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2020年10月2日金曜日

プルースト的精神医学における「排除された異者」


プルーストが書いたもののなかで、おそらく最も偉大な一章であるものーー「心の間歌」を、このように読者が概括し分析することなどおやめなさいと、心からお勧めしたい。(ベケット『プルースト』1931年)


…………

さて何度も掲げている中井久夫のーー私にはきわめてすぐれたと感じられるーープルースト的精神医学における「解離=排除された異者」の指摘だが、まずそれを再掲する。

プルースト的精神医学

もしフロイトが存在しなかったとすれば、二十世紀の精神医学はどういう精神医学になっていたでしょうかね」と私は問うた。問うた相手はアンリ・F・エランベルジュ先生。(……)


先生は少し考えてから答えられた。「おそらくプルースト的な精神医学になっただろうね、あるいはウィリアム・ジェームスか」(中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」2007年)


心の間歇と解離

プルースト的精神医学といえば、まず「心の間歇」と訳される intermittence du cœur が頭ん浮かぶだろう。『失われた時を求めて』は精神医学あるいは社会心理学的な面が大いにあり、社交心理学ないし階級意識の心理学など、対人関係論的精神医学を補完する面を持つにちがいないが、著者自身が小説全体の題に「心の間歇」を考えていた時期があることをみれば、まず、この概念を取り上げるのが正当だろう。フロイトの「抑圧」に対して「解離」を重視するのがピエール・ジャネにはじまる十九世紀フランス精神医学である。(中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」2007)


解離=排除 Verwerfung

サリヴァンも解離という言葉を使っていますが、これは一般の神経症論でいる解離とは違います。むしろ排除です。フロイトが「外に放り投げる」という意味の Verwerfung という言葉で言わんとするものです。(中井久夫「統合失調症とトラウマ」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)


解離:言語以前(抑圧:言語内)

解離とその他の防衛機制との違いは何かというと、防衛としての解離は言語以前ということです。それに対してその他の防衛機制は言語と大きな関係があります。…解離は言葉では語り得ず、表現を超えています。その点で、解離とその他の防衛機制との間に一線を引きたいということが一つの私の主張です。PTSDの治療とほかの神経症の治療は相当違うのです。


⋯⋯)侵入症候群の一つのフラッシュバックはスナップショットのように一生変わらない記憶で三歳以前の古い記憶形式ではないかと思います。三歳以前の記憶にはコンテクストがないのです。⋯⋯コンテクストがなく、鮮明で、繰り返してもいつまでも変わらないというものが幼児の記憶だと私は思います。(中井久夫「統合失調症とトラウマ」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)


心の間歇と遅発性外傷障害

「心の間歇 intermittence du cœur」は「解離 dissociation」と比較されるべき概念である。〔・・・〕

解離していたものの意識への一挙奔入…。これは解離ではなく解離の解消ではないかという指摘が当然あるだろう。それは半分は解離概念の未成熟ゆえである。フラッシュバックも、解離していた内容が意識に侵入することでもあるから、解離の解除ということもできる。反復する悪夢も想定しうるかぎりにおいて同じことである。(中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」2007年)

遅発性の外傷性障害がある。〔・・・〕これはプルーストの小説『失われた時を求めて』の、母をモデルとした祖母の死後一年の急速な悲哀発作にすでに記述されている。ドイツの研究者は、遅く始まるほど重症で遷延しやすいことを指摘しており、これは私の臨床経験に一致する。(中井久夫「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・外傷・記憶』)


不変の刻印のフラッシュバック

PTSDに定義されている外傷性記憶〔・・・〕それは必ずしもマイナスの記憶とは限らない。非常に激しい心の動きを伴う記憶は、喜ばしいものであっても f 記憶(フラッシュバック的記憶)の型をとると私は思う。しかし「外傷性記憶」の意味を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」の意味にとれば外傷的といってよいかもしれない。(中井久夫「記憶について」1996年)


➡︎「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma =不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」(Freud, 1939)


自己史に統合されない「異物」のフラッシュバック

外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)



フロイトラカンにおいて、この「異物」は種々の語彙や表現で示されるが、次の表現群はすべて等価である。




ところで最近、プルーストのなかにこの「異物=異者」を見出したのである。



見知らぬやつ(異者)はかつての少年の私だった 

l'étranger c'était l'enfant que j'étais alors

私の現時の思考とあまりにも不調和な何かの印象に打たれたような気がして、はじめ私は不快を感じたが、ついに涙を催すまでにこみあげた感動とともに、その印象がどんなに現時の思考に一致しているかを認めるにいたった。(…)最初の瞬間、私は腹立たしくなって、誰だ、ひょっこりやってきておれの気分をそこねた見知らぬやつは、と自問したのだった。その見知らぬやつは、私自身だった、当時の少年の私だった。(プルースト「見出された時」)

je me sentis désagréablement frappé comme par quelque impression trop en désaccord avec mes pensées actuelles, jusqu'au moment où, avec une émotion qui alla jusqu'à me faire pleurer, je reconnus combien cette impression était d'accord avec elles.[…] Je m'étais au premier instant demandé avec colère quel était l'étranger qui venait me faire mal, et l'étranger c'était moi-même, c'était l'enfant que j'étais alors, Le temps retrouvé (Deuxième partie)   La Bibliothèque électronique du Québec, p40)



これは幼児期の無意志的回想あるいはレミニサンスにかかわる異者である。



現実界=異者はレミニサンスする

フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ。La Chose freudienne […] ce que j'appelle le Réel (ラカン, S23, 13 Avril 1976)

モノをフロイトは異者(異物)とも呼んだ。das Ding[…] ce que Freud appelle Fremde – étranger. (J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 26/04/2006)

私は問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値をもっていると考えている。これを「強制 forçage」呼ぼう。これを感じること、これに触れることは可能である、「レミニサンスréminiscenceと呼ばれるものによって。

Je considère que […] le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme. […] Disons que c'est un forçage.  [] c'est ça qui rend sensible, qui fait toucher du doigt… mais de façon tout à fait illusoire …ce que peut être ce qu'on appelle la réminiscence.   (Lacan, S23, 13 Avril 1976)



次にフロイトから引いて確認しよう。


異物=内界にある自我の異郷部分

エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。〔・・・〕われわれはこのエスの欲動蠢動を、異物(異者としての身体 Fremdkörper)ーーたえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状と呼んでいる。〔・・・〕この異物は内界にある自我の異郷部分である。Triebregung des Es […] ist Existenz außerhalb der Ichorganisation […] der Exterritorialität, […] betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen […] das ichfremde Stück der Innenwelt (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)


まさにプルースト の「見知らぬやつ(異者)はかつての少年の私だった l'étranger c'était l'enfant que j'étais alors」の異者は、自我の治外法権、内界にある自我の異郷部分だろう。


そしてこの異物が享楽回帰(反復強迫)の原動因である。


現実界のなかの異物概念は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある。une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance (J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004)



ラカンはこの異物(異者)を「ひとりの女」とも呼んだが、これはファルス秩序(言語秩序)の彼岸にあるリアルな身体という意味をもっており、内的反復強迫をもたらす不気味なものでもある、《unheimlich = inneren Wiederholungszwang》(Freud, 1919)


ひとりの女=異者=不気味なもの=排除された親密なもの

ひとりの女は異者である。 une femme […] c'est une étrangeté.  (Lacan, S25, 11  Avril  1978)

異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである。…étrange au sens proprement freudien : unheimlich (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)

不気味なものは秘密の親しいものであり、一度抑圧をへてそこから回帰したものである。daß Unheimliche das Heimliche-Heimische ist, das eine Verdrängung erfahren hat und aus ihr wiedergekehrt ist, (フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』第3章、1919年)


ーーここでの「抑圧」は「本源的に抑圧されているもの」のことであり、原抑圧(排除)、あるいは固着のことである(参照:原抑圧=固着=排除[Urverdrängung = Fixierung = Verwerfung])。


本源的に抑圧されている要素は、常に女性的なものだと想定しうる。Die Vermutung geht dahin, daß das eigentlich verdrängte Element stets das Weibliche ist (フロイト, Brief an Wilhelm Fließ, 25, mai, 1897)

原抑圧と同時に固着が行われ、暗闇に異者が蔓延る。Urverdrängung[…] Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; […]wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen, (フロイト『抑圧』1915年)

私が排除 forclusion について、その象徴的関係の或る効果を正しく示すなら、…象徴界において抑圧されたもの全ては現実界のなかに再び現れる。というのは、まさに享楽は全き現実界的なものだから。Si j'ai parlé de forclusion à juste titre pour désigner certains effets de la relation symbolique,… tout ce qui est refoulé dans le symbolique reparaît dans le réel, c'est bien en ça que la jouissance est tout à fait réelle. (ラカン、S16, 14 Mai 1969)



以下の文に現れる「取り消し Aufgehobene」も事実上、「排除 forclusion」と同じ内実を持っている(参照)。


欲動蠢動は自動反復の影響の下に起こるーー私はこれを反復強迫と呼ぶのを好むーー。〔・・・〕そして抑圧において固着する要素は無意識のエスの反復強迫であり、これは通常の環境では、自我の自由に動く機能によって取り消し(排除 aufgehoben)されているだけある。Triebregung  […] vollzieht sich unter dem Einfluß des Automatismus – ich zöge vor zu sagen: des Wiederholungszwanges –[…] Das fixierende Moment an der Verdrängung ist also der Wiederholungszwang des unbewußten Es, der normalerweise nur durch die frei bewegliche Funktion des Ichs aufgehoben wird. (フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年、摘要)

内部で取り消されたもの(排除されたもの Aufgehobene)は、外部から回帰する daß das innerlich Aufgehobene von außen wiederkehrt. (フロイト『症例シュレーバー 』第3章、1911年)


実際、排除された異者は、上に掲げたプルーストの無意志的回想の「異者 étranger」のように外部から回帰するように感じられることが多いはずである。遠くからやってくるように、寧ろ彼らが私のけふの日を歌ふやうに。


そしてこの異者による反復強迫は別名「死の欲動」である。


われわれは反復強迫の特徴に、何よりもまず死の欲動を見出だす。

Charakter eines Wiederholungszwanges […] der uns zuerst zur Aufspürung der Todestriebe führte.(フロイト『快原理の彼岸』第6章、1920年)



失われたものを取り戻そうとする不可能な運動、これを死の欲動と呼ぶ。


以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年)

すべての欲動は実質的に、死の欲動である。 toute pulsion est virtuellement pulsion de mort(Lacan, Position de l'inconscient, E848, 1964年)

死の欲動は現実界である。死は現実界の基礎である。La pulsion de mort c'est le Réel […] c'est la mort, dont c'est  le fondement de Réel (Lacan, S23, 16 Mars 1976)


欲動の別名は享楽の意志である。


享楽の意志は欲動の名である。欲動の洗練された名である。Cette volonté de jouissance est un des noms de la pulsion, un nom sophistiqué de la pulsion.. (J.-A. Miller, LES DIVINS DETAILS, 17 MAI 1989)



プルーストの無意志的回想がタナトスであるだろうことは、ドゥルーズが既に1960年代後半に指摘している(ドゥルーズ 研究者においてさえ、現在に至るまでほとんど注目されているように見えないが)➡︎「ドゥルーズ =プルーストの「強制された運動」


以上は、精神医学的にもそれが正しいことを示したに過ぎない。



これらを〔・・・〕精神分析的に解読した場合になる解釈〔・・・〕そんな解釈を得意がって提起するほどわれわれは文学的に破廉恥ではないつもりだ。そうした事実とは、どんな不注意な読者でも見逃しえない図式としてそこに露呈されているだけなのである。(蓮實重彦『小説から遠く離れて』)