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2020年9月20日日曜日

ドゥルーズ =プルーストの「強制された運動」

ここでは、1960年代後半のドゥルーズ のタナトスの定義「強制された運動の機械」は、事実上、プルースト起源であるだろうことを示す。


プルーストの鍵言葉「強制するforcer」
「見出された時」の大きなテーマは、真実の探求が、無意志的なものに固有の冒険だということである。思考は、無理に思考させるもの、思考に暴力をふるう何かがなければ、成立しない。思考より重要なことは、《思考させる》ものがあるということである。哲学者よりも、詩人が重要である。(…)
Le grand thème du Temps retrouvé est celui-ci : la recherche de la vérité est l'aventure propre de l'involontaire. La pensée n'est rien sans quelque chose qui force à penser, qui fait violence à la pensée. Plus important que la pensée, il y a ce qui « donne à penser» ; plus important que le philosophe, le poète. […]
『見出された時』のライトモチーフは、「強制する forcer」という言葉である。われわれに見ることを強制する印象とか、われわれに解釈を強制する出会いとか、われわれに思考を強制する表現、などである。
Le leitmotiv du Temps retrouvé, c'est le mot forcer : des impressions qui nous forcent à regarder, des rencontres qui nous forcent à interpréter, des expressions qui nous forcent à penser.(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「結論 思考のイマージュ」第2版、1970年)

ーー末尾に三つの文だけ引用しておいたが、「見出された時」には実に数多くーーそれもレミニサンスにかかわる核心箇所でーーこの「強制する forcer」という語が使われている。

強制された運動の機械(タナトス)
『失われた時を求めて』のすべては、この書物の生産の中で、三種類の機械を動かしている。

・部分対象の機械(欲動)[machines à objets partiels(pulsions)]
・共鳴の機械(エロス)[machines à résonance (Eros)]
・強制された運動の機械(タナトス)[machines à movement forcé (Thanatos)]である。

このそれぞれが、真理を生産する。なぜなら、真理は、生産され、しかも、時間の効果として生産されるのがその特性だからである。

・失われた時においては、部分対象の断片化による。
・見出された時においては、共鳴による。
・別の仕方における失われた時においては、強制された運動の増幅による。
この失われたものは、作品の中に移行し、作品の形式の条件になっている。
Toute la Recherche met en œuvre trois sortes de machines dans la production du Livre: machines à objets partiels (pulsions), machines à résonance (Eros), machines à mou-vement forcé (Thanatos) . 

Chacune produit des vérités, puisqu'il appartient à la vérité d'être produite, et d'être produite comme un effet de temps : le temps perdu, par fragmentation des objets partiels; le temps retrouvé, par résonance; le temps perdu d'une autre façon, par amplitude du mouvement forcé, cette perte étant alors passée dans l'œuvre et devenant la condi-tion de sa forme. (ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「三つの機械 Les trois machines」第2版 1970年)


以下の文で、ドゥルーズは事実上、強制された運動と無意志的記憶の回帰、死の本能、永遠回帰を等置している(ドゥルーズの永遠回帰をめぐる記述は➡︎「未知の女への恋」を参照)。

強制された運動=無意志的記憶の回帰=死の本能=永遠回帰
エロスは共鳴によって構成されている。だがエロスは、強制された運動の増幅によって構成されている死の本能に向かって己れを乗り越える(この死の本能は、芸術作品のなかに、無意志的記憶のエロス的経験の彼岸に、その輝かしい核を見出す)。プルーストの定式、《純粋状態での短い時間 》が示しているのは、まず純粋過去 、過去のそれ自体のなかの存在、あるいは時のエロス的統合である。しかしいっそう深い意味では、時の純粋形式・空虚な形式であり、究極の統合である。それは、時のなかに永遠回帰を導く死の本能の形式である。
Erôs est constitué par la résonance, mais se dépasse vers l'instinct de mort, constitué par l'amplitude d'un mouvement forcé (c'est l'instinct de mort qui trouvera son issue glorieuse dans l'oeuvre d'art, par-delà les expériences érotiques de la mémoire involontaire). La formule proustienne, « un peu de temps à l'état pur », désigne d'abord le passé pur, l'être en soi du passé, c'est-à-dire la synthèse érotique du temps, mais désigne plus profondément la forme pure et vide du temps, la synthèse ultime, celle de l'instinct de mort qui aboutit à l'éternité du retour dans le temps. (ドゥルーズ 『差異と反復』第2章、1968年)


次はフロイトに触れつつのタナトスメカニズムの記述である。

強制された運動=トラウマ的な固着に条件付けられた反復(自動反復)
強制された運動は、タナトスもしくは反復である。 le mouvement forcé […] c'est Thanatos ou la « compulsion»(ドゥルーズ『意味の論理学』第34のセリー、1969年)
固着と退行概念、それはトラウマと原光景を伴ったものだが、最初の要素である。自動反復=自動機械 [automatisme] という考え方は、固着された欲動の様相、いやむしろ固着と退行によって条件付けれた反復の様相を表現している。

Les concepts de fixation et de régression, et aussi de trauma, de scène originelle, expriment ce premier élément. […] : l'idée d'un « automatisme » exprime ici le mode de la pulsion fixée, ou plutôt de la répétition conditionnée par la fixation ou la régression.(ドゥルーズ『差異と反復』第2章、1968年)

固着と原抑圧は事実上、等価である。ドゥルーズ は次の文で、原抑圧は反復の内的原理だと言っているが、固着が反復の原理だというのと同一である。

エロスとタナトスは、次ののように区別される。すなわち、エロスは、反復されるべきものであり、反復のなかでしか生きられないものであるのに対して、(超越論的的原理 principe transcendantal としての)タナトスは、エロスに反復を与えるものであり、エロスを反復に服従させるものである。唯一このような観点のみが、反復の起源・性質・原因、そして反復が負っている厳密な用語という曖昧な問題において、我々を前進させてくれる。なぜならフロイトが、表象 représentations にかかわる「正式の proprement dit」抑圧の彼岸に au-delà du refoulement、「原抑圧 refoulement originaire」の想定の必然性を示すときーー原抑圧とは、なりよりもまず純粋現前 présentations pures 、あるいは欲動 pulsions が必然的に生かされる仕方にかかわるーー、我々は、フロイトは反復のポジティヴな内的原理に最も接近していると信じるから。(ドゥルーズ『差異と反復』「序」1968年)




さていくらかフロイトを引用して確認しておこう。

◼️まずトラウマ的な固着に条件付けられた反復(自動反復=自動機械)について。

欲動蠢動 Triebregungは「自動反復 Automatismus」を辿る、ーー私はこれを「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯そして固着する契機 Das fixierende Moment は、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es である。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)
トラウマは…自己身体の上への出来事 [Erlebnisse am eigenen Körper ]もしくは感覚知覚[Sinneswahrnehmungen] である。…また疑いなく、初期の自我への傷 [Schädigungen des Ichs ]である。
…これは、トラウマへの固着 [Fixierung an das Trauma]と反復強迫[Wiederholungszwang]の名の下に要約され、標準的自我と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向をもっており、[ unwandelbare Charakterzüge]と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3」1938年

トラウマへの固着という不変の個性刻印による反復強迫が、フロイトにとって、あるいは上に見たようにドゥルーズ にとっても反復強迫=死の本能(死の欲動)である。


そしてドゥルーズ と同じようにフロイトにとってもこの反復強迫が永遠回帰である。

同一の体験の反復の中に現れる不変の個性の徴 gleichbleibenden Charakterzug を見出すならば、われわれは(ニーチェの)「同一のものの永遠回帰 ewige Wiederkehr des Gleichen」をさして不思議とも思わない。…この運命強迫 Schicksalszwang nennen könnte とも名づけることができるようなもの(反復強迫 Wiederholungszwang)については、合理的な考察によって解明できる点が多い。(フロイト『快原理の彼岸』1920年)


◼️次に原抑圧=固着について。

固着とは身体的なものが心的なものに翻訳されずエスのなかに置き残されるという意味である。

原抑圧と同時に固着が行われ、暗闇に異者(異物)が蔓延る。Urverdrängung[…] Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; […]wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen, (フロイト『抑圧』1915年)



この固着によって暗闇=エスに置き残された異物(異者としての身体)が反復強迫の機制の原動因である。

自我にとって、エスの欲動蠢動 Triebregung des Esは、いわば治外法権 Exterritorialität にある。…われわれはこのエスの欲動蠢動を、異物(異者としての身体)ーーたえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen ーーと呼んでいる。…異物とは内界にある自我の異郷部分 ichfremde Stück der Innenweltである。(フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)

フロイトは最晩年の『モーセと一神教』では、原抑圧について、身体的なものの一部が「リアルな無意識としてエスのなかに置き残されるbleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück.」(1939)とも表現している。

この異物をフロイトはモノdas Ding とも呼んだが(参照)、ここではラカンを引用しておこう。

フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ。La Chose freudienne […] ce que j'appelle le Réel (ラカン, S23, 13 Avril 1976)
モノの概念、それは異者としてのモノである。La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger, (Lacan, S7, 09  Décembre  1959)
異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである。…étrange au sens proprement freudien : unheimlich (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)
われわれにとっての異者としての身体 un corps qui nous est étranger(ラカン, S23, 11 Mai 1976)

すなわちモノ=異物(異者としての身体)=不気味なものである。

こうしてフロイトの次の文にて、異者としての身体が内的反復強迫の原動因だということが納得できる筈である。

心的無意識のうちには、欲動蠢動 Triebregungen から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。この内的反復強迫 inneren Wiederholungszwang を想起させるあらゆるものこそ、不気味なもの unheimlich として感知される。(フロイト『不気味なもの』1919年)



………………


※付記

プルーストは短く引用するのがとても難しいのだが、ここでは3つだけ「強制するforcer」の使用例を『見出された時』から掲げておく。


ドアを(強制して)おしあける forcer les portes
落日をむかえいれるために、祭壇の敷物のように綾織のリネンをととのえた、バルベックの海辺の食堂は、ゲルマントのこの館の堅牢な建物をゆりうごかそうとし、そのドアをおしあけようとした、そして一瞬、私のまわりの長椅子を、いつかパリのレストランのテーブルをそうしたように、ぐらつかせたのだ。
La salle à manger marine de Balbec, avec son linge damassé préparé comme des nappes d'autel pour recevoir le coucher du soleil, avait cherché à ébranler la solidité de l'hôtel de Guermantes, d'en forcer les portes et avait fait vaciller un instant les canapés autour de moi, comme elle avait fait un autre jour pour les tables d'un restaurant de Paris. (プルースト「見出された時」)

鼻孔は、はるかに遠い昔の空気を吸うことを強制された 
forcent nos narines à respirer l'air de lieux pourtant si lointains
それに、もし現時の場所 が、ただちに勝を占めなかったとしたら、私のほうが意識を失ってしまっただろう、と私は思う、なぜなら、そうした過去の復活 résurrections du passé は、その状態が持続している短いあいだは、あまりにも全的で、並木に沿った線路とあげ潮とかをながめるわれわれの目は、われわれがいる間近の部屋を見る余裕をなくさせられるばかりか、われわれの鼻孔は、はるかに遠い昔の場所の空気を吸うことを余儀なくされElles forcent nos narines à respirer l'air de lieux pourtant si lointains、われわれの意志は、そうした遠い場所がさがしだす種々の計画の選定にあたらせられ、われわれの全身は、そうした場所にとりかこまれていると信じさせられるか、そうでなければすくなくとも、そうした場所と現在の場所 les lieux présents とのあいだで足をすくわれ、ねむりにはいる瞬間に名状しがたい視像をまえにしたときどき感じる不安定にも似たもののなかで、昏倒させられるからである。
Et si le lieu actuel n'avait pas été aussitôt vainqueur, je crois que j'aurais perdu connaissance ; car ces résurrections du passé, dans la seconde qu'elles durent, sont si totales qu'elles n'obligent pas seulement nos yeux à cesser de voir la chambre qui est près d'eux pour regarder la voie bordée d'arbres ou la marée montante. Elles forcent nos narines à respirer l'air de lieux pourtant si lointains, notre volonté à choisir entre les divers projets qu'ils nous proposent, notre personne tout entière à se croire entourée par eux, ou du moins à trébucher entre eux et les lieux présents, dans l'étourdissement d'une incertitude pareille à celle qu'on éprouve parfois devant une vision ineffable, au moment de s'endormir. (プルースト「見出された時」)

私に眺めることを強制する映像 image qui m'avait forcé à la regarder,
……いつのまにか当時と同一の自分になっていることが私にわかったからであり、自分の性質の根本的な一つの特徴がとりもどされたからであった、また悲哀をもってというのは、その当時から自分がすこしも進歩していなかったのを考えさせられたからであったがーーすでにコンブレーで、私は自分の精神のまえに、何かの映像を注意をこめて固定させようとしていた、それが何であるかをはっきりながめるように強いられて、たとえば、雲とか、三角形とか、鐘塔とか、花とか、小石とかを私はながめていた、そしてそれらの表徴〔シーニュ〕の下には、自分が発見につとめなくてはならないまったくべつのものがあるだろう、と感じていた、そのものは何かある思想にちがいなく、雲や鐘塔や小石は、人にはただ具体的な事物しかあらわしていないと思われるあの象形文字 のような形で、その思想を翻訳していたのだ、ということを。
Je me souvins avec plaisir, parce que cela me montrait que j'étais déjà le même alors et que cela recouvrait un trait fondamental de ma nature, avec tristesse aussi en pensant que depuis lors je n'avais jamais progressé, que déjà à Combray je fixais avec attention devant mon esprit quelque image qui m'avait forcé à la regarder, un nuage, un triangle, un clocher, une fleur, un caillou, en sentant qu'il y avait peut-être sous ces signes quelque chose de tout autre que je devais tâcher de découvrir, une pensée qu'ils traduisaient à la façon de ces caractères hiéroglyphes qu'on croirait représenter seulement des objets matériels.p30(プルースト「見出された時」)



※追記

ドゥルーズの潜在的対象(対象=x)[l'objet virtuel (objet = x)自体、原抑圧と関連付けて反復の原理としており、上に記してきた内容を受け入れるなら、ーーつまり固着によって条件づけられた自動反復=自動機械 [automatisme] とは、暗闇に置き残された「異者としての身体」がもたらすエスの欲動蠢動であるならば、フロイトの異物Fremdkörper等置できる。

反復は、ひとつの現在からもうひとつの現在へ向かって構成されるのではなく、むしろ、潜在的対象(対象=x)[l'objet virtuel (objet = x)]に即してそれら二つの現在が形成している共存的な二つの系列のあいだで構成されるのだ。潜在的対象は、たえず循環し、つねに自己に対して遷移 déplacé するからこそ、その潜在的対象がそこに現われてくる当の二つの現実的な系列のなかで、すなわち二つの現在のあいだで、諸項の想像的な変換と、 諸関係の想像的な変容を規定するのである。潜在的対象の遷移 déplacement de l'objet virtuel は、したがって、他のもろもろの偽装 déguisementとならぶひとつの偽装ではない。そうした遷移は、偽装された反復としての反復が実際にそこから由来してくる当の原理なのである。

反復は、実在性réalité の〔二つの〕系列の諸項と諸関係に関与する偽装とともにかつそのなかで、はじめて構成される。 ただし、そうした事態は、反復が、まずもって遷移をその本領とする内在的な審級としての潜在的対象に依存しているがゆえに成立するのだ。したがってわたしたちは、偽装が抑圧によって説明されるとは、とうてい考えることができない。反対に、反復が、それの決定原理の特徴的な遷移のおかげで必然的に偽装されているからこそ、抑圧が、諸現在の表象=再現前化la représentation des présents に関わる帰結として産み出されるのである。
そうしたことをフロイトは、抑圧という審級よりもさらに深い審級を追究していたときに気づいていた。もっとも彼は、そのさらに深い審級を、またもや同じ仕方でいわゆる〈「原」抑圧〉と考えてしまってはいたのだが。 quitte à la concevoir encore sur le même mode, comme un refoulement dit « primaire ». (ドゥルーズ『差異と反復』第2章、財津理訳)


では名高い「器官なき身体 corps sans organes」は「異者としての身体 corps étranger」なのか?


異者としての身体…問題となっている対象aは、まったき異者である。corps étranger,[…] le (a) dont il s'agit,[…] absolument étranger (Lacan, S10, 30 Janvier 1963)

ーーおそらく、潜在的対象(対象=x)[l'objet virtuel (objet = x)]は異者としての身体でありうるが、器官なき身体もそうであるかも、という問いはドゥルーズ に詳しくない者としてここではしないでおこう。

とはいえ『意味の論理学』や『プルーストとシーニュ』に現れる「器官なき身体」『アンチ・オイディプス』の「器官なき身体」はどうも相異なる気がしてならない。

なおプルースト は次のような形で「異者」という語を使っているのは、少し前に示した。

最初の瞬間、私は腹立たしくなって、誰だ、ひょっこりやってきておれの気分をそこねた異者は、と自問したのだった。その異者は、私自身だった、当時の少年の私だった。そんな私を、いまこの本が私のなかにさそいだしたのだ、というのも、この本は、私についてはそんな少年しか知らないので、この本がただちに呼びだしたのもそんな少年であり、その少年の目にしか見られたくない、彼の心にしか愛されたくない、彼にしか話しかけたくない、とそうこの本は思ったからなのだ。コンブレーで、ほとんど朝まで、私の母が声高に読んでくれたこの本は、だから、その夜の魅力のすべてを、私のために保存していたのだ。
Je m'étais au premier instant demandé avec colère quel était l'étranger qui venait me faire mal, et l'étranger c'était moi-même, c'était l'enfant que j'étais alors, que le livre venait de susciter en moi, car de moi ne connaissant que cet enfant, c'est cet enfant que le livre avait appelé tout de suite, ne voulant être regardé que par ses yeux, aimé que par son cœur et ne parler qu'à lui. Aussi ce livre que ma mère m'avait lu haut à Combray, presque jusqu'au matin, avait-il gardé pour moi tout le charme de cette nuit-là. (プルースト「見出された時」)


そしてこの異者はドゥルーズ &ガタリの《無意志的回想のブラック・ホール[trou noir du souvenir involontaire]》(『千のプラトー』「零年ーー顔貌性」1980年)に相当し、ラカンにとって異者は穴、フロイトにとって引力、つまりブラックホールであることも示した。

ここではついでに、日本のドゥルーズ 研究者は、フロイトやプルーストに触れる相のドゥルーズ にきわめて弱いと言っておこう。

ではニーチェには強いのか。永遠回帰は力への意志であり、力への意志は無意志的な欲動力である。すなわち力への意志とは、フロイトのエスの意志 Willen des Es  、ラカンの享楽の意志 la volonté de jouissance(死の欲動)と等価である。そしてここにも異物が絡んでくる。

現実界のなかの異物概念は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある。une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance (J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004)

ひょっとしてドゥルーズ &ガタリ曰くの「無意志的回想のブラックホール」は力への意志の原理ではなかろうか? 

力への意志は、原情動形式であり、その他の情動は単にその発現形態である。Daß der Wille zur Macht die primitive Affekt-Form ist, daß alle anderen Affekte nur seine Ausgestaltungen sind: …
すべての欲動力(すべての駆り立てる力 alle treibende Kraft)は力への意志であり、それ以外にどんな身体的力、力動的力、心的力もない。Daß alle treibende Kraft Wille zur Macht ist, das es keine physische, dynamische oder psychische Kraft außerdem giebt...
「力への意志」は、一種の意志であろうか、それとも「意志」という概念と同一なものであろうか?ist "Wille zur Macht" eine Art "Wille" oder identisch mit dem Begriff "Wille"? ……
――私の命題はこうである。これまでの心理学における「意志」は、是認しがたい普遍化であるということ。そのような意志はまったく存在しないこと。 mein Satz ist: daß Wille der bisherigen Psychologie, eine ungerechtfertigte Verallgemeinerung ist, daß es diesen Willen gar nicht giebt, (ニーチェ「力への意志」遺稿 Kapitel 4, Anfang 1888)

『プルーストとシーニュ』にその答えが記されているが、ここでは敢えて出し惜しみしておこう。