でも10回程度読んだぐらいでプルーストを掴んでいるつもりは毛頭ない。それでもいくつかの引用を並べて読むと見えてくるものはある(気がする)。最も肝腎なのは、共同体が容認しうるイメージへと作品を翻訳しないことだ。学者たちがしばしばしてしまっている要約をしないことだ。そして自己自体、共同体だ。
蓮實)僕がやっている批評のほとんどは無駄に近い列挙なんです。これもありますよ、これもありますよ、というようなものでね。こっち見てごらんなさい。夏目漱石、こんなことを書いていますよ。またこっちではこんなことを書いていますよ、という愚鈍なまでの列挙なんです。その意味では批評というより事項が並んでいるだけなんです。ところがいまの若い人たちは列挙しないんですね。非常に優雅に自分の言葉に置き換えちゃっている。(……)
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僕の無駄というのは、その無謀な列挙にある。なぜ列挙するかというと、列挙することそのものがかろうじて根拠たりうるようなものしか論じないからです。たとえば、ジョン・フォードには太い大きな幹が出てくる。僕は、それを美しいと思う、というよりそのことに理由のない恐れをいだく。しかしそれには何の意味もない。ただ、太い樹木の幹が見えるというだけなんです。だから『静かなる男』にもあった、『タバコロード』にもあった、『我が谷は緑なりき』にもあったと際限なく羅列してゆくしかない。
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……みんな、批評というものを解釈だと勘違いしてしまったんですよ。解釈といったって、形式を読むこともしなければ、ましてや魂の唯物論的な擁護などと思ってもみない。共同体が容認しうるイメージへと作品を翻訳することを意味の解釈だと思っちゃった。(……)
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批評の第一の役割は、作品の意味が生成される可能性を思い切り拡げることであり、それを閉ざすことではない。ところが、みんな、無意識に意味生成の場を狭めればそれが主体的だと思ってるんです。僕はそれを可能な限り豊かなものにすることを一貫してやってきた。べつに、意味を無視したわけじゃあないんです。読むことって、無数の意味の闘いでしょ。表層というのは、その闘いの現場であるわけです。解釈が始まるのは、その闘いの現場を通過してからの話でなければいけない。
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流通するのは、いつも要約のほうなんです。書物そのものは絶対に流通しない。ダーヴィンにしろマルクスにしろ、要約で流通しているにすぎません。要約というのは、共同体が容認する物語への翻訳ですよね。つまり、イメージのある差異に置き換えることです。これを僕は凡庸化というのだけれど、そこで、批評の可能性が消えてしまう。主義者が生まれるのは、そのためでしょう。書物というのは、流通しないけど反復される。ドゥルーズ的な意味での反復ですよね。そして要約そのものはその反復をいたるところで抑圧する。批評は、この抑圧への闘争でなければならない。(蓮實重彦、柄谷行人との対談集『闘争のエチカ』1988年)
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バルトはプルーストには何でもあると言っているが、社交心理家のプルーストを利用すれば、蓮實も含めて全インテリを簡単にバカに出来るよ。
かつては、そしていまでも、トウィックナムやバッキンガム宮殿からの招待を心ゆかしくかくしているほどの彼が、スワン夫人の訪問のお礼にやってきたある官房次官の細君のことを、ひどくじまんそうにしゃべるのをきくと、やはり誰でもおどろくのであった。そうしたことは、おそらく、エレガントなスワンの単純さも、じつをいえば、虚栄心のいっそう洗練された形式にすぎなかった、ということで説明されるかもしれないし、また、一部のイスラエル人種のように、この私の一家の旧友は、彼の種族が経過した状態を、すなわちもっともうぶなスノビスムからもっとも下品な無作法を経てもっとも繊細な礼儀に達するまでの状態を、つぎつぎに実演してみせたのだ、とも説明されよう。
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しかし最大の理由、そしておそらく一般の人間にもあてはめられる理由は、もともとわれわれのもっている徳性自体が、いつでもわれわれの手で勝手に処理できるような、何か自由な、浮動したもの、そういうものではないということであった、つまりわれわれの徳性は、いろんな行為にーーわれわれがさしずめそうした徳性を行使するのが義務だと考えてやったような行為にーーじつに密接にむすびついてしまうものだから、にわかにべつな種類の行動に直面すると、まったくふいをうたれて、この行動がはたしておなじ徳性の発動によって起こされたものであるかどうかを考える余裕もないのだ。
そんな新しい連中との交際にうつつをぬかして彼らの名を誇らしげに口にするスワンは、たとえば根が謙譲であったり寛大であったりする大芸術家でも、晩年に調理や花壇に凝りだすと、自分がつくった料理なり植込なりにたいして、自分の芸術の傑作についてならばたやすく受けいれるあの批判を、断じてゆるさない、そのくせ相手のお世辞となるとまったくたわいもない満足ぶりを発揮する、といった人たち、または、自筆の絵の一枚を無造作にくれてやっても平気でいながら、それにひきかえ、ドミノをやり四十スーとられたとなると、 ふさぎこんでしまう人たち、そんな大芸術家のある人たちに似ているのであった。(プルースト「花咲く乙女たちのかげに」) |
相手のどんなにすぐれた知的長所も感受性も、それが自分をやりきれなくさせたり、いらいらさせたりするものであれば、誰の目にも頭がからっぽで軽率で無能と見なされているような男の率直さや陽気さのほうがまだしも好感がもてるだろうと思われるのである。(プルースト「花咲く乙女たちのかげに」)
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もちろん自分自身も簡単にバカにできる。この記事も。バカにされない唯一の方法はフィクションしかないだろうな。
この相のネタはたぶん「花咲く乙女たちのかげに」が一番たくさんある。
おどろいたようすをしたいという欲望をあらわしている、
あの一種のけげんそうなまなざし
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夕闇がおりてきた、ひきかえさなくてはならなかった、私はエルスチールを彼の別荘のほうに送っていった、そのとき突然、ファウストのまえに立ちあらわれるメフィストフェレスのように、通路の向こうの端にーー私のような病弱者、知性と苦しい感受性との過剰者には、およそ縁のない、ほとんど野蛮残酷ともいうべき生活力、私の気質とは正反対な気質の、非現実的な、悪魔的な客観化であるかのようにーーほかのどんなものとも混同することのできないエッセンスの斑点のいくつか、あの少女たちの植虫群体をなすさんご虫のいくつかが、ぱっとあらわれたが、彼女らは私を見ないふりをしながら、私に皮肉な判断をくだそうとしていることはうたがいをいれなかった。(……)
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折から私たちが通りかかっているアンティックの店のショー・ウィンドーのほうへ、まるで急にそれに興味をおぼえたように、身をかがめたが、そんな少女たちよりもほかのことを考えることができる、というふりをするのは自分でもわるい気がしなかった、そしてエルスチールが私を紹介しようとして呼ぶとき、おどろきそのものをあらわしているのではなく、おどろいたようすをしたいという欲望をあらわしている、あの一種のけげんそうなまなざしを自分がするだろうことを、私はすでにひそかに予知していたしーーそんな場合、誰しもわれわれは下手な役者であり、相手の傍観者は上手な人相見だーーまた指で自分の胸をさしながら、「私をお呼びですか?」とたずね、知りたくもない人たちに紹介されるために、古陶器の鑑賞からひきはなされた不快を顔につめたくかくし、従順と素直とに頭をたれ、いそいで自分が走ってゆくであろうことを、私は予知していた。(プルースト「花咲く乙女たちのかげに」井上究一郎訳)
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ぼんやりと気のなさそうなようすをあらわそうとした
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彼(シュルリュス男爵)はポケットから手帖を出し、ポスターにある芝居の外題を写しとるふうを装い、二、三度時計をとりだし、黒のむぎわら帽を目深におろし、誰かきたのではないかと見るようにして手をかざして目庇をつくり、ずいぶん待たされたことを人に見せつけるような、実際に待っているときはけっしてわれわれのやらない、不満そうな身ぶりをし、それから、こんどは帽子をあみだにして、頭の上は短く平に刈りあげているのが両側にはかなり長い鳩翼状のウェーヴがついた鬢を残しているその髪形を見せながら、あまり暑くもないのに暑くてたまらないようすを見せたいと思う人がよくやるように、ふうっと音を立てて息を吐いた。
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私はホテル破落戸〔ごろ〕かと思った、その男なら、まえから祖母と私とをつけねらっているらしいので、何かわるいことをたくらんで私の隙をうかがっているところを不意に見つけられたことに気がつき、私の目をごまかすために、おそらく急に態度を変え、ぼんやりと気のなさそうなようすをあらわそうとしたのだが、それがあまり強く誇張されたので、彼の目的は、すくなくとも、私が抱いたと思われる疑念を一掃することにあったと同時に、私が無意識のうちに彼に加えたかもしれない侮蔑のしっぺいがえしをやること、おまえは人の注意をひくほど大した人間ではない、そんなおまえをおれは見ていたのではない、という考えを私に植えつけることであるように思われるのであった。
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彼は挑戦的な態度でぐっと肩を張り、唇をかみ、ひげをひねりあげ、そのまなざしのなかに、冷淡な、冷酷な、ほとんど侮蔑的なと思われるものを溶けこませていた。したがって、そんな表情の特殊性が、彼をどろぼうではないか、それとも精神病者ではないか、と私に考えさせるのであった。(プルースト「花咲く乙女たちのかげに」)
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バカにすることが多いというのは、ボクも日本的環境に置かれて仕事を続けていたらああなっていたのかもな、という相は間違いなくあるのでね。
自己を語る一つの遠まわしの方法
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ところで、自己を語る一つの遠まわしの方法であるかのように、人が語るのはつねにそうした他人の欠点で、それは罪がゆるされるよろこびに告白するよろこびを加えるものなのだ。それにまた、われわれの性格を示す特徴につねに注意を向けているわれわれは、ほかの何にも増して、その点の注意を他人の中に向けるように思われる。近視の男は他人の近視のことをこういう、「だってあれはほとんど目があけられないくらいですよ。」胸部疾患の人間は、この上もなく頑丈な人間の健康な肺臓にも種々の疑念をもつし、不潔な男は、他人がお湯や水を浴びないことばかりを口にするし、悪臭を放つ人間は、誰でもいやな匂がすると言いはる、だまされた亭主は、いたるところにだまされた亭主たちを、浮気な女房はいたるところに浮気な女房たちを、スノッブはいたるところにスノッブたちを見出す。
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それからまた、各自の悪徳は、それぞれの職業とおなじように、専門の知識を要求し、それをひろくきわめさせる、各自はそんな知識を得々と人まえで弁じたてずにはいられない。倒錯者は倒錯者たちを嗅ぎだし、社交界に招かれたデザイナーは、まだこちらと話をまじえないのに、もうこちらの服地に目をつけ、その指は生地のよしあしをさわってみたくていらいらしているし、歯科医を訪ねて、しばらく話をまじえたのちに、こちらについて忌憚のない意見をきいてみると、彼はこちらの虫歯の数をいうだろう。彼にはこれよりも重大に見えることはないのだが、そういう彼自身の虫歯に気がついたこちらにとっては、これほどこっけいなことはない。そして、われわれが他人を盲目だと思うのは、われわれが自分のことを話しているときばかりではない。われわれはいつも他人が盲目であるかのようにふるまっている。われわれには、一人一人に、特別の神がついていて、その神が、われわれの欠点にかくれ蓑をかけてわれわれからかくし、他人には見えないという保証をしてくれているのであって、同様に、その神は、からだを洗わない人々にたいして、耳にためた垢の筋や、腋の下から発する汗の匂に、目をとじ鼻腔をふさがせ、誰もそれと気づかないであろう社交界へ、それぞれその垢の筋や汗の匂をもちこんでも平気だという確信をあたえるのだ。そしてイミテーションの真珠を身につけたり、贈物にしたりする人は、それがほんものに見られるだろうと想像するのである。(プルースト「花咲く乙女たちのかげに」)
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われわれに似そこなっている人間がそそる反発
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われわれとは正反対の人間よりも、むしろわれわれに似そこなっている人間がそそる反発がそれであって、われわれはそういった人間のなかに自分がもっているよくない部分を見せつけられるのであり、自分がやっとそこから救われた欠点が、いまの状態になるまでに自分が人からそう思われていたにちがいなかったものをいまいましく思いださせるのである。(プルースト「花咲く乙女たちのかげに」)
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外部から見たわれわれ自身の欠点は、われわれをやりきれなくする
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人は自分に似ているものをいやがるのがならわしであって、外部から見たわれわれ自身の欠点は、われわれをやりきれなくする。自分の欠点を正直にさらけだす年齢を過ぎて、たとえば、この上なく燃え上がる瞬間でもつめたい顔をするようになった人は、もしも誰かほかのもっと若い人かもっと正直な人かもっとまぬけな人が、おなじ欠点をさらけだしたとすると、こんどはその欠点を、以前にも増してどんなにかひどく忌みきらうことであろう! 感受性の強い人で、自分自身がおさえている涙を他人の目に見てやりきれなくなる人がいるものだ。愛情があっても、またときには愛情が大きければ大きいほど、分裂が家族を支配することになるのは、あまりにも類似点が大きすぎるせいである。(プルースト「囚われの女」)
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