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2020年10月22日木曜日

さて出発だ、おバカな経験主義で身を養って来たことには、許しを乞おう。


経験論と観念論という二項対立を仮に設置しても、ほとんどの経験論者は、実はきわめて観念論的である。あるいはイデオロギーまみれになっている場合がほとんどだ。

T.S.クーンは、観察そのものが「理論」に依存していること、理論の優劣をはかる客観的基準としての「純粋無垢なデータ」が存在しないことを主張する。つまり、経験的なデータが理論の真理性を保証しているのではなく、逆に経験的データこそ一つの「理論」の下で、すなわり認識論的パラダイムで見出される、とする。(柄谷行人『隠喩としての建築』1983年)


パラダイムやイデオロギーを通してしか物を見ていないのに気づかないのが、実地に根差しているつもりになっているナイーヴな経験論者である。


風景…それは、 視線の対象であるかにみえて、実は視線を対象として分節化する装置にほかならない。

…つまりここで問題となる風景とは、 視界に浮上する現実の光景の構図を一つの比喩にしたてあげもするあの不可視の、 だが透明とはほど遠い濁った壁の表層にまといついた汚点や斑点の戯れそのものにほかなら(ない)⋯⋯

……解釈される風景と解釈する視線という抽象的な対応性を超えて、解釈する視線が解釈される風景による解釈をすでに蒙った解釈される視線でしかなく、つまり視線が世界の物語を語る話者である以前にそれじたいが物語の説話論的要素として風景の一部に分節化されてしまっており、したがって視線が分節化する風景の物語は風景が分節化する視線の物語にそれと知らずに汚染しているということ、しかもその事実によって視線同士がたがいに確認しあう風景の解釈は、遂に風景が語る物語を超えることがないという視点は、なにも科学史という「知」の一領域に限らず、こんにち、「文化」と呼ばれる「制度」のあらゆる領域で問題とされているごく退屈な議論にすぎないことは誰もが知っている。(蓮實重彦「風景をこえて」『表層批判宣言』1979年)


この程度のことは最低限知っておこう。知ったところでおバカから免れるか否は別にしても。蓮實はこのあと《あたかも彼は自分自身が世界の物語による分節をまぬがれ、風景の汚染に抗いうるとでも信じているかにみえる制度的楽天性がそこに露呈しており》とトーマス・クン自身を嘲弄しているが(参照)、ま、そこまで言わなくても、もっと前段階の「制度的楽天性」のヤツばかりになってしまった21世紀の知的退行の世界だよ。


エビデンスなんてことをマガオで言っているヤツらが跳梁跋扈している時代だからな。

ラカン はこう言っている。


物理学の言説が物理学者を決定づける。その逆ではない c'est que

c'est le discours de la physique qui détermine le physicien, non pas le contraire(ラカン、S16、20 Novembre 1968)


これをモジれば「理論によってエビデンスは作られる。エビデンスが理論を作るのではない」なんだがな。もっともエビデンス主義者は理論なんて作るつもりは毛ほどもないだろうから、時代のイデオロギーと添い寝するだけの破廉恥漢だろうよ。

要するにエビデンス主義者は自らが生きる時代の「形而上学」の信奉者に過ぎない。


科学が居座っている信念は、いまだ形而上学的信念である。daß es immer noch ein metaphysischer Glaube ist, auf dem unser Glaube an die Wissenschaft ruht (ニーチェ『 悦ばしき知 』第344番、1882年) 

物理学とは世界の配合と解釈にすぎない。dass Physik auch nur eine Welt-Auslegung und -Zurechtlegung(ニーチェ『善悪の彼岸』第14番、1886年)




さてさきほどの話を情動という語を使ラカン的に言ってもよい。


情動は、言語に住まうという特性を持っている身体にやってくる。Ainsi l'affect vient-il à un corps dont le propre serait d'habiter le langage, (ラカン、テレヴィジョン、AE525、1973年)


怒り、恐れ、喜び、悲しみなどの情動は、言語に支配されているのである。


次の点だけにでも誰か答えていただきたい、-ー情動は、身体に関係するのだろうか。アドレナリンの分泌は身体的なものだろうか、そうではないのか。この分泌が身体の諸機能を混乱させるということは事実だ。しかし、いかなる点においてそれは魂なるものからやって来るのだろうか。情動が分泌されるのは思考によってなのである。Qu'on me réponde seulement sur ce point: un affect, ça regarde-t-ille corps? Une décharge d'adrénaline, est-ce du corps ou pas? Que ça en dérange les fonctions, c'est vrai. Mais en quoi ça vient-il de l'âme? C'est de la pensée que ça décharge. (ラカン、テレヴィジョン、1973)


情動は、身体自体で直接的に感じているわけではない。


さらに言えば、悲しかったり、楽しかったり感じることは、実は時代の言説にも囚われている。


情動は歴史に支配されているLes affects sont sujets à l'histoire。これは簡単に理解できる。情動は享楽の地位 statut de la jouissance によって絶えず変化するので、情動は言語の効果 effet de langage のみではなく、言説の効果 effets de discours によって影響される。後者の言説の意味は、それが享楽の様相 modalités de jouissanceを統制する限りにおいて、社会的結びつき lien socialの特徴が情動を生み出すということである。(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)


言説(社会的結びつき)とは時代のイデオロギーということでもある。イデオロギーが異なれば、いま悲しいことは悲しくないのである。こういったことはウィトゲンシュタインの有名な「痛み」の話と相同的である。


情動は、欲動とは異なり、身体とは直接に関係ない。逆に、情動の本質は、不安(現実界)を基礎とした置換・換喩である。(ポール・バーハ Paul Verhaeghe, BEYOND GENDER, 2001年)


素朴な経験論者が、「アタシの情動はまぎれもないわ」と感じているとすれば、この人は、きわめておバカな形而上論者である。


ーーさて出発だ、とにもかくにも、おバカな経験主義で身を養って来たことには、許しを乞おう。