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2020年9月18日金曜日

父の名と母の名

質問をもらっているが、母の名nom de la mèreというのは、ミレールが2度ほど言っているのに行き当たっただけだが(「「母の欲望 Désir de la Mère」と「母の享楽 Jouissance de la Mère」のポジション」の末尾を見よ)、ポジションとしては以下の通り。




いろんなところで別の角度から記しているので、直接的にこの図に相当するまとめはないが、当面以下の二つを参照されたし。

文献集X

享楽という原マゾヒズム文献



ラカン自身はダイレクトには母の名という語を口にしていない。だがその近似表現はふんだんにある。子供の身体から湧き起こる欲動の奔馬を飼い馴らす最初の鞍を置くのは基本的には最初の世話役である母である。これが母のシニフィアン、原シニフィアン、欲動の境界表象としての「母の名」である。

エディプスコンプレックスにおける父の機能 La fonction du père とは、一つのシニフィアンの代替をするシニフィアンun signifiant substitué au signifiantである…最初のシニフィアンとは、象徴化を導入する原シニフィアン premier signifiant introduit dans la symbolisation、母なるシニフィアン le signifiant maternel である。……父はその代理シニフィアンである。 le père est un signifiant substitué à un autre signifiant。(Lacan, S5, 15 Janvier 1958)
私はフロイトのテキストから「唯一の徴 trait unaire」の機能を借り受けよう。すなわち「徴の最も単純な形式 forme la plus simple de marque」、「シニフィアンの起源 l'origine du signifiant」(原シニフィアン)である。我々精神分析家を関心づける全ては、フロイトの「唯一の徴 einziger Zug」に起源がある。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
「唯一の徴 trait unaire」は、…享楽の侵入の記念である。commémore une irruption de la jouissance (Lacan, S17、11 Février 1970)

あるいは「母なる超自我 surmoi maternel」とも呼んだ。

フロイトにとっての母の名はたとえば次の文に相当する。

母へのエロス的固着の残滓は、しばしば母への過剰な依存形式として居残る。そしてこれは女への拘束として存続する。Als Rest der erotischen Fixierung an die Mutter stellt sich oft eine übergrosse Abhängigkeit von ihr her, die sich später als Hörigkeit gegen das Weib fortsetzen wird. (フロイト『精神分析概説』第7章、死後出版1940年)
偉大な母なる神 große Muttergottheit」⋯⋯もっとも母なる神々は、男性の神々によって代替される Muttergottheiten durch männliche Götter(フロイト『モーセと一神教』1938年)