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2020年9月8日火曜日

ヴァントゥイユのアンダンテ


天才の作品がただちに賞賛をえることの困難なのは、それを書いた天才その人が異例であり、ほとんどすべての人々が彼に似ていないからである。天才を理解することができるまれな精神を受胎させ、やがてその数をふやし、倍加させてゆくのは、天才の作品それ自身である。ベートーヴェンの四重奏曲(第12、第13、第14および第15番の四重奏曲)は、それを理解する公衆を生み、その公衆をふくれあがらせるのに五十年を要したが、そのようにして、あらゆる傑作の例にもれず、芸術家の価値にではなくとも、すくなくとも精神の社会に――最初この傑作が世に問われたときには存在せず、こんにちそれを愛することができる人々によってひろく構成されている精神の社会――、一つの進歩を実現したのは、ベートーヴェンの四重奏曲なのである。人々がいう後世とは作品の後世である。作品自身が(……)その後世を創造しなくてはならないのだ。したがって、作品が長くとっておかれ、後世によってしか知れれなかったとしたら、その後世とは、その作品にとっては、後世ではなくて、単に五十年経ってから生きた同時代人のあつまりであるだろう。だから、芸術家は自分の作品にその独自の道をたどらせようと思えばーーヴァントゥイユはそうしたのだがーーその作品を十分に深いところ、沖合いはるかな遠い未来のなかに送りださなくてはならない。l'artiste – et c'est ce qu'avait fait Vinteuil – s'il veut que son œuvre puisse suivre sa route, la lance, là où il y a assez de profondeur, en plein et lointain avenir. (プルースト「花咲く乙女たちのかげに」)

ーーと引用したが、ここではベートーヴェンの話ではなく、またまた「私のヴァントゥイユ」の話である。

『私の好きな曲』(1977年)は「藝術新潮」1974年1月号から1976年8月号までの連載であり、吉田秀和(1913年-2012年)の61歳から63歳のときに書かれていることになる。もう少し若いときの書きものだと思っていたが、ちょうど私の今の年齢の頃なのだ。

私は高校時代、田舎の町では珍しくチェンバロの置いてあった「バロック」というカフェで、この「藝術新潮」の吉田秀和の文に行き当たった。その当時は何気なく読んだだけだったがーー吉田秀和自体は中原中也や小林秀雄の弟子筋あるいは友人だということでいくらか読んでいたーー、大学時代に書物になったものを手に入れてひどく感心するようになった。上下2巻26曲の紹介があるのだが、上巻の最初がベートーヴェンの弦楽四重奏14番 op131、下巻の最初がフォレのピアノ五重奏曲2番 op115だった。この2曲とヴェーベルンのop 5の紹介が弦楽重奏曲への愛の始まりだったという意味で、生涯の恩人のような書物である。

というわけだが、ここでは「フォレという「みにくい女」」で引用した「フォレ《ピアノと絃のための五重奏曲第二番》」の前半箇所ではなく末尾を懐かしみつつ引用しよう。

・私が鈍いためにこの年になって、やっとわかって来たにすぎないないのである。

・はじめて、この楽章をきいた時、私には、それがわからなかった。私には、この微妙にして壮大な音楽を、同時につかむ力がなかった。私にはすべてが灰色で、対照も、大きな劇的な起伏もない音楽にきこえた!

ーーというたぐいの語り口に当時はイカレタね。今はop115よりもop121、とくにそのII.Andanteのほうをずっと好むが、op 115の II.Andante Moderato もやっぱりとってもいい。op121とop115 の両アンダンテは、ベートーヴェンop131の冒頭とop132の《感謝の歌》の関係のようなものだ。

なおフォレは1845年5月12日 - 1924年11月4日であり、ーーあれ、ボクのオッカサマと同じ日に死んでるな、今気づいたけどーー、ピアノ五重奏曲第二番op115は77歳のときに完成した作品である。当時、フォレは難聴が進行していた。

ピアノ五重奏曲第二番は、二曲のチェロ・ソナタの中間に当る一九一九年から二二年にかけて書かれた。私が、これをフォレの室内楽中の最高の作品であり、ヨーロッパ近代音楽の中でも屈指の名作だと気がついたのは、そう前のことではない。

さきにふれた戦後の十年ほどの間に、私は、レコードできくか楽譜をみるかで、この曲を知ったはずである。しかし、その時は、この曲は、私の耳には、あまりにも枯淡に響いた。「いくら何でも、こんなに枯れてしまい、ヤマも起伏もなくなってしまっては……」と私は思ったものである。それはまた、同じころの室内楽、それから同じころのピアノ曲についても、私の感じたものだった。

それが、このごろは非常な魅力で私をとらえて離さないようになった。今思うと、かつての私は何をきいていたのだろう?  と不思議な気がする。そうして、これは何も、近年の私のように年より臭くなったものにしか、わからない音楽ではなかったはずなのに。しかし、かつての私がわからなかったのは事実である。ただ、私は、このちがいを、自分のとしのせいにはしたくない。そうではなく、私が鈍いためにこの年になって、やっとわかって来たにすぎないのである。

フォレの手紙を読むと、彼が一九二十年の八月、まず第二、第三楽章を終え、それから第一楽章の仕事に移っていったことがわかる。フィナーレはその第一楽章が終ったあとでスケッチがとられ、そうして翌年の二月に書きあげられた。

私も、その順序で、この曲をおってみようか。私の考えでは、この順序は、単に作曲の出来上りの時間的推移を示すクロニクルという以上に、作品の内部の構造と、各楽章間の簡単には口にできない緊密で非常に秘められた相関関係を知る上にも、大切なステップを示しているのだが、それを分析し、細部まで具体的に追ってゆくのは、かなり専門的な音楽的思考を必要とするから、ここではある程度入ったところまでということにするが。
いずれにせよ、ここにはフォレの最高のものが集約的にみられる。それは、この老齢に達した天才の精神の優しい若々しさと、高度に洗練された知的な働きとの間にみられるバランスの不思議さであり、それが表現のかつてない深さを達成するように、この大芸術家の手を導いているのである。

第二楽章はアレグロ・ヴィーヴォのスケルツォだが、私は、こんなに自由で、幻想的なスケルツォは、ほかに知らない。これに較べれば、メンデルスゾーンのスケルツォさえ、あまりにも規則的で、四角に区切られていすぎる。出発の見事さにつづいて、ヴィエルモーズが、『長く曲りくねった楽節、くりかえしもシンメトリカルな構造も持たずに、二四小節という長丁場を一気に進行する豊かな旋律、繊細でしかも心にしみ通るような、そしてやがて巧みな展開の諸要素を提供する折情的な大きな楽想』と呼んだ楽段へと拡大されてくる。➡︎ II.Allegro Vivo (39:08

これは音楽の驚異である。

しかし、第三楽章のアンダンテ・モデラートは、これより高いとはいわないまでも、もっと深いところまで行く。コロムビア・レコードにいれられた論文の筆者は、この音楽について、フォレの言葉を引いて、『全面的不幸、永遠の苦悩』についての崇高な嘆きであり、しかし、作曲者はもう一度『現実を超えて出来る限りの高みにゆくために』それに逆らおうとするのだ、といっている。そのあとで、彼は《感謝の歌》ーーいうまでもなくベートーヴェンの作品一三二の四重奏曲のあの病いから癒えたものの神に捧げる感謝の歌のことであるーーと、ブルックナーの第九交響曲のアダージョという二つの稀代の傑作をひきあいに出しながら、この音楽にも、 同じように『永遠と天空の香りがある』と断ずる。

フォレの音楽についてブルックナーの名がひきあいに出されるのを読むのは、私は、これがはじめてであるが、それについてはあとでふれることにしよう。ベートーヴェンの《感謝の歌》に至っては、私はフォレは、この楽章を書く時、はっきり意識していたという気がしてならない。いや、事実、彼は、この音楽を、この「歌」からの引用でもって始めているのである。しかし、それに続く主要楽想から、私の心によびさます聯想は、ベートーヴェンではなくて、同じような全面的苦悩と苦痛、それからの回癒を主題としてはいるが、全く別の音楽、あのバイロイトの巨匠の最後の神聖音楽劇《パルジファル》なのだ。

私がまちがっているのだろうか? この半音階的出発と上行の帰還の曲線の苦悩にみちた歩みとそこにつけられたダイナミックに、《パルジファル》をきくのは。それとも、あなたは《トリスタン》のあの「憧れの指導動機」をきくとでもいわれるのだろうか?


本当に、これは驚くべき音楽である。このたった四小節の中に、ト長調から出発して、嬰ト短調、口短調とたえず転進しながら、その中で、調性感を止揚する和声上の巧妙な手口もさることながら、表現としての迫真性、痛切性において、正にバイロイトの巨匠のほかに思いあたらないような高度の劇的性格さえ帯びている。しかも、手段はあくまで純粋な弦楽四部の重奏以外の何ものにもよっていないのである。まるで、純白こそ、すべての色彩の最高の到達点であるとでもいわんばかりに。
これと対照的にピアノで出現するト長調のやさしい慰めの楽想は、私の前にいった、単純な外面をしているくせに、リズム上の微妙な不規則さが、手にとらえ難い表現の不思議なこまやかさを生んでいる例の、ひとつである。



単純な四分の四拍子でありながら、この四つの小節の、どの小節をとっても、リズムが同じものはない。しかも、この動きは、大局において、さきに引用した主要主題のそれをかたどって作られているのだ。苦悩を癒すものは、苦悩自体の中から汲みとる以外にないことを、私たちに告げるかのように。➡︎III.Andante Moderato (43:00

私は、記述はこのくらいにする。とにかく、かくも単純で、しかも、かくも深い緩徐楽章は、ただこの時期のフォレでなければ書けなかった。これは、彼の数ある見事な緩徐楽章の王冠のような音楽である。
これに対し、第一楽章アレグロ・モデラートは、力強さと新鮮な息使いとで、きくものを驚かさずにおかない。さきにふれたブルックナーとの対比の最初の手がかりがここにある。例のブルックナーでは開始、つまり弦のトレモロを背景に主題が管で登場してくる荘重な開始に対し、フォレではピアノの均整的なアルペッジョの敷く広々とした布地の上に、弦がある時はのびのびと、ある時は烈しい力強さで、主要楽想を提示しながらはじまることが何度もある。

この曲にも、その例がみられる。ここではピアノの烈しい上下運動をくりかえすアルペッジョの上で歌うのはヴィオラの美しい歌であるが、その音色と楽想との一致は見事というほかない。

これはフォレの書いた最も充実し、そうして最も美しいアレグロであるが、同時に、ここでは楽式的にもフォレの天才の到達点が実現している。それは、ソナタ形式を土台に、五つの大きな部分にわかれる音楽となるのだが、その結果、提示部、展開部、再現部のあとに第二の展開部と大がかりなコーダが書かれることになる。以後、フォレのソナタ形式は、すべてこの形を踏むのだが、この楽章でいえば、幅広く堂々たるハ短調で開始された音楽は、最後のコーダに至って壮大なハ長調で結ばれる。そのつぎつぎと積み重なり、大きなクライマックスに達する音楽の動きは、正に、ブルックナーの交響作品にだけみられた、あの壮大なコーダを除いて、くらべるものがない。➡︎ I.Allegro Moderato (28:33

フォレは、ここでは真に偉大な芸術家にまで発展している。しかも、あの親しみのある優しさと慎しみ深さ、知的な抑制と書法の微妙さを少しも犠牲にすることなく!

はじめて、この楽章をきいた時、私には、それがわからなかった。私には、この微妙にして壮大な音楽を、同時につかむ力がなかった。私にはすべてが灰色で、対照も、大きな劇的な起伏もない音楽にきこえた!

しかし、ある年、まず、このコーダのハ長調に移ってゆく、大きな音楽のうねりに全身が包みこまれ、運ばれてゆくのを感じた時から、私には、フォレの晩年の音楽をきく耳が開かれたのだった。そのあとは、どんどん、わかってきた。たとえば、主要楽想が再現部になってはじめてフォルティッシモで呈示される時の、これまたブルックナーに少しも劣らぬ偉観をうけとる能力も生れたし……

フィナー レもすばらしい。 こにも、全体はソナタ形式を土台にしながら、大きくうねりつつ、上昇してゆく音楽の流れがある。第一楽章を全構図を大伽藍の威容にたとえるとすれば、こちらは、生命の燃えるような烈しさの中での高まりというべきだろうか。形は、ソナタ・ロンドという方がよいかも知れない。それに、ここには、前記の諸楽章の回想に近いエピソードも幾つか出現する。ポリフォニックな戯れも、高度な洗練で示されているし、これをベートーヴェンの晩年の四重奏曲たちの終楽章ーーたとえば作品一三一のそれーーにくらべる人があったとしても、私は異議はいわないだろう。➡︎ IV.Allegro Molto (53:50

フォレの晩年の音楽が、はじめ私に灰色の老人の芸術にみえた、もうひとつの原因は、ひとつの楽章の中の幾つかの重要な楽想たちが、ベートーヴェンのように対照を主眼とせず、ごく微妙な点でちがっているが、大きくみると、むしろ共通性があり、一つのものから発生した兄弟のようにみえる事実にもあったのだろう。しかし、私には、そのうち、この共通性があればこそ、彼は、楽式の構想において、あそこまで前進でき、しかも音楽の流れのまとまり、純一性において、欠陥のない作曲をするのに成功したのだということが、わかってきたのだった。この点でも、フォレの音楽は、バイロイトの巨匠の楽劇の作曲法に共通するものがある。フォレとブルックナーとヴァーグナー。すぐれた音楽の間には、大ざっぱな聞き方を排除し、絶対にうけつけることをしない共通性や相互の滲透性があるのである。

この人の音楽は非常にデリケートでたおやかなものでありながら、力強い。一見、単純で官能的なものとみえながら、知的精神的に、逞しく、したたかなものがある。

そうして、私は、この第二ピアノ五重奏曲を筆頭とする彼の老年の作品たちの中に、老年の重く暗い苦悩の真実と、叡智の明るい爽やかさとの不思議な結合をきくのである。
ジャン・ユボー(ピアノ)、ヴィア・ノヴァ弦楽四重奏団。これはかつて《フォレ室内楽全集》の中におさめられた。以後分売されているかどうか知らない。

〈追記〉私は今までフォーレとかな書きしてきたけれども、これはどうにも言いつくろいようのない間違いらしいから、以後フォレと書くことにする。アクセントは最初の綴りにおかれるようだ。(吉田秀和「フォレ《ピアノと絃のための五重奏曲第二番》」『私の好きな曲』所収、1977年)




プルーストで始めたのだから、プルーストで終えよう。

私はこのソナタがもたらすすべてを時間をかさねてつぎつぎにでなければ好きになれなかったのであって、一度もソナタを全体として所有したことがなかった、このソナタは人生に似ていた。しかし、そうした偉大な傑作は、人生のようには幻滅をもたらすことはないが、それがもっている最上のものをはじめからわれわれにあたえはしない。ヴァントゥイユのソナタのなかで一番早く目につく美は、またあきられやすい美であり、そうした美がすでに人々に知られている美とあまりちがっていないのも、まず早く目にとまる美だからである。しかしそんな美がわれわれから遠ざかったとき、そのあとからわれわれが愛しはじめるのは、あまり新奇なのでわれわれの精神に混乱しかあたえなかったその構成が、そのときまで識別できないようにしてわれわれの手をふれさせないでいたあの楽章なのである、われわれが毎日気がつかずにそのまえを通りすぎていたので、自分から身をひいて待っていた楽節、それがいよいよ最後にわれわれのもとにやってくる、そんなふうにおそくやってくるかわりに、われわれがこの楽節から離れるのも最後のことになるだろう。われわれはそれを他のものよりも長く愛しつづけるだろう、なぜなら、それを愛するようになるまでには他のものよりも長い時間を費していたであろうから。(プルースト「花咲く乙女たちのかげに」)


プルーストの『失われた時を求めて』は「ヴァントゥイユの小楽節  la petite phrase de Vinteuil 」をめぐる小説としても読めるぐらいで、最初から最後までこの小説の核心、無意志的記憶の回帰あるいはレミニサンスに触れる箇所はヴァントゥイユ、ヴァントゥイユ、ヴァントゥイユである。ここでは最終巻の「見出された時」ではなく「囚われの女」の最後に近い箇所から引用しよう。


ヴァントゥイユの音楽のなかには、いわば表現することが不可能な、じっと見ることが禁じられているとでもいった、そんなもろもろの視像(ヴィジョン)があった、というのも、ねむりにはいろうとして、人がもろもろの視像の非現実的な魅惑に愛撫されるとき、まさにそのようなときに、理性はすでにわれわれをすてさり、目はとじられ、表現しえぬものどころか目に見えぬものさえつかむ余裕を失っていて、人はもう眠り込んでいるからである。私が仮説のなかで芸術は実在するであろうと考えて、その仮説に身をまかせたとき、音楽がつたえうる歓喜は、いい天気や一夜の阿片がもたらす単なる神経的な歓喜以上のものであるばかりか、すくなくとも私の予感したところでは、もっと現実的な、もっとみのりゆたかな陶酔une ivresse plus réelle, plus fécondeであるように思われた。それにしても、彫刻とか音楽とかで、より高次な、より純粋な、より真実な感動をそそるものが、一種の霊的な現実に照応していないはずはない、そうでなかったら、人生はなんの意味ももたないことになるだろう。したがって、ヴァントゥイユの美しい一楽節にも増して、私がこれまでの人生で何度か味わったあの特別の快感に似ているものはなかったのだ。Ainsi rien ne ressemblait plus qu'une telle phrase de Vinteuil à ce plaisir particulier que j'avais quelquefois éprouvé dans ma vie. 
たとえば、マルタンヴィルの鐘塔のまえで、あるいはバルベックの街道の何本かの木々のまえで、あるいはもっと早い話がこの作品の冒頭で、ふと何かのお茶を一杯飲んでいたときに味わった快感である。その一杯のお茶とおなじように、ヴァントゥイユが作曲のときに自分の生きていたその世界からわれわれに送ってくるあのように多くの光の感覚、あかるいざわめき、音を発する色彩は、私の想像力のまえに、私がゼラニウムの花びらの絹地の匂にもたとえることができる何物かを、おしつけるかのように、しかし想像力がそれを把握することができるにはあまりにも早く、ちらつかせるのであった。回想のなかでは、われわれは諸種の状況を突きあわせて、たとえばなぜある風味がわれわれに光の感覚を呼びおこすことができたかを説明できるので、右のように漠としたものも、深められはしないが明確にすることはできるのだが、ただ、ヴァントゥイユによってあたえられる漠とした諸感覚の場合は、それらが何かの回想からきているのではなくて、ある印象から(マルタンヴィルの鐘塔のそれのようにある印象から)きているために、彼の音楽のゼラニウムの芳香については、その具体的な説明を見出すことよりも、むしろその深い等価物、すなわち未知の多彩な饗宴(うたげ)を見出すべきであり(彼の諸作品は、そうした饗宴のばらばらになった断片、深紅にさけた破片であるように思われた)、そういう調子(モード)のもとに、彼が宇宙を「耳にきき」、宇宙を自分の外部に投影しているというべきであったろう。il aurait fallu trouver, de la fragrance de géranium de sa musique, non une explication matérielle, mais l'équivalent profond, la fête inconnue et colorée (dont ses œuvres semblaient les fragments disjoints, les éclats aux cassures écarlates), le mode selon lequel il « entendait » et projetait hors de lui l'univers. (プルースト「囚われの女」)