今まで断片的に示してきたが、ここではフロイトラカンにおける愛=享楽についての、可能なかぎりの簡潔なまとめを試みる。
フロイトのリビドー=エロス(愛)とは、ラカン の享楽のことである。《リビドーは愛と要約できる。Libido ist […] was man als Liebe zusammenfassen kann.》(フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)
リビドーは、愛の力の表出である。リビドー は自己保存欲動における「飢え」と同一である。Die Libido war in gleichem Sinne die Kraftäußerung der Liebe, wie der Hunger des Selbsterhaltungstriebes. (Freud, “Psychoanalyse” und “Libido Theorie”, 1923) |
すべての利用しうるエロスエネルギーを、われわれはリビドーと呼ぶ。die gesamte verfügbare Energie des Eros, die wir von nun ab Libido(フロイト『精神分析概説』死後出版1940年) |
ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものかを把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽である。Lacan a utilisé les ressources de la langue française pour attraper quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido, à savoir la jouissance. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011) |
何よりもまず、享楽はフロイトのエロス(愛)であることをしっかり認知すべきであるが、日本ではラカン派プロパでさえこのあたりが曖昧なままのようにみえる。だがラカン ははっきり言っているのである。
大他者の享楽[la Jouissance de l'Autre]…私は強調するが、ここではまさに何ものかが位置づけられる。…それはフロイトの融合としてのエロス、一つになるものとしてのエロスである[la notion que Freud a de l'Éros comme d'une fusion, comme d'une union]。(Lacan, S22, 11 Février 1975) |
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大他者の享楽は、享楽自体であり、したがって享楽=エロス(愛)である。
ただし愛=享楽には、大きく三区分がある。
次のものが愛の基本三区分である。
フロイトの別の用語、そしてラカン派用語なら次の通り。
今、想像界の項に示した「愛」とは「ナルシシズム」としてもよい(フロイトはこのナルシシズムを原ナルシシズムと区別するために二次ナルシシズムと呼んだ)。
ナルシシックな相の内部に陥らないどんな愛もない。〔・・・〕愛はナルシシズムである。qu'il n'y a pas d'amour qui ne relève de cette dimension narcissique, […] l'amour c'est le narcissisme (Lacan, S15, 10 Janvier 1968) |
自我は想像界の効果である。ナルシシズムは想像的自我の享楽である。Le moi, c'est un effet imaginaire. Le narcissisme, c'est la jouissance de cet ego imaginaire(J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse XX, Cours du 10 juin 2009) |
おそらくリアルな原ナルシシズム的リビドー、あるいはリアルな本来の享楽がわかりにくいだろうが、前者については「原ナルシシズムの原像」を参照。ここではリアルな享楽についてのみ記す。
大他者の享楽=自己身体の享楽=異者身体の享楽 |
ファルス享楽とは身体外のものである。大他者の享楽とは、言語外、象徴界外のものである。la jouissance phallique [JΦ] est hors corps, la jouissance de l'Autre [JA] est hors langage, hors symbolique, (ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974) |
大他者は身体である![L'Autre c'est le corps! ](ラカン、S14, 10 Mai 1967) |
大他者の享楽は、自己身体の享楽以外の何ものでもない。La jouissance de l'Autre, […] il n'y a que la jouissance du corps propre. (J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 8 avril 2009) |
自己身体の享楽はあなたの身体を異者としての身体にする。あなたの身体を大他者にする。ここには異者性の様相がある。[la jouissance du corps propre vous rende ce corps étranger, c'est-à-dire que le corps qui est le vôtre vous devienne Autre. Il y a des modalités de cette étrangeté.](J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 20 mai 2009) |
現実界のなかの異者概念は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある。une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance (J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6 -16/06/2004) |
異者身体とは、去勢によって分離されてしまった身体のことである。 |
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享楽は去勢である。la jouissance est la castration..(Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977) |
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去勢は、全身体から一部分の分離である。Kastration […] um die Ablösung eines Teiles vom Körperganzen handelt (フロイト『夢解釈』1900年、1919年註) |
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乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢、つまり「自己身体の重要な一部の喪失Verlust eines bedeutsamen, zu seinem Besitz gerechneten Körperteils 」と感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為 Geburtsakt がそれまで一体であった母からの分離Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war として、あらゆる去勢の原像 Urbild jeder Kastration であるということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註) |
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すなわち異者身体の享楽とは、自己身体とみなしていたが去勢されてしまった身体を取り戻そうとする、生きている存在には不可能な反復強迫運動のことである。 フロイトの異物(異者としての身体 Fremdkörper)をめぐる文をここではひとつだけ掲げよう。
この異者としての身体がフロイトラカン理論においての何よりもの核心である。 異者身体の享楽は、別名「女性の享楽」とも呼ばれるが、解剖学的女性の享楽とは基本的には関係がない。 |
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確かにラカンは第一期に「女性の享楽 jouissance féminine」の特性を「男性の享楽jouissance masculine」との関係にて特徴づけた。ラカンがそうしたのは、セミネール18 、19、20とエトゥルデにおいてである。だが第二期がある。そこでは女性の享楽は、享楽自体の形態として一般化される [la jouissance féminine, il l'a généralisé jusqu'à en faire le régime de la jouissance comme telle]。その時までの精神分析において、享楽形態はつねに男性側から考えられていた。そしてラカンの最後の教えにおいて新たに切り開かれたのは、「享楽自体の形態の原理」として考えられた「女性の享楽」である [c'est la jouissance féminine conçue comme principe du régime de la jouissance comme telle]。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2/3/2011) |
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ひとりの女は異者である。 une femme […] c'est une étrangeté. (Lacan, S25, 11 Avril 1978) |
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この異者身体の享楽(女性の享楽)こそ、死の欲動のことである。 |
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異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである。étrange au sens proprement freudien : unheimlich (Lacan, S22, 19 Novembre 1974) |
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心的無意識のうちには、欲動蠢動Triebregungenから生ずる反復強迫の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。〔・・・〕不気味なものとして感知されるものは、この内的反復強迫をinneren Wiederholungszwang思い起こさせるものである。(フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年) |
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われわれは反復強迫の特徴に、何よりもまず死の欲動を見出だす。 Charakter eines Wiederholungszwanges […] der uns zuerst zur Aufspürung der Todestriebe führte.(フロイト『快原理の彼岸』第6章、1920年) |
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すべての欲動は実質的に、死の欲動である。 toute pulsion est virtuellement pulsion de mort(Lacan, Position de l'inconscient, E848, 1964年) |
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死の欲動は現実界である。死は現実界の基礎である。La pulsion de mort c'est le Réel […] c'est la mort, dont c'est le fondement de Réel (Lacan, S23, 16 Mars 1976) |
基本的にはここまででよいのではないか。以下は確認の意味でもう少し付け加えておく。
ラカン は出生とともに「リビドーの控除」があると言っているが、これは上に示してたように「リビドー=愛=享楽」であり、愛の控除、享楽の控除のことである。 |
リビドー libido は、…人が性的再生産の循環 cycle de la reproduction sexuéeに従うことにより、生きる存在から控除される soustrait à l'être vivant。(ラカン、S11, 20 Mai 1964) |
(- φ) [le moins-phi] は去勢 castration を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 une soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(J.-A. MILLER , Retour sur la psychose ordinaire, 2009) |
ラカンの享楽回帰運動とはこの控除=喪失されたものを取り戻そうとする運動であり、究極的には母胎回帰運動である。 |
反復は享楽回帰に基づいている[la répétition est fondée sur un retour de la jouissance]。フロイトは断言している、反復自体のなかに、享楽の喪失があると[il y a déperdition de jouissance.]。ここにフロイトの言説における喪われた対象の機能[la fonction de l'objet perdu]がある。これがフロイトだ。…フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse」への探求の相がある。〔・・・〕享楽の対象[Objet de jouissance]としてのフロイトのモノ [La Chose]…それは、喪われた対象[objet perdu]である。(ラカン、S17、14 Janvier 1970) |
例えば胎盤は、個体が出産時に喪う己の部分、最も深く喪われた対象を示す。le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance (ラカン、S11、20 Mai 1964) |
人には、出生とともに、放棄された子宮内生活へ戻ろうとする欲動、母胎回帰がある。Man kann mit Recht sagen, mit der Geburt ist ein Trieb entstanden, zum aufgegebenen Intrauterinleben zurückzukehren, […] eine solche Rückkehr in den Mutterleib. (フロイト『精神分析概説』第5章、死後出版1940年) |
上に「享楽の対象としてのモノ=喪われた対象」とあったが、これが異者(異者としての身体)である。 |
フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ。La Chose freudienne […] ce que j'appelle le Réel (ラカン, S23, 13 Avril 1976) |
このモノは分離されており、異者の特性がある。〔・・・〕モノの概念、それは異者としてのモノである。ce Ding […] isolé comme ce qui est de sa nature étranger, fremde. […] La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger, (Lacan, S7, 09 Décembre 1959) |
究極の異者としての身体とは、母の身体にほかならない。 |
モノは母である。das Ding, qui est la mère (ラカン、 S7 16 Décembre 1959) |
ラカンは「母はモノである」と言った。母はモノのトポロジー的場に来る。これは、最終的にメラニー・クラインが、母の神秘的身体をモノの場に置いた処である。« la mère c'est das Ding » ça vient à la place topologique de das Ding, où il peut dire que finalement Mélanie Klein a mis à la place de das Ding le corps mythique de la mère. (J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme - 28/1/98) |
このモノが原初に去勢されて喪われた享楽の対象である。 |
モノは享楽の名である。das Ding[…] est tout de même un nom de la jouissance(J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XX, 10 juin 2009) |
去勢は享楽の名である。la castration est le nom de la jouissance 。 (J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un 25/05/2011) |
去勢は別名「穴」あるいは「トラウマ」と呼ばれる。 |
モノとしての享楽は斜線を引かれた大他者と等価である。la jouissance comme la Chose est équivalente à l'Autre barré [Ⱥ] (J.-A. MILLER, Les six paradigmes de la jouissance, 1999) |
穴の最も深淵な価値は、斜線を引かれた大他者である。le trou,[…] c'est la valeur la plus profonde, si je puis dire, de grand A barré. (J.-A. MILLER, LE LIEU ET LE LIEN, 6 juin 2001) |
人はみなトラウマ化されている 。〔・・・〕この意味はすべての人にとって穴があるということである[ tout le monde est traumatisé …ce qu'il y a pour tous ceux-là, c'est un trou. ](J.A. Miller, Vie de Lacan, 17/03/2010) |
現実界は穴=トラウマを為す。le Réel […] ça fait « troumatisme ».(ラカン、S21、19 Février 1974) |
大文字の母は原穴の名である。Mère, […] c’est le nom du premier trou(コレット・ソレールColette Soler, Humanisation ? , 2014) |
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以上、ここで記した内容は自我あるいは言語を使用する主体のレベルの話ではなく、欲動の身体(リビドーの身体)のレベルの話であり、通常は理解しがたいだろう。《自我は自分の家の主人ではない Ich […] es nicht einmal Herr ist im eigenen Hause》(フロイト『精神分析入門』第18講、1917年)
以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年) |
享楽の意志は欲動の名である。欲動の洗練された名である。Cette volonté de jouissance est un des noms de la pulsion, un nom sophistiqué de la pulsion.. (J.-A. Miller, LES DIVINS DETAILS, 17 MAI 1989) |
とはいえこのあたりは、私の知る限りでもプルーストやリルケ、あるいはバタイユ 、デュラスなどに暗示されていたり、ニーチェ、さらにはレオナルド・ダ・ヴィンチにも既に示されている話ではある。
(表面に現れているものではなく)別の言説が光を照射する。すなわちフロイトの言説において、死は愛である 。Un autre discours est venu au jour, celui de Freud, pour quoi la mort, c'est l'amour. (Lacan, L'Étourdit E475, 1970) |
究極的には死とリビドーは繋がっている。finalement la mort et la libido ont partie liée (J.-A. MILLER, L'expérience du réel dans la cure analytique - 19/05/99) |
死は享楽の最終的形態である。death is the final form of jouissance( PAUL VERHAEGHE, Enjoyment and Impossibility, 2006) |