明暗』文庫版あとがき
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『続明暗』は一九八八年六月から一九九〇年四月まで『季刊思潮』(思潮社)に連載され、一九九〇年九月に筑摩書房から単行本として出版された。単行本は旧仮名づかいと正字とで書かれている。この度の新潮社の文庫本は、同じく新潮社の文庫本に入っている『明暗』に準じて旧仮名づかいを新仮名づかいに、旧字を新字体に改め、さらに以前から気になっていた箇所に少し手を加えたものである。
『明暗』を執筆中の漱石に次のような有名な手紙がある。
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牛になる事はどうしても必要です。吾々はとかく馬になりたがるが、牛には中々なり切れないです。…牛は超然として押して行くのです。何を押すかと聞くなら申します。人間を押すのです。文士を押すのではありません。
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『続明暗』を書く前も書いた後も私はこの手紙に力づけられた。
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『続明暗』は批判を予想して書かれたものである。いわく、漱石はこのようには『明暗』を終えなかったであろう。いわく、漱石はより偉大である。いわく、このような作品の出現にもかかわらず、漱石は依然として漱石である。
幸い『続明暗』は多くの読者を得た。批評家の中にも、右のようなあたりまえな批判だけは文章に著すまいという、批評家としては当然の決断を下す人もいた。だが『続明暗』が予想通りの批判を矢のように浴びたのも事実である。
私はこれらの批判に異論をもつ者ではない。私は漱石が『明暗』をどう終えるつもりでいたかを知らない。私は漱石のように偉大ではないし、私のような者が何を書こうと漱石が依然として漱石であるのに変わりはない。
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だがこのような批判にどのような意味があるのか。
漱石は今や国民作家である。その漱石が未完のままにして死んだのが『明暗』である。『明暗』の続編を書けば、どのようなものを書こうと、誰が書こうと、右のような批判を受けずにはすまされない。漱石もこう終えたであろうと万人が納得できる『明暗』の終えかたもなければ、漱石に比べられて小さく映らずにすむ現存の作家もいない。そのような存在でしかない現存の作家が漱石の地位をあやうくするはずもなく、漱石は依然として漱石であるほかはない。これらはすべてあたりまえの話である。
それでも書こうというのは、漱石の言う通り、「人間を押す」ことを望むからである。「文士を押す」ことを目標にしているかぎり『明暗』の続編は書けない。「文士」こそ今まで『続明暗』が書かれるのを阻んでいたものだからである。
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「人間」とは何か。それは私と同様、『明暗』の続きをそのまま読みたいという単純な欲望にかられた読者である。漱石という大作家がどう『明暗』を終えたかよりも、お延はどうなるのか、津田は、そして清子はどうなるのかを『明暗』の世界に浸ったまま読み進みたい読者ーー小説の読者としてはもっとも当然の欲望にかられた読者である。小説を読むということは現実が消え去り、自分も作家も消え去り、その小説がどういう言語でいつの時代に書かれたものかも忘れ、ひたすら眼の前の言葉が創り出す世界に生きることである。それを思えば、「人間」であることこそ小説を読む行為の基本的条件にほかならない。我々が我を忘れて漱石を読んでいる時は、漱石を読んでいるのも忘れている時であり、その時、漱石の言葉はもっとも生きている。文学に実体的な価値があるとすれば、それはこの読むという行為の中から毎回生まれるのである。漱石の価値というものも、そこでは毎回自明なるのではなくなり新たに創り出される。文学の公平さというのもそこにある。
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「文士」とは何か。それは私と同様、漱石が大作家であることを知っている人である。「文士」にとって漱石の価値というものは自明なものとしてある。
我々はふつう生きている時は「文士」でしかありえない。「人間」でありうるのは、小説の世界に没頭している特権的な時間の中においてのみなのである。その特権的な時間の中で自然に生まれた「人間」の欲望に応えようとすることーー「人間を押」そうとすることを、我々の中にある「文士」のために断念する必要があるだろうか。答は否である。
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書き終えてしまえば不満も迷いる後悔も残るが、それに関してはまた別の機会が与えられれば幸いである。今はこの場でよくある疑問にだけ答えたいと思う。
『続明暗』が可能なかぎり漱石に似せて書こうとした小説であることはいうまでもない。だがそれ自体はこの小説の目的ではない。『続明暗』はより重要な目的のためには、漱石と似せないことをも選んだものである。
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『続明暗』を読むうちに、それが漱石であろうとなかろうとどうでもよくなってしまうーーそこまで読者をもって行くこと、それがこの小説を書くうえにおいての至上命令であった。その時は『明暗』を書いたのが漱石であること自体、どうでもよくなってしまう時でもある。だが漱石の小説を続ける私は漱石ではない。漱石ではないどころか何者でもない。『続明暗』を手にした読者は皆それを知っている。興味と不信感と反発の中で『続明暗』を読み始めるその読者を、作者が漱石であろうとなかろうとどうでもよくなるところまでもって行くには、よほど面白くなければならない。私は『続明暗』が『明暗』に比べてより「面白い読み物」になるように試みたのである。
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ゆえに漱石と意図的にたがえたことがいくつかある。まず『続明暗』では漱石のふつうの小説より筋の展開というものを劇的にしようとした。筋の展開というものは読者をひっぱる力を一番もつ。次に段落を多くした。これは現代の読者の好みに合わせたものである。さらに心理描写を少なくした。これは私自身『明暗』を読んで少し煩雑すぎると思ったことによる。語り手が物語の流れからそれ、文明や人生について諧謔をまじえて考察するという、漱石特有の小説法も差し控えた。これは私の力では上手く入れられそうにもなかったからである。もちろん漱石の小説を特徴づける、大団円にいたっての物語の破綻は真似しようとは思わなかった。 漱石の破綻は書き手が漱石だから意味をもつのであり、私の破綻には意味がない。反対に私は、漱石の資質からいっても体力からいっても不可能だったかもしれない、破綻のない結末を与えようとした。
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次にその『続明暗』の結末だが、私は独創的な結末を書こうとしたのではない。『明暗』の内的論理を忠実に追い、漱石がめぐらせた伏線を宿題を解くように解き、もっともあたりまえな方向に物語をもって行ったつもりであった。あたりまえであることを意図したその結末が、意表をついていないという批判を受けたのには驚いたが、さらに驚いたのは、その同じ結末が、意表をついているという賛辞を受けたことである。最大公約数的な結末などというものがありえないのを私は思い知った。
ただ私はいまだに『明暗』がその結末をどの方向にももって行ける小説だとは思わない。『明暗』はなぜ清子が津田を捨てたのかという冒頭の間いをめぐる小説である。その問いは津田の心の中と読者の心の中と二つのレベルで同時に問われ、読者は、津田がその問いの答を探す過程そのものに、その間いの答を見い出して行くのである。『明暗』の内的論理と矛盾することなしに、津田が清子と一緒になるという結末は私には不可能に思える。
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最後に、お延の沈黙の問題がある。『明暗』の饒舌なお延に比べ『続明暗』のお延は寡黙であり、最後はほとんど無言である。それは、人が死に向かおうとするのは、出口のない気持の中にどんどんと追いつめられてのことだと信じるからである。お延が胸のうちを少しでも吐き出せたら、自殺に一途に向かっているその精神の緊張はゆるんでしまう。お延にしゃべらせ、かついったんは自殺を決意させるというのは、少なくとも私には困難に思えた。もちろん自殺を決意させるという筋書を選ばなければ、別の話である。
以上簡単だが、くりかえし取りあげられる点なので私なりの説明を試みた。
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『続明暗』を書きたいと言っただけで興味をもって下さった筑摩書房の間宮幹彦氏に深く感謝する。氏は単行本の校正の段階でも実に根気よくつきあって下さった。書き始めたとたんに『季刊思潮』という連載の場を提供して下さった柄谷行人氏にも、連載中ずっとお世話になった編集長の山村武善氏にも、同じように深く感謝する。今思えば、私は連載という形をとらせてもらえなければ『続明暗』を書き終えるのはもちろんのこと、作家にもなれなかった。そして、単行本が出る前からこのような形で文庫本にすることを勧め続けて下さった新潮社の私市憲敬氏にも深く感謝する。
『続明暗』の読者にも深く感謝する。『続明暗』は異国で育った私の日本文学への思慕の念から生まれたものである。自分の勝手な思い入れから生まれたこのような本を読んでくれる人がいるということは、いまだに奇跡のような気がする。
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一九九三年八月 水村 美苗
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ーー柄谷行人の名が出ているが、柄谷はイェール大学客員教授の時(1975-77年)、同じくイェール大学にいた岩井克人、水村美苗夫妻と知り合っている(水村美苗は当時のイェール大学名物教師ポール・ド・マンの弟子)。
次に大江健三郎の『明暗』解説からである。水村美苗とは全く反対の結末を想定している箇所を引く。
『明暗』を書く時期、漱石はかならずしも明確には定義しないで、「則天去私」という言葉をしばしば使った。それについては、専門家レヴェルにも様ざまな読み解き方がある。それと離れて『明暗』のテキスト自体を読むならば、「天」という言葉が出てくるのは小林の次の自己評価においてである。《天がこんな人間になって他を厭がらせて遣れと僕に命ずるんだから仕方がないと解釈して頂きたいので、わざわざそういったのです。僕は僕に悪い目的はちっともない事をあなたに承認して頂きたいのです。僕自身は始めから無目的だという事を知って置いて頂きたいのです。しかし天には目的があるかも知れません。そうしてその目的が僕を動かしているかも知れません。それに動かされる事がまた僕の本望かも知れません。》
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『明暗』にさきだつ、そうせきのいくつかの講演は、近代化日本の行くすえを思いつつ、たとえエゴイズムとならざるをえぬにしても、自立した原理をもって自分を生かしてゆく必要を語るものだった。この小説に描かれた、 親戚をふくむ社会関係のなかで、どのように自立して生きてゆくか? 愛を確立するか? 困難だが必要なその実現のために、お延は戦うことを決意した人間である。
しかし自分が「私」を確立することは、おなじく「私」を確立している他人を認めることでなければならない。このようにして多様な「私」が自己を確立して生きる、その総体を認めよう。その総体をつかさどるもの、つまり「天」の意志は、人間の狭い個の規模のプラス、マイナス、善悪を越えた原理かもしれないが、いたしかたはない。それが「則天去私」ということではないであろうか?
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とくに 「去私」ということの解釈については、この考え方が通説にさからうことを認めねばならないだろう。その上であらためていうことだが、最初にのべたとおり、小説を書く者の経験にたちちつ『明暗』の構造を読みとることをして、いま強い磁気をおびて押し出て来るのを感じる情景は、津田とお延がそれぞれにちがう理由で憂懲になっていたあと、顔を見合せて理由もなく微笑するシーンである。
《その時二人の微笑は俄かに変った。二人は歯を露わすまでにロを開けて、一度に声を出して笑い合った。》大きい病いを克服した漱石が、『明暗』を書きあげていたとすれば、そのしめくくりには、再びこの微笑と声に出す笑いが、それも現実の経験にきたえられたかたちで恢復したのではなかっただろうか? 生涯の最後の創作に、漱石がそういう微笑、笑いを思っていたのであるなら、かれが到達した「則天去私」という最終の思想は、決して楽観的なものではなかったにしても、根底に積極的な意志をひそめていたはずだと思うのである。(大江健三郎「解説」ーー『明暗』岩波文庫版、1990年)
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《そのしめくくりには、再びこの微笑と声に出す笑いが、それも現実の経験にきたえられたかたちで恢復したのではなかっただろうか?》ーーこれは大江が自らの小説では達成しがたかったことを『明暗』の結末に願ったと言ってもいいかも知れない。大江は評論活動と作家活動ではまったく別人である。評論家の大江は戦後民主主義の希求に代表されるようにタテマエの人である。だが小説家の大江は常に冥府に向かい、ときに冥府の底からの途切れがちな呟き声を漏らす血腥い人である。
この対照は、以前引用した加藤周一『明暗』論にある《我々の習慣が危険なものを避け、深淵が口を開いても、その底を見極めようとはしないからである。しかし、その底に、我々の行動を決定する現実があり、日常的意識の奥に、我々を支配する愛憎や不安や希望がある》という文を援用して言うことができるかも知れない。つまり評論家の大江は深淵の底を見極めることを避けているように見える。だが作家の大江はまったくそうではない、と。
ちなみに最近の水村美苗は、漱石では『三四郎』がいいと言っている。
漱石の偉大さはいくつでも挙げられますが、一番好きなのは、彼のユーモア。『三四郎』は、熊本の高校を卒業して東京に出てきた青年の成長譚で、三四郎の自意識や悲哀感がそのユーモアをもって描かれています。(水村美苗「時代が変わっても「色を失わない」優れた古典の本10選」2019.03.30)
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ーー岩井克人の名著『ヴェニスの商人の資本論』(1985年)の見事なシェイクスピア読解箇所は水村美苗に多くを負っている筈である。
なにはともあれ人生にはーーとくに男女関係にはーー、かならず深淵が覗くことがあるので、その深淵を乗り切るにはユーモアの力が必要であることは間違いない。
われわれは時折、われわれから離れて休息しなければならないーー自分のことを眺めたり見下ろしたり、芸術的な遠方künstlerischen Ferneから、自分を笑い飛ばしたり嘆き悲しんだりする über uns lachen oder über uns weinen ことによってーー。われわれは、われわれの認識の情熱の内に潜む英雄と同様に、道化をも発見しなければならない。 われわれは、われわれの知恵を楽しみつづけることができるためには、 われわれの愚かしさをも時として楽しまなければならない!(ニーチェ『悦ばしき知』第107番、1882年)
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最も高い山の頂に立つ者は、あらゆる悲劇と悲劇的真剣さを笑い飛ばす Wer auf den höchsten Bergen steigt, der lacht über alle Trauer-Spiele und Trauer-Ernste.……
いまわたしは軽い。いまわたしは飛ぶ。いまわたしはわたし自身をわたしの下に見る。いまわたしを通じてひとりの神が舞い踊っている。Jetzt bin ich leicht, jetzt fliege ich, jetzt sehe ich mich unter mir, jetzt tanzt ein Gott durch mich. (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第1部「読むことと書くことについて」1883年)
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ここでは大江のいう《彼(漱石)が到達した「則天去私」という最終の思想は、決して楽観的なものではなかったにしても、根底に積極的な意志をひそめていたはずだと思うのである》を次のニーチェの文とともに読んでおくことにする。
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たぶん私が一番よく知っている、なぜ人間だけが笑うのかを。人間のみがひどく苦しんだので、笑いを発明しなければならなかったのである。Vielleicht weiß ich am besten, warum der Mensch allein lacht: er allein leidet so tief, daß er das Lachen erfinden mußte.(ニーチェ遺稿ーー『力への意志』Der Wille zur Macht I - Kapitel 10-91)
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