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2020年9月9日水曜日

未知の女への恋(ヴァントゥイユのシネ・マテリア)

さて繰り返すが、プルーストの『失われた時を求めて』とは「ヴァントゥイユの小楽節  la petite phrase de Vinteuil」をめぐる小説である(モチロンソンナコトハダレモイッテイナイ)。そして蚊居肢子のヴァントゥイユはフォレである(モチロンソンナコトハドウデモイイコトデアル)。後者はプルースト自身が言っている。

文学者はひとたび書けば、その作中の諸人物の、身ぶり、独特のくせ、語調の、どれ一つとして、彼の記憶から彼の霊感をもたらさなかったものはないのである。つくりだされた人物の名のどれ一つとして、実地に見てきた人物の六十の名がその下敷きにされていないものはなく、実物の一人は顔をしかめるくせのモデルになり、他の一人は片めがねのモデルになり、某は発作的な憤り、某はいばった腕の動かしかた、等々のモデルになった。 (プルースト「見出された時」)

ところで蚊居肢子にとって「実地に見てきた人物の六十の名」なんてのは音楽においてはないのである。真に香り高い「波のモーヴ色の大ゆれ la mauve agitation des flots」を感じたことはフォレしかない。女性においては香気高さをいくらか保留すれば六十人ぐらいひょっとしてあるかもしれないが。

この前提で下記の引用群をお読みくだされ。

芸術作品の中に示されるようなエッセンスとは何であろうか。それは差異、究極的な、絶対的な差異である C'est une différence, la Différence ultime et absolue。 それは存在を構成するもの、われわれに存在を考えさせるものである。それが、エッセンスをあらわに示す限りでの芸術だけが、生活の中でわれわれが求めても得られなかったものを与えることを可能にする理由である。《生活や航海の中では求めても得られなかった多様性diversité ……》 《差異の世界 Le monde des différences は、われわれの知覚が一様なものにするあらゆる国ぐにの間で、地上の表面には存在しないのであるから、まして社交界の中には存在しない。それはどこかほかのところに存在するのだろうか。ヴァントゥイユの七重重奏曲は、この問に対して、存在すると答えているように思われた。Le septuor de Vinteuil avait semblé me dire que oui》(「囚われの女」)
だが究極の絶対的差異 différence ultime absolue とは何か。それは、ふたつの物、ふたつの事物の間の、常にたがいに外的な extrinsèque、経験の差異 différence empirique ではない。プルーストは本質について、最初のおおよその考え方を示しているが、それは、主体の核の最終的現前 la présence d'une qualité dernière au cœur d'un sujet のような何ものかと言った時である。すなわち、内的差異 différence interne であり、《われわれに対して世界が現われてくる仕方の中にある質的差異、もし芸術がなければ、永遠に各人の秘密のままであるような差異 différence qualitative qu'il y a dans la façon dont nous apparaît le monde, différence qui, s'il n'y avait pas l'art, resterait le secret éternel de chacun》(「見出された時」)である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』第4章「Les SIgnes de l'art et l'Essence 」第2版1970年)


この文にあらわれる「究極の絶対的差異 différence ultime absolue 」は精神分析的にも決定的なので寄り道させて頂くが、ここでの話題ではなく軽いジャブ程度の引用である。重要なのは、精神分析を学びたい者はラカンのたぐいのコモノを読んで廻り道せずーーボクは不幸にもちょっとしちゃったけどーー、ニーチェとフロイトとプルーストを読むことである。そして何よりもまず、各人それぞれの「ヴァントゥイユの小楽節」をもつことである。フロイトが存在しなかったら、世界は「プルースト的な精神医学になったであろう(エランベルジュ)とはもはやコモンセンスだろ?



内的差異 différence interneあるいは純粋差異 pure différence
反復とは…一般的差異から単独的差異へ、外的差異から内的差異への移行として理解される。要するに、差異の差異化としての反復である。la répétition comme passage d'un état des différences générales à la dillérence singulière, des différences extérieures à la différence interne ― bref la répétition comme le différenciant de la différence. (ドゥルーズ 『差異と反復』第2章、1968年)
永遠回帰 L'éternel retourは、同じものや似ているものを回帰させることはなく、それ自身が純粋差異 pure différenceの世界から派生する。…

永遠回帰 L'éternel retour には、つぎのような意味しかない―――特定可能な起源の不在 l'absence d'origine assignable。それを言い換えるなら、起源は差異である l'origine comme étant la différence と特定すること。

…永遠回帰はまさに、起源的・純粋な・総合的・即自的差異 une différence originaire, pure, synthétique, en soi の帰結である(この差異はニーチェが「力の意志」と呼んでいたものである)。差異が即自(それ自身における差異 l'en-soi )であれば、永遠回帰における反復は、差異の対自(それ自身に向かう差異 le pour-soi)である。Si la différence est l'en-soi, la répétition dans l'éternel retour est le pour-soi de la différence.(ドゥルーズ『差異と反復』第2章、1968年)

純粋差異 différence pureあるいは純粋シニフィアン signifiant pur
この「一」自体、それは純粋差異を徴づけるものである。Cet « 1 » comme tel, en tant qu'il marque la différence pure(Lacan, S9, 06 Décembre 1961)
純粋差異としての「一」は、要素概念と区別されるものである。L'1 en tant que différence pure est ce qui distingue la notion de l'élément.(ラカン, S19, 17 Mai 1972)
主体とシニフィアン自体との関係は、最も形式的な相[aspect le plus formel], 純粋シニフィアンの相[aspect de signifiant pur]にある。(Lacan, S3, 31 Mai 1956)
サントーム、あるいは1と身体
サントーム Sinthome は「1があるYadlun」と同一である。…ラカンは、症状を「1」に還元したのである réduit le symbolique à l'Un (J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un - 25/05/2011)
まさに享楽がある。1と身体の結びつき、身体の出来事が。il y a précisément la jouissance, la conjonction de Un et du corps, l'événement de corps (J.-A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN – 18/05/2011)
ラカンはサントームΣを「1がある Y'a d'l'Un」に還元したとき、この「1がある」は、シニフィアンの分節化の残滓として、現実界の本源的反復を引き起こす。ラカンは言っている、2はない[il n'y a pas de deux]と。この反復においてそれ自身を反復するのは、ひたすら1である。しかしこの1は身体ではない。1と身体がある。[Mais cet Un n'est pas le corps. Il y a le Un et le corps. ](Hélène Bonnaud, Percussion du signifiant dans le corps à l'entrée et à la fin de l'analyse ,2013)
反復的享楽 La jouissance répétitive、これを中毒の享楽と言い得るが、厳密に、ラカンがサントームと呼んだものは、中毒の水準 niveau de l'addiction にある。この反復的享楽は「1のシニフィアン le signifiant Un」・S1とのみ関係がある。その意味は、知を代表象するS2とは関係がないということだ。この反復的享楽は知の外部 hors-savoir にある。それはS2なきS1(フロイトの固着)を通した身体の自動享楽に他ならない。elle n'est qu'auto-jouissance du corps par le biais du S1 sans S2(ce que Freud appelait Fixierung, la fixation) (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 23/03/2011)
現実界とレミニサンス
シニフィアンは、連鎖外にあるとき現実界的なものになる le signifiant devient réel quand il est hors chaîne 。(コレット・ソレールColette Soler、L'inconscient Réinventé, 2009)
サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)
サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps(MILLER, L'Être et l'Un, 30/3/2011)
私は…問題となっている現実界 le Réel en questionは、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値 valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme を持っていると考えている。…これは触知可能である…人がレミニサンスと呼ぶもの qu'on appelle la réminiscence に思いを馳せることによって。…レミニサンスは想起とは異なる la réminiscence est distincte de la remémoration。(ラカン、S.23, 13 Avril 1976)


ようするにリアルなサントームとは内的差異ーー「1と身体がある」ーーによる永遠回帰=身体の自動享楽である。

サントームのパスは、享楽における単独性の永遠回帰の意志である。Cette passe du sinthome, c'est aussi vouloir l'éternel retour de sa singularité dans la jouissance. (Jacques-Alain Miller、L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、2011)

こうしてプルーストを扇のかなめにしてすべてがつながるのである。


さて以下が本題の引用である。余計なコメントはしない。読むばわかる。わからない人はいくら延々とコメントしてもわからない。

………………


ひとが失う時 Temps qu'on perd、失われた時 temps perdu、ひとが再び見出す時 temps qu'on retrouve、見出された時 temps retrouvé(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』第1章、1970年)



社交のシーニュ signes mondains の神経的興奮、愛のシーニュsignes amoureux の苦悩と不安。感覚的シーニュ signes sensibles の異常な歓び(しかし、そこではなお、存在と無との間で存続して いる矛盾として、不安が現われている)。芸術のシーニュ signes de l'art の純粋な歓び。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)
失われた時とは、単に、過ぎ去る時のみではない。存在するものを交替させ、過去のものを無くしていくような時のみではない。それはまた、人が失うところの時である(仕事をし、芸術作品を作らないで、なぜ時を失い、社交界の人間、恋をする人間でなくてはならないのか pourquoi faut-il perdre son temps, être mondain, être amoureux, plutôt que de travailler et de faire œuvre d'art ?)。そして、見出された時とは、第一に、失われた時のなかで見出され、我々に永遠のイメージを与える時である。それはまた、絶対的に本源的な時 temps originel absolu ・芸術のなかに確認される真の永遠 véritable éternité qui s'affirme dans l'art である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)


ここでドゥルーズ は何を言わんとしているかといえば、社交のシーニュは最悪ーー現在ならツイッター社交界ーー、その下に愛のシーニュ、そしてさらにこの三つのなかでは最もまともな感覚のシーニュがある。だがそこに留まっていてはダメであり、感覚のシーニュの象徴化(ラカン用語なら脚立escabeau = S-K-beau)としての芸術のシーニュが必要だということ。



……………

さて序奏が長すぎた。ここからが核心である。




フォレの書いた十曲の室内楽の中、残る六曲は、すべて、さきにいった第一ピアノ五重奏曲からさらに十年ののちにあたる一九一六年から、歿年である一九二四年にかけての八年間の所産である。

ヴァイオリン・ソナタ第二番は一九一六年から翌年にかけて作曲され、二曲のチェロ・ソナタは、それぞれ、一九一七年と一九二一年に書き上げられたのに反し、それぞれたった一曲ずつのピアノ三重奏曲(一九二二年から翌年)と弦楽四重奏曲(一九二三年から二四年にかけて)の二作は最後の三年間に、はじめて完成されたのである。これはもう純然たる晩年の作品であり、そこには形而上的と呼ぶのがふさわしい、高度に精神化された筆法がみられる。その中では、私は弦楽四重奏曲の緩徐楽章に最もひかれる。これは、ちょっと把えどころのないような夢幻的な超脱的な雰囲気の中で、それとはさだかでないが、しかし通じるものには通じるといった感触で、苦悩の跡があり、息苦しさと、それを静かに耐え忍ぼうとしている精神の働きがある。

かつて、第一ピアノ四重奏曲で、私たちを魅惑した、あの愛撫するような歩みが、ここでは、まるでちがった表情で戻ってきているのも注目をひく。



それから、いみじくも『コーダは涙で曇った頼笑みのような、不思議な魅力的な不協和音をもつ』(H.Halbreich)と呼ばれた、この楽章の結びの素晴らしさ!

全部で三楽章からなるこの曲が、フォレの手から生れた最後の作品になった。
(吉田秀和「フォレ《ピアノと絃のための五重奏曲第二番》」『私の好きな曲』所収、1977年)


戦争が終ったあと、さっそく私は台所のうらの穴から、本とレコードを掘りだしてきた。

布団もかぶせず、レコードをかけるのは、何ヵ月ぶり、いや何年ぶりだったろうか。

フォレの四重奏曲の第一楽章で、変ホ長調の第二主題が、あの小さな歩幅でおりてくるのをきいていたら、涙が出てきた。これをきいていると、音による、こんなやさしい愛撫は、モーツァルトや、シューベルトさえ書かなかったような気がした。



具合の悪いことに、この愛撫の旋律は、一つの楽器からほかの楽器へと手渡しされながら、十何小節かにわたり、くりかえされる。その間も、そうしてそれが終ってからも、涙はいくらでも出てくる。とうとう、私は、終りまできき通すことができなかった。

結局、私がかつて夢みたように、はじめて全曲を、ゆっくりききおえることができたのはそれから、どのくらいたったころだったろう?
(吉田秀和「フォレ《ピアノと絃のための五重奏曲第二番》」『私の好きな曲』所収、1977年)




ヴァントゥイユの小楽節のシネ・マテリア Sine materia
芸術のシーニュが他のあらゆるシーニュにまさっているのは何においてであろうか。それは、他のあらゆるシーニュが物質的だということである。それらはまず第一に、シーニュが発せられていることにおいて物質的であるり、シーニュのにない手である事物の中に、なかば含まれている。感覚的性質も、好きな顔も、やはり物質である。(意味作用を持つ感覚的性質が特に匂いであり味であるのは偶然ではない。匂いや味は、最も物質的な性質である。また、好きな顔の中でも、頬と肌理がわれわれをひきつけるのも偶然ではない。) 芸術のシーニュだけが非物質的である[Seuls les signes de l'art sont immatériels]。
恐らく、ヴァントゥイユの小楽節 la petite phrase de Vinteuil は、ピアノとヴァイオリンとから流れでてくるもので、非常によく似た五つのノートがあって、そのうちのふたつが反復される、というように、物質的に分解されるものであろう。しかし、プラトンの場合と同じように、三プラス二は何も説明しない。ピアノは全く別の性質を持った鍵盤の空間的イマージュとしてしか存在せず、ノートは、全く精神的なひとつの実体 entité toute spirituelle.の《音声的な現われ l'apparence sonore》としてのみ存在する。《まるで演奏者たちは、その小楽節が現われるのに要求される儀礼をしているようで、演奏しているようではなかった… [Comme si les instrumentistes beaucoup moins jouaient la petite phrase qu'ils n'exécutaient les rites exigés d'elle pour qu'elle apparût. .. ]》 この点において、小楽節の印象そのものが、非物質(シネ・マテリア Sine materia )である。(ドゥルーズ 『プルーストとシーニュ』第4章、第2版1970年)


月光に魅惑される変記号に転調された波のモーヴ色の大ゆれ
そのまえの年、ある夜会で、彼はピアノとヴァイオリンとで演奏されたある作曲をきいたことがあった。最初彼はただ楽器からにじみでる音の物質的な性質だけしかたのしまなかった。それからヴァイオリンの、ほそくて、手ごたえのある、密度の高い、統率的な、小さな線の下から、突如としてピアノの部分の大量の音が、ざわめきながらわきたち、月光に魅惑される変記号に転調された波のモーヴ色の大ゆれ [la mauve agitation des flots que charme et bémolise le clair de lune]のように、さまざまな形をとり、うちつづき、平にのび、ぶつかりあって、高まってこようとしているのを見たとき、それだけでもう彼は大きな快楽にひたったのであった。しかし、そのうちふとある瞬間から、スワンは、輪郭をはっきり識別することも、彼に快感をあたえているものをそれと名ざすこともできないままに、突如として魅惑された状態で、たそがれどきのしっとりした空気にただようばらの匂が鼻孔をふくらませる[certaines odeurs de roses circulant dans l'air humide du soir ont la propriété de dilater nos narines]ように、通りすがりに彼の魂を異様に大きくひらいたあの楽節かハーモニーかをーーそれが何であるかを彼自身も知らなかったがーー心のなかでまとめてみようとつとめたのだった。
唯一の音楽的な印象としてのシネ・マテリア
スワンがそのように漠然として印象、しかしおそらく唯一の純粋に音楽的な印象、ひろがりをもたない、まったく独自な、他のどんな種類の印象にもまとめることができない印象の一つを感じることができたのは、たぶん彼が音楽を知らなかったからであろう。その種の印象は、しばらくのあいだは、いわば無実体(シネ・マテリアSine materia )である。
楽節への未知の恋
なるほどそんな瞬間にわれわれが耳にする音は、その高低と長短とにしたがって、いちはやくわれわれの眼前でさまざまな次元の面を被い、アラベスクを描き、われわれに幅や薄さや安定性や気まぐれの感覚をあたえようとするものである。しかしそれらの音は、そうした感覚がわれわれのなかで十分な形をととのえないうちにうすれ、つづく音や、同時の音さえもがすでに呼びおこしている感覚によってかき消されてしまう。そして記憶が、波のなかに堅固な土台をすえてゆく労働者のように、消えやすいこれらの楽節の複写をつくって、われわれがその楽節とそれにつづく楽節とを比較し区別できるようにしないとすれば、そうした印象は、ときどきかすかにわかるほどそこから浮かびあがってはたちまち消えてゆくモチーフ、それがあたえる特殊な快感によって認められるばかりで、書きあらわすことも、思いだすことも、名づけることもできない名状しがたいモチーフを、この印象の流動性とたえまない「オーヴァラップ」とによって、いつまでも被いかくすであろう。

そのようにして、スワンが味わったあの言いようもなく快い感覚が消えると、彼の記憶は時を移さずその感覚の簡略で一時的な転写をもたらしてくれたのであるが、しかし曲がつづいていたときスワンはあまりにもこの転写に注目しすぎていたので、同一の印象が突如としてもどってきても、その印象はもはやとらえられなかった。彼はその印象のひろがり、その均斉ある集合、その記譜法、その表現の力強さを思いだすことができた。彼は眼前に、もはや純粋の音楽には属さないもの、むしろ素描であり、建築であり、思想に属するものでありながら、しかも音楽を思いださせるもの、そのようなものをもっのであった。いまや、明確に彼は音の波の上に数分間浮かびあがった一つの楽節を識別したのであった。それは彼にただちに特殊な官能のよろこび、それを耳にする以前には考えられたこともない官能のよろこびを提供したのであり、その楽節よりほかの何物も、そうした官能のよろこびを彼に知らせることはできないだろうと感じられ、彼はその楽節に未知の恋 un amour inconnuのようなものをおぼえたのであった。
ちらと目にしたある女によってもたらされた新しい美のイマージュ
その楽節は、ゆるやかなリズムで、スワンをみちびき、はじめはここに、つぎはかしこに、さらにまた他のところにと、気高い、理解を越えた、そして明確な、幸福のほうに進んでいった。そしてその未知の楽節がある地点に達し、しばし休止ののち、彼がそこからその楽節についてゆこうと身構をしていたとき、突然、楽節は方向を急変し、一段と急テンポな、こまかい、憂鬱な、とぎれない、やさしい、あらたな動きで、彼を未知の遠景のかなたに連れさっていった。それから、その楽節は消えた。彼は三度目にその楽節にめぐりあいたいとはげしく望んだ。すると、はたして、その楽節がまたその姿をあらわしたが、こんどはまえほどはっきりと話しかけてくれなかったし、まえほど深い官能をわきたたせはしなかった。
しかし、彼は家に帰ると、またその楽節が必要になった、あたかも彼は、行きずりにちらと目にしたある女によって生活のなかに新しい美の映像をきざみこまれた男のようであり、その名さえ知らないのにもうその女に恋をし、ふたたびめぐりあうてだてもないのに、その女の新しい美の映像がその男の感受性にこれまでにない大きな価値をもたらす場合に似ていた。 Mais rentré chez lui il eut besoin d'elle, il était comme un homme dans la vie de qui une passante qu'il a aperçue un moment vient de faire entrer l'image d'une beauté nouvelle qui donne à sa propre sensibilité une valeur plus grande, sans qu'il sache seulement s'il pourra revoir jamais celle qu'il aime déjà et dont il ignore jusqu'au nom. (プルースト「スワン家のほうへ」井上究一郎訳)


いやあ、これではちょっと引用が足りないな、プルーストの美はわかるだろうかど、ここで何が言いたいのかわかんねえだろうよ、たぶん誰も読まないだろうが、もし「ヴァントゥイユの小楽節」を獲得する道を歩みたいなら、当面➡︎「純粋状態にあるわずかな時間」をお読みくだされ。