主にカントの崇高とラカンの享楽をめぐる。
法外の崇高という引力と斥力の深淵 |
自然における崇高の表象に遭遇して、心は動揺を感じる。他方、自然における美についての美的判断は、安らぎを与える観想のなかにある。崇高による動揺は、衝撃に比較しうる。たとえば斥力と引力 Abstoßen und Anziehen の目まぐるしい変貌に。この、構想力(想像力)にとっての法外のもの überschwenglicheは、あたかも深淵 Abgrundであり、その深淵で構成力は自らを失うことを恐れる。 |
Das Gemüt fühlt sich in der Vorstellung des Erhabenen in der Natur bewegt: da es in dem ästhetischen Urteile über das Schöne derselben in ruhiger Kontemplation ist. Diese Bewegung kann […] mit einer Erschütterung verglichen werden, d. i. mit einem schnellwechselnden Abstoßen und Anziehen […]. Das überschwengliche für die Einbildungskraft[…] ist gleichsam ein Abgrund, worin sie sich selbst zu verlieren fürchtet; (カント『判断力批判』27章) |
崇高という不快 |
崇高の感情の質は、不快の感情によって構成されている。対象を判断する能力についての不快 Unlustである。だが同時に合目的である。この合目性を可能とするものは、主体自身の不可能性が無限の能力の意識を掘り起こし、かつ心はこの不可能性を通してのみ、無限の能力を美的に判断しうるから。 |
Die Qualität des Gefühls des Erhabenen ist: daß sie ein Gefühl der Unlust über das ästhetische Beurteilungsvermögen an einem Gegenstande ist, die darin doch zugleich als zweckmäßig vorgestellt wird; welches dadurch möglich ist, daß das eigne Unvermögen das Bewußtsein eines unbeschränkten Vermögens desselben Subjekts entdeckt, und das Gemüt das letztere nur durch das erstere ästhetisch beurteilen kann. (カント『判断力批判』27章) |
上の二つの文はいくらか「傾向的な」私訳だが、ーーとくに「斥力と引力 Abstoßen und Anziehen」とは誰もそう訳していないだろうーーおおむねこうではある。 |
傾向的というのは、フロイトのエロスの引力(ラカンの享楽の穴)を視界におさめた訳だから。 |
同化/反発化 Mit- und Gegeneinanderwirken という二つの基本欲動 Grundtriebe (エロスと破壊)の相互作用は、生の現象のあらゆる多様化を引き起こす。二つの基本欲動のアナロジーは、非有機的なものを支配している引力と斥力 Anziehung und Abstossung という対立にまで至る。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年) |
ーー「引力と斥力 Anziehung und Abstossung」とは、古来からの表現、ラテン語の「魅惑と戦慄 fascinans et tremendum」で相同的である。 崇高と享楽について、ラカン 読みでありカント読みでもあるアレンカ・ジュパンチッチAlenka Zupančičは "The Splendor of Creation: Kant, Nietzsche, Lacan"(2013)にて、カントの崇高は、ラカンの享楽にきわめて近似していると言っている。 たとえば次の美の定義は、快原理の彼岸にある享楽であり、カント的崇高に近い。 |
美は、欲望の宙吊り・低減・武装解除の効果を持っている。美の顕現は、欲望を威嚇し中断する。…que le beau a pour effet de suspendre, d'abaisser, de désarmer, dirai-je, le désir : le beau, pour autant qu'il se manifeste, intimide, interdit le désir.(ラカン、S7、18 Mai 1960) |
ここに享楽があるのは、次の文とともに読めばよい。 |
欲望は防衛である。享楽へと到る限界を超えることに対する防衛である。le désir est une défense, défense d'outre-passer une limite dans la jouissance.( ラカン、E825、1960年) |
しかも欲望とは法内のもの(象徴界内)であり、享楽は法外のもの(現実界)である。 |
欲望は欲望の欲望、大他者の欲望である。欲望は法に従属している Le désir est désir de désir, désir de l'Autre, avons-nous dit, soit soumis à la Loi (ラカン、E852、1964年) |
私は、現実界は法のないものに違いないと信じている。〔・・・〕真の現実界は法の不在を意味する 。現実界は秩序を持たない。je crois que le Réel est, il faut bien le dire, sans loi […] Le vrai Réel implique l'absence de loi. Le Réel n'a pas d'ordre. (ラカン, S23, 13 Avril 1976) |
つまり、カントの「法外の崇高という引力と斥力の深淵」とともに読むことができる。 |
カントは崇高は不快だと言っているのを上で示したが、その前提でさらに次の文を読むことができる。 |
不快は享楽以外の何ものでもない déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance. (Lacan, S17, 11 Février 1970) |
欲動強迫[insistance pulsionnelle ]が快原理と矛盾するとき、不安と呼ばれる不快ある[il y a ce déplaisir qu'on appelle angoisse.。これをラカン は一度だけ言ったが、それで十分である。ーー《不快は享楽以外の何ものでもない déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance. 》ーー、すなわち不安は現実界の信号であり、モノの索引である[l'angoisse est signal du réel et index de la Chose]。定式は《不安は現実界の信号l'angoisse est signal du réel》である。(J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6. - 02/06/2004) |
ところで、柄谷行人は『トランスクリティーク』でラカンのボロメオの環に言及しながら、カント概念について左図のように示せる内容を、10年後の『世界史の構造』では直接的に右図を提示している。
ここでは右の概念についてだけ、カントがどう言っているかを示す。 |
感性的直観の多様を結合するのは想像力(構想力)であるが、想像力は、その知的総合の統一に関しては悟性に、把捉の多様に関しては感性に依存する。 das Mannigfaltige der sinnlichen Anschauung verknuepft, Einbildungskraft, die vom Verstande der Einheit ihrer intellektuellen Synthesis, und von der Sinnlichkeit der Mannigfaltigkeit der Apprehension nach abhaengt.(カント『純粋理性批判』) |
さてかりに柄谷の図式を受け入れるなら、崇高の表象はどのポジションにおけるだろうか。
まぎれもなく、悟性という知の法の外部にある想像力と感性の重なり目の次のポジションである。
ラカンマテームでは、崇高の表象のポジションはS(Ⱥ)である。 |
ラカンの「現実界は無法」(法なき現実界)の形式は、まさに正しくS(Ⱥ)と翻訳しうる。無法とは、Ⱥである。la formule le réel est sans loi est très bien traduite par grand S de A barré. Le sans loi, c'est le A barré. (J.-A. MILLER, - Pièces détachées - 13/04/2005) |
S(Ⱥ)とは穴あるいはモノの境界表象 Grenzvorstellung を意味する。 |
フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ。La Chose freudienne […] ce que j'appelle le Réel (ラカン, S23, 13 Avril 1976) |
モノは享楽の名である。das Ding[…] est tout de même un nom de la jouissance(J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XX, 10 juin 2009) |
モノとしての享楽は穴と等価である。la jouissance comme la Chose est équivalente à l'Autre barré [Ⱥ] (J.-A. MILLER, Les six paradigmes de la jouissance, 1999) |