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2020年9月12日土曜日

なぜ人は美に感動するのか

プルーストは1920年、「無意識の再想起ressouvenirs inconscientsの上に私の全芸術論をすえる」と言っているが、これは全芸術の基礎は、無意識の再想起にあるという考え方である。

ある人びとは、よく文芸に通じた人でさえも、 『スワン家の方へ』のなかに、ヴェールで隠されてはいるが厳密な構成があることを正しく認識せずに (この構成は大きく広げたコンパスの両足のように隔てられており、ある一節と対象をなす節、原因と結果とが、互いに広い間隔をおいているので、おそらく識別するのがいっそう困難なのであろうが) 、私の小説は観念連合の偶然の法則に従ってつながっている思い出を集めたようなものだと信じ込んだ。
Dans , certaines personnes, Du côté de chez Swann mêmes très lettrées, méconnaissant la composition rigoureuse bien que voilée et peut-être plus difficilement discernable parce qu'elle était à large ouverture de compas et que le morceau symétrique d'un premier morceau, la cause et l'effet, se trouvaient à un grand intervalle l'un de l'autre crurent que ) mon roman était une sorte de recueil de souvenirs, s'enchaînant selon les lois fortuites de l'association des idées. 
このとんでもない主張を援けるために、彼らは、紅茶にひたした数片の「マドレーヌ菓子」が、私に( 「わたし」と言っているのは少なくとも語り手にであって、それはかならずしもこの私のことではない)作品の冒頭では忘れられていた生涯の一時期をすっかり思い出させるという場面を例に引いたのだった。
Elles citèrent à l'appui de cette contre-vérité, des pages où quelques miettes de « madeleine », trempées dans une infusion, me rappellent ou du moins rappellent au narrateur qui dit « je » ( et qui n'est pas toujours moi tout un temps de ma vie, oublié dans la ) première partie de l'ouvrage. 
ところで、私は作品の最後の巻―ーまだ刊行されていない―ーで、無意識の再想起の上に私の全芸術論をすえるのだが、 今この無意識の再想起に私が見出した価値はさておき、 ただ構成という観点のみにしぼれば、 私は単に一つの面から別の面に移るのに、事実を用いずに、接ぎ目としてもっと純粋でもっと貴重と思われるもの、つまり一つの記憶現象を使用したというだけである。
Or, sans parler en ce moment de la valeur que je trouve à ces ressouvenirs inconscients sur lesquels j'asseois, dans le dernier volume non encore publié de mon œuvre, toute ma théorie de l'art, et ― ― pour m'en tenir au point de vue de la composition, j'avais simplement pour passer d'un plan à un autre plan, usé non d'un fait, mais de ce que j'avais trouvé plus pur, plus précieux comme jointure, un phénomène de mémoire. (Marcel Proust, « À propos du “ style ” de Flaubert » , 1er janvier 1920)


たぶん、ふつうの人は「まさか!」と言うだろう、無意識の再想起が全芸術の基礎だって? そんなことあるわけない!と。

ここではほんとうにマサカ!なのかを考えるための糸口だけを示そう。

フロイトの無意識には大きく二種類あって、抑圧の無意識と原抑圧(排除)の無意識である。前者は言語内の無意識、後者の排除の無意識は言語外、つまり身体の無意識である。プルーストがいう無意識は「排除された=解離された」身体の無意識である参照。プルーストが当初『失われた時を求めて』の題名として考えていた「心の間歇intermittence du cœur 」とはこの身体的な無意識の再想起に相当する

記憶の混濁 [troubles de la mémoire ]には心の間歇 [les intermittences du cœur] がつながっている。われわれの内的な機能の所産のすべて、すなわち過去のよろこびとか苦痛とかのすべて [tous nos biens intérieurs, nos joies passées, toutes nos douleurs]が、いつまでも長くわれわれのなかに所有されているかのように思われるとすれば、それはわれわれの身体の存在 [l'existence de notre corps]のためであろう、身体はわれわれの霊性が封じこまれている瓶[un vase où notre spiritualité serait enclose]のように思われているからだ。(プルースト「ソドムとゴモラ」)

ーードゥルーズ は「霊性が封じこまれている瓶」をおそらく念頭にしてだろう、レミニサンスは《魂の状態の中に書き込まれる inscrits dans un état d'âme。》(プルーストとシーニュ』「アンチロゴス」の章、第2版、1970年)にかかわるとした。


さて、この「身体の無意識」は、ラカンの表現ならリアルな症状としての「身体の出来事」(身体の上への刻印)、ロラン・バルトの表現なら「身体の記憶」である。

症状は刻印である。現実界の水準における刻印である。Le symptôme est l'inscription, au niveau du réel,(Lacan, LE PHÉNOMÈNE LACANIEN, 1974)
症状は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)
享楽は身体の出来事である。享楽=身体の出来事はトラウマの審級にある。衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。 la jouissance est un événement de corps […]la jouissance, elle est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard 。それは固着の対象である elle est l'objet d'une fixation. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)

私の身体は、歴史がかたちづくった私の幼児期である mon corps, c'est mon enfance, telle que l'histoire l'a faite。…匂いや疲れ、人声の響き、競争、光線など des odeurs, des fatigues, des sons de voix, des courses, des lumières、…失われた時の記憶 le souvenir du temps perdu を作り出すという以外に意味のないもの…(幼児期の国を読むとは)身体と記憶 le corps et la mémoireによって、身体の記憶 la mémoire du corpsによって、知覚することだ。(ロラン・バルト「南西部の光 LA LUMIÈRE DU SUD-OUEST」1977年)

ラカンの「身体の出来事」あるいは「リアルな刻印」とは、フロイトが『モーセ』1939で「自己身体の上への出来事 Erlebnisse am eigenen Körper もしくは感覚知覚 Sinneswahrnehmungen 」としてのトラウマと呼んだものと等価である。

トラウマとはラカン派語彙では穴でもある(フロイト語彙では「エロスの引力」)。

ラカンの現実界は、フロイトがトラウマと呼んだものである。ラカンの現実界は常にトラウマ的である。それは言説のなかの穴である。ce réel de Lacan […], c'est ce que Freud a appelé le trauma. Le réel de Lacan est toujours traumatique. C'est un trou dans le discours.  (J.-A. Miller, La psychanalyse, sa place parmi les sciences, mars 2011)

フロイトラカン的観点からは、プルーストはこのトラウマ的な身体の出来事の回帰が全芸術の基礎だと言っているという風に捉えうる。

ここでのトラウマとは《語りとしての自己史に統合されない「異物」》(中井久夫「発達的記憶論」2002年)という意味である。異物Fremdkörper、すなわち異者としての身体であり、「エスのなかに置き残されたリアルな身体」である(参照)。


このエスに置き残された身体ーー「リビドーの身体 le corps libidinal」とも呼ばれるーーの回帰は、レミニサンス語彙で示すこともできる。

これは極めて現実的な(リアルな)書 livre extrêmement réel だが、 「無意志的記憶 mémoire involontaire」を模倣するために、…いわば、恩寵 grâce により、「レミニサンスの花柄 pédoncule de réminiscences」により支えられている。 (Comment parut Du côté de chez Swann. Lettre de M.Proust à René Blum de février 1913)
私は…問題となっている現実界 le Réel en questionは、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値 valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme を持っていると考えている。…これは触知可能である…人がレミニサンスと呼ぶもの qu'on appelle la réminiscence に思いを馳せることによって。…レミニサンスは想起とは異なる la réminiscence est distincte de la remémoration。(ラカン、S.23, 13 Avril 1976)


ーーラカンが《現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire》 (S 25, 1978)というとき、身体の上へのリアルな刻印は回帰するという意味である。

さてどうだろう、プルーストはトラウマ的な身体の記憶の回帰が全芸術の基礎だと言っているのである、われわれの過去と、その過去が刻印された肉体の傷 notre passé, et les lésions physiques où il s'est inscrit,》 (「逃げ去る女」)の再想起ressouvenirs が全芸術の基礎だと。

あるいはあなたが芸術の美に感動する起源は、あなたの傷の回帰にあると。

美には傷以外の起源はない。どんな人もおのれのうちに保持し保存している傷、独異な、人によって異なる、隠れた、あるいは眼に見える傷、その人が世界を離れたくなったとき、短い、だが深い孤独にふけるためそこへと退却するあの傷以外には。Il n’est pas à la beauté d’autre origine que la blessure, singulière, différente pour chacun, cachée ou visible, que tout homme garde en soi, qu’il préserve et où il se retire quand il veut quitter le monde pour une solitude temporaire mais profonde. (ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』1958年)


以上、この記事でのトラウマあるいは傷という語には充分に注意を払わなければならない。「心の間歇」の引用箇所で、《われわれの内的な機能の所産のすべて、すなわち過去のよろこびとか苦痛とかのすべて [tous nos biens intérieurs, nos joies passées, toutes nos douleurs]》とあったので誤解はないだろうとはいえ、以下に二文を引用して再確認しておく。


PTSDに定義されている外傷性記憶……それは必ずしもマイナスの記憶とは限らない。非常に激しい心の動きを伴う記憶は、喜ばしいものであっても f 記憶(フラッシュバック的記憶)の型をとると私は思う。しかし「外傷性記憶」の意味を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」の意味にとれば外傷的といってよいかもしれない。(中井久夫「記憶について」1996年)
「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」とその「反復強迫Wiederholungszwang」は、標準的自我 normale Ich と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)