このブログを検索

2020年7月5日日曜日

あたしは神よ


マダム・エドワルタの声は、きゃしゃな肉体同様、淫らだった。「あたしのぼろぎれが見たい?[Tu veux voir mes guenilles ? ]」両手でテーブルにすがりついたまま、おれは彼女ほうに向き直った。腰かけたまま、彼女は方脚を高々と持ち上げていた。それをいっそう拡げるために、両手で皮膚を思いきり引っぱり。こんなふうにエドワルダの《ぼろきれ》はおれを見つめていた。生命であふれた、桃色の、毛むくじゃらの、いやらしい蛸 [velues et roses, pleines de vie comme une pieuvre répugnante]。おれは神妙につぶやいた。「いったいなんのつもりかね。」「ほらね。あたしは神よ…[Tu vois, dit-elle, je suis DIEU...]」「おれは気でも狂ったのか……」「いいえ、正気よ。見なくちゃ駄目。見て!」(ジョルジュ・バタイユ『マダム・エドワルダMadame Edwarda』1937年)

愛するという感情は、どのように訪れるのかとあなたは尋ねる。彼女は答える、「おそらく宇宙のロジックの突然の裂け目から」。彼女は言う、「たとえばひとつの間違いから」。 彼女は言う、「けっして欲することからではないわ」。あなたは尋ねる、「愛するという感情はまだほかのものからも訪れるのだろうか」と。あなたは彼女に言ってくれるように懇願する。彼女は言う、「すべてから、夜の鳥が飛ぶことから、眠りから、眠りの夢から、死の接近から、ひとつの言葉から、ひとつの犯罪から、自己から、自分自身から、突然に、どうしてだかわからずに」。彼女は言う、「見て」。彼女は脚を開き、そして大きく開かれた彼女の脚のあいだの窪みにあなたはとうとう黒い夜を見る[Elle dit : Regardez. Elle ouvre ses jambes et dans le creux de ses jambes écartées vous voyez enfin la nuit noire]。あなたは言う、「そこだった、黒い夜[la nuit noire]、それはそこだ」(マルグリット・デュラス『死の病 La maladie de la mort』1981年)

人はみなよく知っている。神を信じる人すべてにとって、神は何を表象するのか、彼らにとって神はどんな置を占めているかを。そしてその場から神のペルソナを消去しても、何かが残る。空虚の場が。私が語りたかったのは、この空虚の場です。

tout le monde sait très bien ce que représente Dieu pour l’ensemble des hommes qui y croient, et quelle place il occupe dans leurs pensées, et je pense en supprimant le personnage de Dieu à cette place-là, il reste tout de même quelque chose, une place vide. C’est de cette place vide que j’ai voulu parler. (ジョルジュ・バタイユとマドレーヌ・シャプサルMadeleine Chapsal et Georges Bataill、1961年)

「大他者の大他者はある」という人間にとってのすべての必要性。人はそれを一般的に神と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、神とは単に「女というもの」だということである。La toute nécessité de l'espèce humaine étant qu'il y ait un Autre de l'Autre. C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme ». (ラカン, S23, 16 Mars 1976)

………………

◼️ヴェールは神である
ヴェールは無から何ものかを創造する[le voile crée quelque chose ex nihilo]。ヴェールは神である[Le voile est un Dieu]。(J.-A. Miller, 享楽の監獄 LES PRISONS DE LA JOUISSANCE 1994年)

◼️女は無を覆うヴェールである
我々は、見せかけを無を覆う機能と呼ぶ。Nous appelons semblant ce qui a fonction de voiler le rien(J.-A. Miller, Des semblants dans la relation entre les sexes、1997)
女は、見せかけに関して、とても偉大な自由をもっている!la femme a une très grande liberté à l'endroit du semblant ! (Lacan、S18, 20 Janvier 1971)

◼️ヴェールが落ちるとブラックホールが現れる
ジイドを苦悶で満たして止まなかったものは、女の形態の光景の顕現、女のヴェールが落ちて、ブラックホールのみを見させる光景の顕現である。あるいは彼が触ると指のあいだから砂のように滑り落ちるものである。[toujours le désolera de son angoisse l'apparition sur la scène d'une forme de femme qui, son voile tombé, ne laisse voir qu'un trou noir 2, ou bien se dérobe en flux de sable à son étreinte ](Lacan, Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir, Écrits 750、1958)
(『夢解釈』の冒頭を飾るフロイト自身の)イルマの注射の夢、…おどろおどろしい不安をもたらすイマージュの亡霊、私はあれを《メデューサの首 la tête de MÉDUSE》と呼ぶ。あるいは名づけようもない深淵の顕現と。あの喉の背後には、錯綜した場なき形態、まさに原初の対象 l'objet primitif そのものがある…すべての生が出現する女陰の奈落 abîme de l'organe féminin、すべてを呑み込む湾門であり裂孔le gouffre et la béance de la bouche、すべてが終焉する死のイマージュ l'image de la mort, où tout vient se terminer …(ラカン、S2, 16 Mars 1955)

◼️真の女は常にブラックホールである
真の女は常にメデューサである。une vraie femme, c'est toujours Médée.(J.-A. Miller, De la nature des semblants, 20 novembre 1991)
このS(Ⱥ) は、斜線を引かれた女性の享楽を示している。ce S(Ⱥ) je n'en désigne  rien d'autre que la jouissance de LȺ femme (ラカン, S20, 13 Mars 1973)
大他者の中の穴のシニフィアンをS (Ⱥ) と記す。signifiant de ce trou dans l'Autre, qui s'écrit S (Ⱥ)  (J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 15/03/2006)
あなたを吸い込むヴァギナデンタータ、究極的にはすべてのエネルギーを吸い尽すブラックホールとしてのS(Ⱥ)の効果…an effect of S(Ⱥ) as a sucking vagina dentata, eventually as an astronomical black hole absorbing all energy; (ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST?、1997)


ゴダール『(複数の)映画史』「1A」


◼️ あらゆる天使は恐ろしい
美しきものは恐ろしきものの発端にほかならず、ここまではまだわれわれにも堪えられる。われわれが美しきものを称賛するのは、美がわれわれを、滅ぼしもせずに打ち棄ててかえりみぬ、その限りのことなのだ。あらゆる天使は恐ろしい。
Denn das Schöne ist nichtsals des Schrecklichen Anfang, den wir noch grade ertragen, und wir bewundern es so, weil es gelassen verschmäht, uns zu zerstören. Ein jeder Engel ist schrecklich. (リルケ「ドゥイノ・エレギー」古井由吉訳)
美は現実界に対する最後の防衛である。la beauté est la défense dernière contre le réel.(J.-A. Miller, L'inconscient et le corps parlant, 2014)
現実界は穴=トラウマを為す。le Réel […] ça fait « troumatisme ».(ラカン、S21、19 Février 1974)



私の見解では、セクシャリティ自体の領野において不快の独立した源泉がある。Meine Meinung ist, es muss eine unabhängige Quelle der Unlustentbindung im Sexualleben geben.(Freud, Briefe an Wilhelm Fließ, 171, Manuskript K、1896)
こう言うと奇妙にきこえるかもしれないが、性欲動の本性そのもののなかに、その完全な満足達成を阻もうとするような何かがふくまれている、と私は考えている。Ich glaube, man müßte sich, so befremdend es auch klingt, mit der Möglichkeit beschäftigen, daß etwas in der Natur des Sexualtriebes selbst dem Zustandekommen der vollen Befriedigung nicht günstig ist. (フロイト『性愛生活が誰からも貶められることについて』1912)
構造的な理由により、女の原型は、危険な・貪り喰う大他者との同一化がある。それは起源としての原母 [primal mother] であり、元来彼女のものであったものを奪い返す存在である。したがって原母は純粋享楽の本源的状態[original state of pure jouissance]を再創造しようとする。

この理由で、セクシュアリティは、つねに魅惑と戦慄 [fascinans et tremendum]、つまりエロスとタナトスの混淆(融合と分離の混淆ーー欲動混淆Triebentmischung)なのである。これが明らかにすることは、セクシュアリティ自身の内部での本質的な葛藤である。どの主体も自らが恐れるものを憧憬する。つまり享楽の原状態 [original condition of jouissance ]の回帰憧憬である。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL、1995年)






ヒステリーは、原初の不快の経験を必ず前提とする。この不快の経験は受動性である。女性における自然な性的受動性は、ヒステリーに導かれる傾向を説明する。私が男にヒステリー を見出だすとき、そこにありあまるほどの性的受動性を立証しうる。Die Hysterie setzt notwendigerweise ein primäres Unlusterlebnis also passiver Natur voraus. Die natürliche sexuelle Passivität des Weibes erklärt die Bevorzugung desselben für die Hysterie. Wo ich Hysterie bei Männern fand, konnte ich ausgiebige sexuelle Passivität. (フロイト、フリース宛書簡 Briefe an Wilhelm Fließ, Dezember 1895)
不安は原初に快の源泉であった何ものかに起源がある。この快はラカンの「大他者の享楽」用語にて理解されなければならない。すなわち大他者の享楽の受動的対象としての子供の不安である。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST?, 1997)
欲動強迫[insistance pulsionnelle ]が快原理と矛盾するとき、不安と呼ばれる不快ある[il y a ce déplaisir qu'on appelle angoisse.。これをラカン は一度だけ言ったが、それで十分である。ーー《不快は享楽以外の何ものでもない déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance. 》( S17, 1970)ーー、すなわち不安は現実界の信号であり、モノの索引である[l'angoisse est signal du réel et index de la Chose]。(J.-A. MILLER,  Orientation lacanienne III, 6. - 02/06/2004)
モノは母である。das Ding, qui est la mère (ラカンS7, 16 Décembre 1959)


分析経験は、しばしばなされる次の主張の全き真理を我々に確信させれくれる。すなわち「子供は成人の心理学的な父である[das Kind sei psychologisch der Vater des Erwachsenen]」。幼児の最初期の出来事は、後の全人生において比較を絶した重要性を持つ。(フロイト『精神分析概説』第7章草稿、死後出版1940年)
(原母子関係には)母なる女の支配 dominance de la femme en tant que mère がある。…語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存 dépendance を担う母が。(ラカン、S17、11 Février 1970)