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2020年9月11日金曜日

貴族的読者になる方法


むかしを懐かしんでもしょうがないということはあるけどさ
当時は一枚のレコードを手に入れたら
それが期待外れでもやっぱり何度かはきいた
そしたら思いがけなく好きになることが何度もあった
みにくくみえた女がとても親しい女になった
高校時代にきいたバッハのオルガン小曲なんてのはだいたいこんな感じだった
あれは、くらがりにうごめくはっきりしない幼虫ばっかりだからな
ボクの後期フォレ好きはなによりもまずこれだろうな
フォレの向こうにはバッハのオルゲルビュッヒラインがある

この音楽のなかで、くらがりにうごめくはっきりしない幼虫 larves obscures alors indistinctes のように目につかなかったいくつかの楽節が、いまはまぶしいばかりにあかるい建造物になっていた。そのなかのある楽節はうちとけた女の友人たちにそっくりだった、はじめはそういう女たちに似ていることが私にはほとんど見わけられなかった、せいぜいみにくい女たちのようにしか見えなかった、ところが、たとえば最初虫の好かなかった相手でも、いったん気持が通じたとなると、思いも設けなかった友人を発見したような気にわれわれがなる、そんな相手に似ているのであった。(プルースト「囚われの女」)

今はYoutubeなどでいくらでもきける
冒頭のさわりをきいて面白くなければすぐに次へ
注目している演奏家のものでなければボクも完全にこうだ
じっくり我慢してきくことはなくなってゆく
とすれば演奏家だって聴き手を驚かす風に演奏する傾向が生まれる
内省的な演奏は少なくなる

本だって同じだろうね、
このネットの時代、

昔のような読書のひまを再び見出すこと、貴族的な読者になること。retrouver […] le loisir des anciennes lectures : être des lecteurs aristocratiques. (ロラン・バルト「テクストの快楽」1973年)

ーーなんてこと言っても無駄さ。

でも現在、貴族的読者になる方法はないではないよ

私は監獄で「花咲く乙女たちのかげに」を読んだ。最初の巻だ。我々は監獄の中庭にいて、こっそり本を交換していた。戦争中のことだった。さほど本に気を取られていなかったので、私は後回しだった。「ほれ、おまえのぶんだ」と言われた。それがマルセル・プルーストだった。私は独語した。「こりゃ、きっとうんざりさせられるぞ」。ところがだ。どうか、私のいうことを信じて欲しい。かならずしもいつも私があなたに対して誠実ではないとしても、これだけは信じてもらいたい。私は「花咲く乙女たちのかげに」の出だしのフレーズを読んだ。それはプルーストつまり書き手の父母の家に、夕食に招かれたノルポワ氏を紹介する場面だ。そのフレーズはとても長い。そこを読み終えたとき、私は本を閉じ、自分に言い聞かせた。「もう、心配無用だ。これから私はめくるめく想いをするに違いない」。最初のフレーズは密で美しかった。この胸の高鳴りが燎原の火をもたらす最初の炎だった。元に戻るのにほとんど丸一日かかった。夜になって、ようやく私は再び本を開いた。そして、まさしく、めくるめく想いが押し寄せてくるのだった。(ジャン・ジュネ Jean Genet L'ennemi declare)

今の若い人がプルーストのたぐいをじっくり読むには
刑務所入るぐらいしかないんじゃないかね