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2020年9月19日土曜日

対象aとしての異物さえわかっていればいい

対象aというのは、とっても難しいよ。わかるように簡潔に説明できるか自信はないね。ホントは自分で苦しんで探らないとなかなか納得できないんじゃないか。

重要なのはジジェクあたりを読んでいるだけではなかなか核心には触れえないということだ。ボクはジジェクが好きだけどね。ミレール はひどいことを言ってるがこれは言い過ぎだな(もっともこういう風にいうようになった経緯はジジェクのピントを外したーー後期ラカンをまともに読んでいないーーミレール批判に端緒があるのだが[参照])。


パンドラの箱があまりにも長く開けられている。われわれは今、ジジェクをもっている。私のセミネールで彼に教えた基本原則を使って、ラカンを「ジジェク化」する彼だ。われわれはバディウをもっている。ラカンを「バディウ化」する彼だ。全くよくない。われわれは、パンドラの箱をもう一度閉じる時だ。
Mais la boîte de Pandore est ouverte depuis longtemps ! Vous avez Zizek qui zizekise Lacan depuis qu'il a appris les rudiments de la doctrine jadis, à mon séminaire de DEA. Vous avez Badiou qui badiouise Lacan, et ce n'est pas joli joli. Il s'agirait plutôt de la refermer, la Pandora's Box.(ジャック=アラン・ミレール 、Eve Miller-Rose et Daniel Roy, Entretien nocturne avec Jacques-Alain Miller, 2017年, PDF


以下、現在の私がこうだとみなしている対象aについて記すが、これもひょっとしてどこかが間違っているかもしれないという前提でお読みくだされ。

……………

しばしば掲げているミレール の次の図の対象aは残滓のことである。



享楽は、残滓 (а)  を通している。la jouissance[…]par ce reste : (а)  (ラカン, S10, 13 Mars 1963)

残滓とはトラウマ的享楽=現実界に対して主に言語によって防衛するが、防衛し切れない残り滓のことを言う。

斜線を引かれた享楽とは、トラウマ化された享楽、穴化された享楽という意味である。
われわれはトラウマ化された享楽を扱っている。Nous avons affaire à une jouissance traumatisée. (J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 20 mai 2009)
「人はみなトラウマ化されている…この意味はすべての人にとって穴があるということであるtout le monde est traumatisé. […] ce qu'il y a pour tous ceux-là, c'est un trou.  (J.A. Miller, Vie de Lacan, 17/03/2010 )

フロイトラカン理論においては、生きている存在はみなこの穴を抱えている。

だがミレール 図というのはより厳密には次のような形になっている(参照)。



ようするに前回掲げた図のそれぞれの発達段階での横線にて対象aが生じる。



上辺の父の名NPはAのこと。

言語、法、ファルスとの間には密接な結びつきがある。父の名の法は、基本的に言語の法以外の何ものでもない。法とは何か? 法は言語である。Il y a donc ici un nœud très étroit entre le langage, la Loi et le phallus. La Loi du Nom-du-Père, c'est au fond rien de plus que la Loi du langage ; […] qu'est-ce que la Loi ? - la Loi, c'est le langage.  (J.-A. MILLER, - L’Être et l’Un,  2/3/2011)

さらに一番底部においても原対象aが生じる。



ーーこの原対象aとは出生に伴って喪われる羊膜あるいはラメラのこと。➡︎「ラメラという羊膜の喪失」。ラカンは胎盤とか臍の緒とも言っている。

斜線を引かれた享楽とは、去勢のことでもある。

私は常に、一義的な仕方façon univoqueで、この対象(-φ)[去勢]にて示している。(ラカン、S11, 11 mars 1964

それぞれの段階での残滓aが去勢。
享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 問いはーー私はあたかも曖昧さなしで「去勢」という語を使ったがーー、去勢には疑いもなく、色々な種類があることだ il y a incontestablement plusieurs sortes de castration。(Jacques Lacan parle à BruxellesLe 26 Février 1977



この去勢を享楽の控除とも呼ぶ。

われわれは去勢と呼ばれるものを、 « - J »(享楽の控除)の文字にて、通常示す。[qui s'appelle la castration : c'est ce que nous avons l'habitude d'étiqueter sous la lettre du « - J ».]. (Lacan, S15, 10 Janvier 1968)
(- φ) [le moins-phi] は去勢 castration を意味する。そして去勢とは、「享楽控除 une soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(J.-A.MILLERRetour sur la psychose ordinaire, 2009)

たとえば父の名、言語の法の世界、成人言語の世界に参入するとき、人は身体的なものを喪失する。これをラカンは象徴的去勢と呼んだが、その他にも種々の去勢がある。

でも最も重要なのはその底部、つまり成人言語入場以前に喪われた対象a。前期ラカンは対象aを欠如としたが、後年、一般的に上部の喪失は欠如、下部の喪失は穴と呼ぶようになる➡︎欠如と穴(簡略版)

対象aは、大他者自体の水準において示される穴である。l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel (ラカン、S16, 27 Novembre 1968

このように後期ラカン観点からは対象aのベースは去勢であり、穴であり、享楽の控除でよい。



とはいえその穴を穴埋めする剰余享楽の対象aがある。

装置が作動するための剰余享楽の必要性がある。つまり享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として、示される。[la nécessité du plus-de-jouir pour que la machine tourne, la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. ](ラカン, Radiophonie, AE434, 1970
ラカンは享楽と剰余享楽とのあいだを区別をした。… これは、穴としての享楽[la jouissance  comme trou]と、穴埋めとしての剰余享楽  [le plus-de-jouir comme bouchon] である。(J.-A. Miller, Extimité, 16 avril 1986、摘要)



巷間で一般的に言われている対象aは上辺の穴埋めとしての剰余享楽。たとえばジジェク あたりが大々的に示してきた眼差しとしての対象aも穴に対する防衛としての対象aにすぎない。

われわれが通常、"対象a"と呼ぶものは、たんに対象aの形式の支えあるいは化身に過ぎない。…
眼差しはまさに対象aの化身[incarnation de l'objet a]である。…ルーベンスの『鏡を見るヴィーナス』は対象aの論理的機能に実体を与えることを可能にするブリリアントな要素を際立たせている…

対象aには、構造的省略がある。対象aは補填 supplément(穴埋め)によってのみ代表象されうる。穴としての対象aは、枠・窓と等価とすることができる[En tant que trou, l'objet a peut être équivalent au cadre, à la fenêtre]。それは鏡とは逆である。対象aは捕まえられない。特に鏡には。長いあいだ鏡像段階をめぐって時を費やしたラカンは、それを強調している。対象aは窓である。われわれが目を開くために自ら構築した窓である。

(肝腎なのは)窓を見て自らを知ることである。欲動の主体としての自己自身を。あなたは享楽している、永遠の失敗のなかを循環運動している。[voir la fenêtre et se connaître comme sujet de la pulsion, soit ce dont vous jouissez en en faisant le tour dans un sempiternel échec.](J.-A.Miller, L’image reine , 2016ーーL'image reine, qui s'est tenue les 29 et 30 avril 1995 à Rio de Janeiro)


もっとも眼差し自体、不気味なものとして現れる。なぜ穴の防衛としての対象aが不気味なものとして現れるのかといえば、残滓があるから。




この残滓が別名、異者(異者としての身体)であり、フロイトの異物Fremdkörper。

不気味な残滓がある。il est resté unheimlich   (Lacan, S10, 19  Décembre  1962)
異者は、残存物、小さな残滓である。L'étrange, c'est que FREUD[…] c'est-à-dire le déchet, le petit reste,    (Lacan, S10, 23 Janvier 1963)
異者としての身体…問題となっている対象aは、まったき異者である。corps étranger,[…] le (a) dont il s'agit,[…] absolument étranger (Lacan, S10, 30 Janvier 1963)
異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである。…étrange au sens proprement freudien : unheimlich (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)


だから、私がときに「まず残滓さえわかっていれいい」(参照)というのは、「異者としての身体 Fremdkörper」さえわかっていればいいという意味だよ。この異物こそリアルな身体なのだから。

心的無意識のうちには、欲動蠢動 Triebregungen から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。この内的反復強迫 inneren Wiederholungszwang を想起させるあらゆるものこそ、不気味なもの unheimlich として感知される。(フロイト『不気味なもの』1919年)
自我にとって、エスの欲動蠢動 Triebregung des Esは、いわば治外法権 Exterritorialität にある。…われわれはこのエスの欲動蠢動を、異物ーーたえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen ーーと呼んでいる。(フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年)


この不気味な内的反復強迫が死の欲動であり、エスの欲動蠢動=享楽の意志。

享楽の意志は欲動の名である。欲動の洗練された名である。Cette volonté de jouissance est un des noms de la pulsion, un nom sophistiqué de la pulsion. (J.-A. Miller, LES DIVINS DETAILS, 17 MAI 1989)
現実界のなかの異物概念は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある。une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance (J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004)


ラカン自身から引用すれば、
死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)
享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. (ラカン、S23, 10 Février 1976)
死の欲動は現実界である。死は現実界の基礎である。La pulsion de mort c'est le Réel [] c'est la mort, dont c'est  le fondement de Réel Lacan, S23, 16 Mars 1976)

基本的には以上だな。こうやって記してもまったく充分でないのはわかっているけど、長く記したらピントがぼけて、いっそうわからなくなる可能性が高い。


臨床的にはS(Ⱥ) =Σが最も重要であるのは間違いない。S(Ⱥ) 自体、穴の原象徴化のシニフィアンという意味で原穴埋めでありつつ穴の境界シニフィアンであり、つまり穴に最も近接した表象、死の欲動のシニフィアンである。かつまた超自我のシニフィアンでもある(参照)ーー《死の欲動…それは超自我の欲動である。la pulsion de mort [...], c'est la pulsion du surmoi 》 (J.-A. Miller, Biologie lacanienne, 2000)


このS(Ⱥ)が享楽の固着であり、フロイトならリビドーの固着あるいは身体の上への出来事としてのトラウマへの固着と呼び、幼児期の最初の世話役としての母もしくは母親役の人物が子供の身体に刻印する母の徴=母の名である。



どの箇所に強い刻印するのかは母の癖によって異なる。清潔好きな母なら性器や肛門に集中するかもしれない。胸に抱いてあやしたり髪や耳を触って幼児をあやすことが巧みな母もいる等々。

すべてに母の声が伴っておりこれをララング(母の言葉)という。こういった話は女流分析家にほうがより多く注釈している。

サントームは母の言葉に起源がある。Le sinthome est enraciné dans la langue maternelle. (ジュヌヴィエーヴ・モレル Geneviève Morel, Sexe, genre et identité : du symptôme au sinthome, 2005)
ララングlalangueが、母の言葉と呼ばれることは正しい。というのは、ララングは常に最初期の世話に伴う身体的接触に結びついているから。フロイトはこの接触を、引き続く愛の全人生の要と考えた。(コレット ・ソレールColette Soler, Les affects lacaniens, 2011)

この母の徴にも残滓があり、人はみなそれを取り戻そうとする運動がある。

とはいえ究極的にははさらにその底部にある出生に喪われた母胎を取り戻そうとする運動が、死の欲動の起源である➡︎「モノ文献


この運動は母との融合を目指すという意味でエロス欲動でありながら、真に融合してしまったら死が訪れる(母なる大地との融合)。ラカンが欲動一元論を提示したのはこの理由である。

実際、フロイトのエロス/タナトス(融合/分離)を文字通り読めば次のように言わざるをえなくなる(参照)。
生の欲動は死を目指し、死の欲動は生を目指す。[the life drive aims towards death and the death drive towards life.] (ポール・バーハウ Paul Verhaeghe , Phallacies of binary reasoning: drive beyond gender, 2004)