日本人は右も左も似たようなもんだな、というイヤミをときたま言いたくなるのだが、もちろんこう言う私も日本人だ。
サピア・ウォーフの仮説 Sapir-Whorf hypothesis |
人間は単に客観的な世界に生きているだけではなく、また、通常理解されるような社会的行動の集団としての世界に生きているだけでもない。むしろ、それぞれに固有の言語に著しく依存しながら生きている。そして、その固有の言語は、それぞれの社会の表現手段となっているのである。こうした事実は、“現実の世界”がその集団における言語的習慣の上に無意識に築かれ、広範にまで及んでいることを示している。どんな二つの言語でさえも、同じ社会的現実を表象することにおいて、充分には同じではない。(Sapir, Mandelbaum, 1951) |
言語が異なれば、世界は異なってみえる |
ウラル=アルタイ語においては、主語の概念がはなはだしく発達していないが、この語圏内の哲学者たちが、インドゲルマン族や回教徒とは異なった目で「世界を眺め」[anders "in die Welt" blicken]、異なった途を歩きつつあることは、ひじょうにありうべきことである。ある文法的機能の呪縛は、窮極において、生理的価値判断と人種条件の呪縛でもある。(ニーチェ『善悪の彼岸』第20番、1986年) |
やっぱり日本人がとってもヘンなのは日本語使うのがいけないのかな、
言語は自我理想である | ||
言語は、個々人相互の同一化に大きく基づいた、集団のなかの相互理解適応にとって重要な役割を担っている。Die Sprache verdanke ihre Bedeutung ihrer Eignung zur gegenseitigen Verständigung in der Herde, auf ihr beruhe zum großen Teil die Identifizierung der Einzelnen miteinander.(フロイト『集団心理学と自我の分析』第9章、1921年) | ||
原初的な集団は、同一の対象を自我理想の場に置き、その結果おたがいの自我において同一化する集団である。Eine solche primäre Masse ist eine Anzahl von Individuen, die ein und dasselbe Objekt an die Stelle ihres Ichideals gesetzt und sich infolgedessen in ihrem Ich miteinander identifiziert haben.(フロイト『集団心理学と自我の分析』第8章) | ||
自我理想ってのは、結局、ラカンの父の名やファルスだ。 | ||
言語は父の名である | ||
言語は父の名である C'est le langage qui est le Nom-du-Père。( J.-A. MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses comités d'éthique,cours 4 -11/12/96) | ||
言語、法、ファルスとの間には密接な結びつきがある。父の名の法は、基本的に言語の法以外の何ものでもない。法とは何か? 法は言語である。Il y a donc ici un nœud très étroit entre le langage, la Loi et le phallus. La Loi du Nom-du-Père, c'est au fond rien de plus que la Loi du langage ; […] qu'est-ce que la Loi ? - la Loi, c'est le langage. (J.-A. MILLER, - L’Être et l’Un, 2/3/2011) |
日本語というとってもヘンな言語で同一化して、いくつかのムラ社会作ってーーたとえば左巻きムラ、右巻きムラのあいだでピント外れのいがみ合いやっているだけにしか見えないな、なんのピントが外れているのかってのは、もう何度もくりかえしたさ。
ところで次のような話を外してエクリチュールやらなんやらと輸入語を使っておバカなこと言ってたらダメなんだろうな、ファルス的主体を築きえない日本語で書くのはひょっとして「女性のエクリチュール」すぎるんじゃないかね、すこしはファルス化しないとな。バルト曰く日本人には主体も神もないだよ。日本には「中動態」顕揚などという、いかにも無知のままーーよく知らないがね、ネットで落ちてる発言を見る限りでは「ほどよく聡明な=凡庸な」って感しか抱けないなーーおバカなことを言ってしまう「哲学者」がいるらしいが。
音声言語の裏に漢字表象が張りついている日本語 |
記銘における兆候性あるいはパラタクシス性は、言語化によって整序されているとはいえ、その底に存在し続けている。それは日本語の会話において音声言語の裏に常に漢字表象が張りついているという高島俊男の指摘に相似的である。想起においても兆候性あるいはパラタクシス性は、影が形に添うごとく付きまとって離れない。(中井久夫「発達的記憶論」2002年『徴候・記憶・外傷』所収) |
礼儀作法の法「日本語」 |
私はすでに指摘したある事実から生ずることについて述べたい。エクリチュールが作用するものとしての、日本語 というラングの事実である。 それは、日本語の中にエクリチュールの効果が含まれているということであり、重要なのは日本語がエクリチュールに繋がれたままになっていること、そしてエクリチュールの効果を担っているものが、日本語では二つの異なった発音で読めるということにおいて、特殊なエクリチュールだということである。つまり音読みという、漢字が漢字としてそれ自体で発音される読み方、そして訓読みという、漢字が意味することを日本語で言う方法である。 漢字が文字であるという理由で、シニフィエの河を流れるシニフィアンの残骸がそこに示されているとみなすのは 滑稽であろう。隠喩の法則によってシニフィアンの支えとなるのは文字それ自体である。シニフィアンが文字を見せかけの網目のなかに捕らえるのは別のところ、ディスクールからである。 |
とはいえ、そこから、文字はあらゆるものと同じように本質的な指示対象として格上げされ、そしてそのことは主体の地位を変化させる。主体がおのれの基本的同一化[identification fondamentale]として、「一の徴[le trait unaire]」(=自我理想)にだけではなく、星座でおおわれた天空にも支えられることは、主体が「おまえ le Tu」によってしか支えられないことを説明する。「おまえ le Tu」によってというのは、つまり、あるゆる言表が自らのシニフィエの裡に含む礼儀作法の関係[relations de politesse ]によって変化するようなすべての文法的形態のもとでのみ、主体は支持されるということである。 (ラカン「リチュラテール Lituraterre, AE19, 1971年) |
一の徴は、主体を自我理想を形成する同一化のなかに主体を疎外する。le trait unaire qui,[…] aliène ce sujet dans l'identification première qui forme l'idéal du moi (ラカン 、E808, 1960) |
ラカン のいう礼儀作法ってのだって結局、オレはオマエに比べてエライというところに行き着くのであって要はアンチファルス、つまり二者関係的ってことだ、
二者関係的言語 |
いまさらながら、日本語の文章が相手の受け取り方を絶えず気にしていることに気づく。日本語の対話性と、それは相照らしあう。むろん、聴き手、読み手もそうであることを求めるから、日本語がそうなっていったのである。これは文を越えて、一般に発想から行動に至るまでの特徴である。文化だといってもよいだろう。(中井久夫「日本語の対話性」2002年『時のしずく』所収) |
日本語は本質的に「敬語的」 |
日本語は、つねに語尾において、話し手と聞き手の「関係」を指示せずにおかないからであり、またそれによって「主語」がなくても誰のことをさすかを理解することができる。それはたんなる語としての敬語の問題ではない。時枝誠記が言うように、日本語は本質的に「敬語的」なのである。(柄谷行人「内面の発見」『日本近代文学の起源』1980年) |
汝と汝の関係 |
私は、「日本人」において「経験」は複数を、更に端的には二人の人間(あるいはその関係)を定義する、と言った。〔・・・〕二人の人間を定義するということは、我々の経験と呼ぶものが、自分一個の経験にまで分析されえない、ということである。〔・・・〕肉体的に見る限り、一人一人の人間は離れている。常識的にはそこに一人の主体、すなわち自己というものを考えようとする誘惑を感ずるが、事態はそのように簡単ではない。〔・・・〕本質的な点だけに限っていうと、「日本人」においては、「汝」に対立するものは「我」ではないということ、対立するものも相手にとっての「汝」なのだ、ということである。〔・・・〕親子の場合をとってみると、親を「汝」として取ると、子が「我」であるのは自明のことのように思われる。しかし、それはそうではない。子は自分の中に存在の根拠をもつ「我」ではなく、当面「汝」である親の「汝」として自分を経験しているのである。〔・・・〕肯定的であるか、否定的であるかに関係なく、凡ては「我と汝」とではなく、「汝と汝」との関係に推移するのである。(森有正全集12 P64-65) |
もういくらか詳しい時枝誠記や森有正などの議論は、上にもリンクしたが「日本人には主体も神もない」を参照。