このブログを検索

2020年10月2日金曜日

女の中核

女というものが何だか知りたければ、ひとりで考えてないで、あるいは三文文学者やら三文思想家に依拠していないで、ーーどうせ一流の文学書読んでも三文化して読むんだからすべては三文書さーーより具体的な記述のある先行研究を覗いてみたらどうだろうね。


それをもっているために女であり、そのために男を誘惑し、それが原因でおとしめられ、女の中核でありながら、女自身から最も女が遠ざけられているもの (上野千鶴子『女遊び』1988年)



真の女は女性器である

真の女は常にメデューサである。une vraie femme, c'est toujours Médée. (J.-A. Miller, De la nature des semblants, 20 novembre 1991)

メドゥーサの首は女性器を代表象する。das Medusenhaupt die Darstellung des weiblichen Genitales ersetzt, . (フロイト、メデューサの首 Das Medusenhaupt(1940 [1922])  


真の女は穴である

メドゥーサの首の裂開的穴は、幼児が、母の満足の探求のなかで可能なる帰結として遭遇しうる、貪り喰う形象である。Le trou béant de la tête de MÉDUSE est une figure dévorante que l'enfant rencontre comme issue possible dans cette recherche de la satisfaction de la mère.(ラカン、S4, 27 Février 1957)

構造的な理由により、女の原型は、危険な・貪り喰う大他者との同一化がある。それは起源としての原母 [primal mother] であり、元来彼女のものであったものを奪い返す存在である。したがって原母は純粋享楽の本源的状態[original state of pure jouissance]を再創造しようとする。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL、1995年)

〈大文字の母〉、その基底にあるのは、「原リアルの名」である。それは、「母の欲望」であり、「原穴の名  」である。Mère, au fond c’est le nom du premier réel, DM (Désir de la Mère)c’est le nom du premier trou(コレット・ソレール Colette Soler, Humanisation ? , 2014)

母は巨大な鰐 Un grand crocodile のようなものだ、母なる鰐の口 boucheのあいだにあなたはいる。これが母だ、ちがうだろうか? あなたは決して知らない、この鰐が突如襲いかかり、その顎を閉ざすle refermer son clapet かもしれないことを。これが母の欲望 le désir de la mère である。(ラカン、S17, 11 Mars 1970)


ひとりの女は女性器である

ひとりの女は異者である。 une femme […] c'est une étrangeté.  (Lacan, S25, 11  Avril  1978)

異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである。…étrange au sens proprement freudien : unheimlich (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)

女性器は不気味なものである。das weibliche Genitale sei ihnen etwas Unheimliches. 

しかしこの不気味なものは、人がみなかつて最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷への入口である。Dieses Unheimliche ist aber der Eingang zur alten Heimat des Menschenkindes, zur Örtlichkeit, in der jeder einmal und zuerst geweilt hat.

「愛は郷愁だ」とジョークは言う。 »Liebe ist Heimweh«, behauptet ein Scherzwort,

そして夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女性器、あるいは母胎であるとみなしてよい。und wenn der Träumer von einer Örtlichkeit oder Landschaft noch im Traume denkt: Das ist mir bekannt, da war ich schon einmal, so darf die Deutung dafür das Genitale oder den Leib der Mutter einsetzen. 


したがっての場合においてもまた、不気味なものはこかつて親しかったもの、昔なじみのものである。この言葉(unhemlich)の前綴 un は抑圧の徴なのである。

Das Unheimliche ist also auch in diesem Falle das ehemals Heimische, Altvertraute. Die Vorsilbe » un« an diesem Worte ist aber die Marke der Verdrängung. (フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年)







J.-A. Miller, Un répartitoire sexuel, 1999

「持つこと」の水準には、厳密にリアルなペニスがある。それは、パートナーの一方に属し、他方には属さないものである。われわれはそれをシンプルにプラスマイナスで書く。「ある」と「ない」である。au niveau de l'avoir, précisément du pénis réel […] Nous l'écrivons, […] en opposant simplement le plus et le moins, le il y a et le il n'y a pas.  


対象の項において、男性側では対象は、フェティッシュの形式[la forme du fétiche]を取る。フェティッシュは基本の対象であり、対象aである[objet de base, l'objet petit a]。…フェティッシュはもちろん対象aの特徴を強調するが、対象aのひとつのヴァージョンに過ぎない。[Le fétiche, bien sûr, accentue le caractère de l'objet petit a. Ce n'est qu'une des versions de l'objet a]。


女性側の被愛妄想érotomanieはフェティッシュに比べ、より対象的はなくmoins objectal、愛を支える対象un objet support de l'amourであり、ラカンは穴Ⱥと徴した。

ラカンは繰り返し強調している、愛があるところには、去勢の条件があると。この理由で、愛の大他者は彼が持っているものを剥奪されなければならない。Lacan a souligné, de façon répétitive, que, pour qu'il y ait de l'amour, il y a une condition de castration. C'est pourquoi Lacan pouvait dire que, pour une femme, l'Autre de l'amour doit être privé de ce qu'il donne.  


欲望の原因 cause du désirの項において、剰余享楽と愛の対立opposition entre le plus-de-jouir et, de l'autre côté, l'amourがある。さらにこの愛を強調すれば「狂気の愛 amour fou」である。この意味は何か。アンドレ・ブルトンの書名であるが、この「狂気の」という形容詞は、本質として限度なき愛を示す[amour, par essence, est sans limite]。


ラカンの定義において、「愛はあなたが持っていないものを与える l'amour est donner ce qu'on n'a pas」である。愛は、持つことの完膚なきまでの廃棄[annulation complète de l'avoir]にある。…これが構造Ⅲにて示したものである。左側には有限[le limité]、右側には無限[l'illimité]がある。この無限は、持つことの彼岸としての愛の地位[statut de l'amour comme au-delà de l'avoir]から還元したものである。

享楽の様式 modes-de-jouir の項の左側に症状、右側に破壊[à gauche le symptôme et à droite le ravage]を記す。


破壊は、愛の別の顔である。破壊と愛は同じ原理をもつ。すなわち穴の原理である。穴とは、「限度なき」という意味での非全体である。Le terme de ravage,[…]– que c'est l'autre face de l'amour. Le ravage et l'amour ont le même principe, à savoir grand A barré, le pas-tout au sens du sans-limite. 


他方、症状は常に有限の苦痛・局地化された苦痛である。le symptôme, c'est une souffrance toujours limitée, une souffrance localisée.  (J.-A. Miller, Un répartitoire sexuel, 1999、摘要訳)



……………………




女が真実を語るのは、言葉でなしに、からだでだ。(坂口安吾「恋をしに行く」1947年) 

素子とは何者であるか? 谷村の答へはたゞ一つ、素子は女であつた。そして、女とは? 谷村にはすべての女がたゞ一つにしか見えなかつた。女とは、思考する肉体であり、そして又、肉体なき何者かの思考であつた。この二つは同時に存し、そして全くつながりがなかつた。つきせぬ魅力がそこにあり、つきせぬ憎しみもそこにかゝつてゐるのだと谷村は思つた。 (坂口安吾「女体」1946年)


女性はそもそも、いろんな点でお月さまに似てをり、お月さまの影響を受けてゐる。(三島由紀夫「反貞女大学」1966年)

男と女の一等厄介なちがいは、男にとっては精神と肉体がはっきり区別して意識されているのに、女にとっては精神と肉体がどこまで行ってもまざり合っていることである。女性の最も高い精神も、最も低い精神も、いずれ肉体と不即不離の関係に立つ点で、男の精神とはっきりちがっている。(三島由紀夫「不道徳教育講座」1959年)


男がものごとを考える場合について、頭と心臓をふくむ円周を想定してみる。男はその円周で、思考する。ところが、女の場合には、頭と心臓の円周の部分で考えることもあるし、子宮を中心にした円周で考えることもある。(吉行淳之介『男と女をめぐる断章』1977年)

まったく、男というものには、女性に対してとうてい歯のたたぬ部分がある。ものの考え方に、そして、おそらく発想の根源となっている生理のぐあい自体に、女性に抵抗できぬ弱さがある。(吉行淳之介「わたくし論」1966年)



…………………



言葉の斜線的なものは、直っ直ぐなものに戻さなければならない。だから「あなたはチャーミングだ」は、「君を抱いたら気持ちよくなるよ」に均しい。

The verbal oblique must be restored to the upright : thus 'you are charming' equals 'it gives me pleasure to embrace you.'(ベケット『プルースト』 大貫三郎訳 p101)


いうまでもなく、真の生活を再創造すること、過去の印象を若がえらせることは、大きな誘惑であった。しかしそのためにはあらゆる種類の勇気、感傷を克服する勇気さえ、必要なのであった。なぜなら、それは、第一にわれわれのもっとも親しい幻影をすてることであり、またわれわれが自分で苦労してつくりあげてきたものの客観性を信じるのをやめることであり、ついで、「彼女はほんとに魅力的だった elle était bien gentille »」などといって性懲りもなく自分をごまかさないで、逆に、「彼女とヤルことに快感をもった j'avais du plaisir à l'embrasserにずばり改めるべきだからである。なるほどそのような恋の時間に私が感じとったものは、すべての男たちもまたそれを感じとるものなのだ。(プルースト「見出された時」)